触れない距離
「どうぞ」
リオはそう言って、奥の席を指し示した。
声は落ち着いていて、さっき聞いたときと同じ温度だった。
「ありがとうございます……」
自分の声が、少し硬いのが分かる。
席につくまでの数歩が、やけに長く感じた。
椅子を引く音、カップが置かれる音。
全部が、いつもより大きく聞こえる。
向かい合って座ると、距離は思っていたより近い。
テーブル一枚分。それだけなのに、空気が違う。
「改めて。リオです」
軽く頭を下げられて、私は慌てて真似をする。
「花帆、です」
それだけのやり取りなのに、胸が落ち着かない。
どこを見て話せばいいのか分からなくて、視線が定まらない。
テーブル、カップ、窓の外。
行き場を探すみたいに、目が動く。
その間も、リオはまっすぐこちらを見ていた。
逸らさない。
でも、じっと見つめるわけでもない。
それが、余計に緊張する。
「緊張してます?」
責めるでも、からかうでもない声。
「……はい」
正直に答えると、リオは少しだけ口元を緩めた。
「そうですよね。初めてですし」
その言葉に、少し救われる。
沈黙が落ちる前に、彼が続けた。
「今日は、一時間でいいんですよね」
その一言で、ふっと現実に引き戻された。
——そうだ。
この人は、レンタル夫。
約束された時間。役割。
胸の奥が、少しだけ冷える。
「はい……」
自分で決めたはずなのに、どこか他人事のように聞こえた。
「何か、したいことはありますか?」
やわらかい問いかけ。
それなのに、頭の中が真っ白になる。
したいこと。
触れたい?
甘えたい?
それとも、ただ話したい?
どれも、本当で、どれも言葉にできない。
「……分かりません」
しばらくして、ようやくそれだけを絞り出す。
恥ずかしさで、頬が熱くなる。
リオは、少し考えるような間を置いてから言った。
「じゃあ、とりあえず、話しましょうか」
押しつけがましくない提案。
「一時間、ここで。何もしなくてもいいので」
“何もしなくてもいい”。
その言葉に、肩の力が抜けた。
「……はい」
小さく頷くと、リオは「うん」と短く返した。
それ以上、踏み込んでこない。
でも、離れもしない。
触れない距離。
それが、こんなにも意識にのぼるものだとは思わなかった。
私はカップに手を伸ばしながら、胸の奥で静かに思う。
——この一時間、きっと忘れられない。
まだ、何も起きていないのに。




