誰にも言えない夜
一日が、やけに長く感じられた。
仕事中はいつも通りに笑って、必要な会話をして、パソコンの画面を眺めていた。忙しさに紛れていれば、朝のメールのことも、少しは忘れられると思っていたのに、ふとした瞬間に思い出してしまう。
予約完了メール。
それだけで、胸の奥がきゅっと縮む。
同僚との雑談の中で、誰かが「うちは旦那が全然手伝わなくてさ」と愚痴をこぼした。別の誰かが「それでも一緒にいるんだから、仲いいんじゃない?」と笑う。
私は曖昧に笑って、相槌を打った。
円満な夫婦。
周囲から見れば、きっとそう見えている。
誠は優しいし、子どもたちもいい子に育っている。大きな喧嘩もない。わざわざ誰かに相談するほどのことじゃない、そう思われるに違いない。
——夜のことさえ、なければ。
でも、それを口にした瞬間、空気が変わってしまうのが分かっていた。心配させてしまうかもしれないし、軽く流されてしまうかもしれない。何より、自分で言葉にするのが、少し怖かった。
「それって、贅沢なんじゃない?」
もし、そう言われたら。
私は何と答えればいいのだろう。
家に帰ると、夕食の準備をして、子どもたちの話を聞き、誠と他愛ない会話を交わす。テレビを見ながら笑って、食器を片付けて、いつもの一日が終わっていく。
寝室に入ると、誠は先に布団に入って、スマートフォンを少し触ったあと、「おやすみ」と言ってすぐに目を閉じた。
その横顔を見ながら、私は何も言えずに電気を消す。
暗闇の中で、目だけが冴えていた。
どうしよう。
キャンセルする?
なかったことにする?
考えれば考えるほど、答えは出なかった。
リビングに戻り、音を立てないようにソファに座る。テレビをつけると、深夜番組で若いタレントが楽しそうに話していた。
「最近の子は、悩みがあったらチャットGPTに相談するらしいですよ」
画面の中の言葉に、思わず手が止まる。
相談、か。
誰かに話したい。でも、誰にも話せない。
そんな気持ちを、見透かされたような気がした。
名前も顔も知らない相手。正解を出されるわけでもない。ただ、話を投げてみるだけ。それなら——。
スマートフォンを手に取り、検索欄に「ChatGPT」と入力する。使ったことはない。何を書けばいいのかも分からない。
しばらく画面を眺めてから、私はゆっくりと文字を打ち始めた。
『結婚十五年目の主婦です。夫のことは好きで、家庭もうまくいっています。でも、ずっと触れ合いがなくて……』
途中で、指が止まる。
こんなこと、打っていいのだろうか。
少し迷ってから、文章を整えず、そのまま送信した。
返事は、すぐに来た。
『それは、とても悩ましいですね。
今のあなたにとって、一番苦しいのはどんな気持ちでしょうか』
画面を見つめながら、息を吐く。
責められない。
軽くも扱われない。
ただ、問い返されただけなのに、胸の奥に溜まっていたものが、少しだけ緩んだ気がした。
私は、もう一度スマートフォンを握りしめる。
この夜だけは、誰にも聞かれない。
誰にも見られない。
そう思ったら、ほんの少しだけ、正直になってもいい気がした。




