その日の朝
目覚ましが鳴る前に、目が覚めた。
薄く差し込む朝の光を見つめながら、私はしばらく動けずにいた。
胸の奥が、静かにざわついている。
今日は、あの日だ。
そう意識した瞬間、心臓が少しだけ速くなる。
逃げ出したい気持ちと、確かめたい気持ちが、同じ場所でせめぎ合っていた。
隣を見ると、誠はまだ眠っている。
変わらない寝顔。穏やかで、安心できるはずの風景。
——ごめんね。
声に出さずに、心の中でそう呟く。
私はそっと布団を抜け出し、キッチンへ向かった。
いつも通りの朝。
ご飯を炊いて、味噌汁を温めて、弁当の準備をする。
子どもたちを起こし、朝食を並べる。
中学生の娘は眠そうな顔で席につき、小学生の息子はテレビを見ながら箸を動かしている。
「今日、仕事早く終わるの?」
何気ない息子の一言に、胸がきゅっとなる。
「うん。少しだけね」
嘘ではない。
それでも、全部を隠していることに変わりはなかった。
誠は新聞を畳みながら、「気をつけて」とだけ言った。
それ以上でも、それ以下でもない。
この人は、私が少し違う朝を迎えていることに、きっと気づかない。
子どもたちを送り出し、誠も家を出ると、家の中が一気に静かになった。
私は時計を見る。
まだ、時間はある。
クローゼットの前に立ち、しばらく動けなかった。
仕事用の服は、もう手に取らない。
久しぶりに、選ぶ。
誰かのためじゃなく、自分の気持ちのために。
派手すぎないワンピース。
体のラインを強調しすぎないけれど、女性らしさが残るもの。
鏡の前で、袖を整える。
少し迷って、アクセサリーを一つだけつけた。
こんなふうに服を選ぶのは、いつぶりだろう。
鏡に映る自分を、まじまじと見る。
疲れが見えないわけじゃない。
でも、思っていたより、悪くない。
私は、そっと口角を上げてみた。
——笑える。
ぎこちなくても、ちゃんと笑顔になっている。
胸の奥が、少しだけ軽くなった。
会社では、早退の手続きを淡々と済ませた。
理由は「私用」。
誰も深く聞いてこない。
職場を出た瞬間、空気が変わった気がした。
平日の昼下がり。人通りは少なく、街は静かだ。
約束の時間までは、まだ少しある。
私はゆっくりと、待ち合わせ場所へ向かう。
歩きながら、何度も頭の中で確認する。
一時間だけ。
子どもたちが帰る前には、必ず家に戻る。
それ以上は、踏み込まない。
言い聞かせるたびに、不安と一緒に、わくわくした気持ちが顔を出す。
私は今、何を期待しているのだろう。
駅前のカフェが見えてきた。
待ち合わせ場所。
深呼吸をひとつ。
胸の奥で、何かが静かに、確かに動いている。
私は、約束の場所に足を踏み入れた。




