送ってしまった朝
朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
いつもと同じ時間。
いつもと同じ台所。
フライパンを温めながら、花帆はスマホをキッチンカウンターの端に置いた。
画面は、伏せてある。
見なければいい。
そう思っているのに、視線は何度もそこへ戻る。
洗濯機を回し、味噌汁の火を弱め、
その合間に、ついスマホを手に取ってしまう。
昨夜から、何度目だろう。
リオからのメッセージ。
その下に、まだ何も並んでいない自分の言葉。
《気にしてくださってありがとうございます》
途中まで打って、止まっている文章。
送る理由は、ある。
でも、送ったあとの自分が、想像できない。
――送ったら、どうなる?
また返事が来る。
やり取りが始まる。
それは、もう「一時間だけ」じゃない。
花帆は、スマホを置いた。
今日は、やめておこう。
そう決める。
なのに、数分後にはまた手に取っている。
「……だめだな」
自分に小さく言い聞かせながら、
文章を消そうとして、指が止まった。
そのときだった。
「ママ?」
背後から、突然声がする。
「っ……!」
心臓が跳ねて、
花帆の肩がびくりと揺れた。
振り向くと、息子が眠そうな顔で立っている。
「どうしたの?」
「喉かわいた」
「あ、うん、今出すね」
慌ててコップを取り、
その拍子に、スマホが手の中で傾いた。
画面が光る。
――送信しました
一瞬、意味がわからなかった。
視線を落とすと、
そこには、送信済みの表示。
《気にしてくださってありがとうございます》
……送った?
指先が冷たくなる。
「……あ」
声にならない声が漏れた。
息子は何も気づかず、
コップを受け取って水を飲んでいる。
時間は、止まらない。
取り消しはできない。
戻れない。
花帆は、スマホを握りしめた。
あんなに悩んで、
あんなに怖がって、
慎重に慎重に踏みとどまっていたのに。
きっかけは、ほんの一瞬。
事故みたいなものだった。
でも――
送ったのは、自分だ。
胸の奥が、ざわざわと騒ぎ始める。
これで、何かが変わる。
もう、何もなかった朝には戻れない。
花帆は、息子の頭をそっと撫でながら、
スマホの画面を伏せた。
返事が来るかどうか。
それは、まだわからない。
ただ一つ確かなのは、
花帆自身が、扉を押してしまったということだった。




