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触れない距離 ――一時間だけの夫と、結婚十五年目の私  作者: オレンジ


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誰にも言えない夜

一日が、やけに長く感じられた。


 仕事中はいつも通りに笑って、必要な会話をして、パソコンの画面を眺めていた。忙しさに紛れていれば、朝のメールのことも、少しは忘れられると思っていたのに、ふとした瞬間に思い出してしまう。


 予約完了メール。


 それだけで、胸の奥がきゅっと縮む。


 同僚との雑談の中で、誰かが「うちは旦那が全然手伝わなくてさ」と愚痴をこぼした。別の誰かが「それでも一緒にいるんだから、仲いいんじゃない?」と笑う。


 私は曖昧に笑って、相槌を打った。


 円満な夫婦。

 周囲から見れば、きっとそう見えている。


 誠は優しいし、子どもたちもいい子に育っている。大きな喧嘩もない。わざわざ誰かに相談するほどのことじゃない、そう思われるに違いない。


 ——夜のことさえ、なければ。


 でも、それを口にした瞬間、空気が変わってしまうのが分かっていた。心配させてしまうかもしれないし、軽く流されてしまうかもしれない。何より、自分で言葉にするのが、少し怖かった。


 「それって、贅沢なんじゃない?」


 もし、そう言われたら。

 私は何と答えればいいのだろう。


 家に帰ると、夕食の準備をして、子どもたちの話を聞き、誠と他愛ない会話を交わす。テレビを見ながら笑って、食器を片付けて、いつもの一日が終わっていく。


 寝室に入ると、誠は先に布団に入って、スマートフォンを少し触ったあと、「おやすみ」と言ってすぐに目を閉じた。


 その横顔を見ながら、私は何も言えずに電気を消す。


 暗闇の中で、目だけが冴えていた。


 どうしよう。

 キャンセルする?

 なかったことにする?


 考えれば考えるほど、答えは出なかった。


 リビングに戻り、音を立てないようにソファに座る。テレビをつけると、深夜番組で若いタレントが楽しそうに話していた。


 「最近の子は、悩みがあったらチャットGPTに相談するらしいですよ」


 画面の中の言葉に、思わず手が止まる。


 相談、か。


 誰かに話したい。でも、誰にも話せない。

 そんな気持ちを、見透かされたような気がした。


 名前も顔も知らない相手。正解を出されるわけでもない。ただ、話を投げてみるだけ。それなら——。


 スマートフォンを手に取り、検索欄に「ChatGPT」と入力する。使ったことはない。何を書けばいいのかも分からない。


 しばらく画面を眺めてから、私はゆっくりと文字を打ち始めた。


『結婚十五年目の主婦です。夫のことは好きで、家庭もうまくいっています。でも、ずっと触れ合いがなくて……』


 途中で、指が止まる。

 こんなこと、打っていいのだろうか。


 少し迷ってから、文章を整えず、そのまま送信した。


 返事は、すぐに来た。


『それは、とても悩ましいですね。

 今のあなたにとって、一番苦しいのはどんな気持ちでしょうか』


 画面を見つめながら、息を吐く。


 責められない。

 軽くも扱われない。


 ただ、問い返されただけなのに、胸の奥に溜まっていたものが、少しだけ緩んだ気がした。


 私は、もう一度スマートフォンを握りしめる。


 この夜だけは、誰にも聞かれない。

 誰にも見られない。


 そう思ったら、ほんの少しだけ、正直になってもいい気がした。



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