言えない理由
夕飯のあと、
キッチンで食器を洗っていると、
誠が後ろに立った。
「最近さ」
不意にかけられた声に、
花帆の手が一瞬止まる。
「どうした?」
いつもの調子。
軽くて、何気ない。
水の音を続けながら、
花帆は「ううん」とだけ返そうとした。
でも。
「難しい顔してること、多いよ」
その一言で、
胸の奥が、ひくりと動いた。
「悩み事?」
責めるでもなく、
探るでもなく。
本当に、
気づいただけの声だった。
――言えたら、楽なのに。
そう思う。
「ちょっと、考え事してて」
それくらいなら言える。
でも、それ以上が出てこない。
悩んでる理由。
触れられない距離。
女としての自分。
全部、
言葉にした瞬間に壊れてしまいそうで。
誠は、それ以上踏み込まなかった。
「そっか」
それだけ言って、
花帆の隣に並ぶ。
洗い終わった皿を、
黙って拭き始める。
この距離。
この優しさ。
――違う。
そうじゃない、と
心の中で叫ぶ。
言ってしまえばいい。
「寂しい」
「触れてほしい」
「抱きしめてほしい」
言えたら、
どんな反応が返ってくるんだろう。
困った顔。
戸惑い。
それとも、変わらない「そっか」。
そのどれもが、怖い。
沈黙が続く。
誠は、変わらず優しい。
何も変えようとしない。
それが、
花帆には少しだけ、つらかった。
「……大丈夫だよ」
自分でも、
誰に向けた言葉かわからないまま、
そう言った。
誠は「無理すんなよ」と笑った。
その笑顔に、
胸が、きゅっと締めつけられる。
言えなかった。
今日も。
言えば楽になるかもしれないのに、
言えない理由ばかりが、
心に浮かぶ。
洗い終わった食器を片づけながら、
花帆は、ふと思う。
――私は、
――何を守ろうとしているんだろう。
誠との生活?
家族?
それとも、
壊れないふりをしている自分?
答えは、まだ出ない。
ただ、
言えなかった重さだけが、
静かに残っていた。




