飲み込んだ言葉
朝は、いつも通りにやってきた。
トースターの音。
味噌汁の湯気。
子どもたちの、眠そうな声。
特別なことは何もない。
それが、少しだけ救いでもあり、苦しくもある。
「今日、部活あるんだっけ?」
誠が娘に声をかける。
花帆はフライパンを火にかけながら、その声を背中で聞いていた。
――言うなら、今だ。
そう思うのに、口は動かない。
食卓に並んだ朝食を、家族はいつものように囲む。
誠はコーヒーを飲みながら、ちらりと花帆を見た。
「最近、ちゃんと寝れてる?」
その一言に、胸がきゅっと縮む。
「……うん」
反射的に答えてしまった自分が、少し嫌だった。
誠はそれ以上、踏み込まない。
代わりに、少しだけ眉を下げて言う。
「体調悪かったら、ちゃんと言えよ」
優しさから出た言葉。
責める気配は、どこにもない。
花帆は、曖昧にうなずいた。
――違う。
――そうじゃない。
体調の話じゃない。
でも、それをどう言えばいいのかわからない。
誠は時計を見て、立ち上がった。
「そろそろ行くな」
子どもたちに声をかけ、鞄を持つ。
玄関へ向かうその背中を、花帆は見つめていた。
「……ねえ、誠」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
誠が振り返る。
「ん?」
その一音で、言葉が一気に喉に詰まる。
抱きしめてほしい。
触れてほしい。
私を、見てほしい。
どれも、今のこの空気には重すぎた。
沈黙が、ほんの一瞬流れる。
「……なんでもない」
そう言った自分の声は、思ったよりもはっきりしていた。
「そう?」
誠は不思議そうに首を傾げるけれど、深くは追及しない。
「じゃ、行ってくる」
いつも通りの声で、ドアが閉まる。
玄関に残された静けさが、やけに大きく感じられた。
花帆は、その場に立ち尽くしたまま、動けずにいた。
今、言えなかった。
言わなかったのではなく、言えなかった。
その事実が、じわじわと胸に広がっていく。
洗い物をしながら、さっきの場面を何度も思い返す。
あの一瞬で、全部を決める必要はなかったはずなのに。
――どうして、言えなかったんだろう。
答えは、わかっている。
壊したくなかった。
この日常を。
この、平穏を。
でも同時に、思ってしまう。
言葉にできないまま、
気持ちだけが、どこかに置き去りになっていく。
それは、少しずつ、確実に――
花帆を一人にしていく感覚だった。




