戻らない余韻
誠が出勤してから、家の中はいつも通り静かだった。
洗濯機を回し、掃除機をかけ、子どもたちを送り出す。
やるべきことは、ちゃんとこなしている。
それなのに、心だけが少し遅れている気がした。
朝の玄関。
言いかけて、飲み込んだ言葉。
何度思い返しても、胸の奥がじくりと痛む。
――今さら、どうしようもないのに。
自分にそう言い聞かせて、花帆は仕事へ向かった。
職場では、いつも通りに笑った。
同僚の何気ない会話に相槌を打ち、仕事も滞りなく進める。
「花帆さん、今日なんか元気ない?」
そんな一言に、少しだけ心臓が跳ねた。
「そう? 大丈夫だよ」
即座に返した自分の声は、思った以上に自然だった。
誰にも気づかれない。
それが当たり前で、少しだけ安心する。
昼休み、スマホを手に取る。
特に用はないはずなのに、画面を開く。
通知は、何もない。
それなのに、無意識に指が動きそうになる。
リオの名前が、頭の片隅に浮かぶ。
――今、連絡したらどうなるんだろう。
ただそれだけの想像なのに、胸の奥がざわついた。
すぐに、スマホを伏せる。
だめだ。
まだ、何も決めていない。
仕事を終え、帰宅する頃には、外はすっかり暗くなっていた。
玄関を開けると、子どもたちの声が聞こえる。
「おかえり!」
その声に、自然と笑顔がこぼれる。
母としての自分は、ちゃんとここにいる。
それは、揺るがない。
夕食の支度をしながら、花帆はふと、カフェの光景を思い出した。
向かい合って座る距離。
自分の話を、遮らずに聞いてくれた時間。
――あれは、特別だった。
そう思ってしまう自分を、否定できない。
夜、子どもたちが寝静まり、リビングの電気を落とす。
誠はまだ帰っていなかった。
静かな部屋で、花帆はソファに座り、天井を見上げる。
一時間だけの時間。
触れない距離。
それなのに、どうしてこんなにも残っているのだろう。
誠が帰宅し、シャワーを浴びる音が聞こえる。
その気配に、花帆は現実へ引き戻される。
――私は、ここにいる。
家族のいる場所。
守りたい日常。
でも同時に、はっきりとわかってしまった。
あの一時間は、もう過去じゃない。
忘れようとしても、なかったことにはならない。
スマホを手に取る。
画面は暗いまま。
連絡は、しない。
でも、消すこともできない。
その曖昧な距離が、今の自分そのもののようだった。
花帆は、静かに息を吐く。
今日一日、何も起きなかった。
それなのに、もう元の場所には戻れない気がしていた。




