やさしさの向こう側
夕食を終えて、キッチンに立つ。
フライパンを洗いながら、花帆は背後の気配を意識していた。
ソファでは、誠がテレビを見ている。
ニュースの音と、時折聞こえる笑い声。
いつもと変わらない、平日の夜。
それでも今日は、少しだけ違った。
花帆は、洗い終えた皿を拭きながら、何度も誠のほうを見る。
視線を向けているつもりなのに、彼は気づかない。
……気づいて、ほしい。
自分でも驚くほど、その気持ちがはっきりしていた。
「ねえ」
声をかけると、誠が振り返る。
「ん?」
その一音だけで、胸がきゅっと縮む。
続く言葉が、喉の奥で絡まって出てこない。
「今日……」
そこまで言って、花帆は口を閉じた。
今日、なんなのか。
今日、どうしてほしいのか。
自分でも、うまく言葉にできなかった。
「どうした?」
誠はリモコンを置いて、花帆を見る。
その顔は、心配そうで、優しい。
「疲れてる?」
その一言で、何かがずれた。
「……ううん」
花帆は小さく首を振る。
疲れていないわけじゃない。
でも、それじゃない。
「無理しなくていいよ。今日は俺が片づけるから」
誠はそう言って、立ち上がる。
花帆の手から、ふきんを取った。
「え、いいよ」
「いいから。先に座ってな」
その声は、いつも通りだった。
責めるでもなく、距離を詰めるでもなく。
――違う。
花帆は、心の中でそう呟く。
そうじゃない。
助けてほしいわけじゃない。
休ませてほしいわけでもない。
ただ、近くに来てほしかった。
触れてほしかった。
ソファに座りながら、花帆は誠の背中を見る。
キッチンに立つその姿は、家族思いの夫そのものだ。
文句を言う理由なんて、どこにもない。
それが、余計につらい。
夜、ベッドに入る。
部屋の電気を消すと、静けさが広がった。
誠はすぐに寝息を立て始める。
今日も、あっという間だ。
花帆は、体を少しずらして、誠に近づく。
腕と腕が、かすかに触れる。
その小さな接触だけで、胸が高鳴る。
でも誠は、やはり何も反応しない。
花帆は、思い切って、もう少し距離を詰めた。
肩が、しっかりと触れる。
……何も、起きない。
誠は寝返りを打ち、少し距離ができた。
その瞬間、花帆の中で何かが折れた気がした。
期待してしまった自分が、恥ずかしくて、情けない。
――このままじゃ、だめだ。
その思いだけが、胸の奥で重く残る。
でも、じゃあどうすればいいのかは、わからない。
花帆は天井を見つめながら、そっと息を吐いた。
誠の優しさは、変わらない。
変わったのは、自分だけ。
その事実が、静かに、でも確実に花帆を追い詰めていった。




