キャンセル画面
その夜、布団に入ってからも、眠気は一向に訪れなかった。
隣では、誠が規則正しい寝息を立てている。
背中を向け合う形は、もう何年も変わっていない。触れ合わなくても、違和感を覚えなくなった距離。
スマートフォンをそっと手に取る。
画面の明かりが、暗い寝室を淡く照らした。
――予約詳細。
日付、時間、場所。
すべてが整然と並んでいて、現実味があった。
画面の下に、小さく表示されている文字。
【キャンセルする】
指を伸ばせば、すぐに押せる。
それなのに、なぜか指先が止まる。
「……」
心臓の音が、やけに大きく聞こえた。
やっぱり、やめた方がいい。
そう思う理由はいくらでも浮かぶ。
誠を裏切ることになる。
子どもたちに、胸を張れなくなる。
今まで築いてきたものを、自分で壊すかもしれない。
キャンセルボタンを押せば、すべてなかったことになる。
この三年間と同じように、また日常に戻れる。
そう考えた瞬間、胸の奥が、きゅっと縮んだ。
――戻る、ってどこに?
静かな寝室で、誠の寝息だけが続いている。
この人は、何も知らない。
私が、こんなにも揺れていることを。
昼間のことが、ふと蘇る。
「今日、ちょっと遅くなる」
夕方、そう言った私に、誠は「分かった」と短く答えただけだった。
心配も、詮索もない。その淡白さが、ありがたくもあり、寂しくもある。
私は、何を求めているんだろう。
もう一度、キャンセル画面を見る。
そのすぐ上には、確定された予定がある。
一時間だけ。
名前も、過去も、共有しない関係。
ただ向き合って、話して、触れない距離を確かめるための時間。
昨日までの私なら、ここで押していたかもしれない。
怖くなって、逃げるように。
でも今は、違う。
――確かめたいだけ。
第3話で口にした言葉が、胸の中で静かに響く。
女として、まだ終わっていないと。
必要とされる感覚が、どんなものだったのか。
それを、思い出したいだけ。
隣で誠が、寝返りを打つ。
一瞬、心臓が跳ねるが、目を覚ます気配はない。
私は、そっとスマートフォンを伏せた。
キャンセルは、しなかった。
でも、確定ボタンを押したわけでもない。
ただ、画面を閉じただけ。
中途半端で、卑怯で、私らしい選択。
それでも今は、それでいいと思えた。
目を閉じると、胸の奥に小さな不安と、同じくらいの期待が並んでいるのを感じる。
まだ、決めていない。
でも、もう戻れない場所があることだけは、分かっていた。




