触れない距離の違和感
「無理しなくていいよ」
誠はそう言って、洗い物の途中だった手を止めた。
「今日は俺がやるから。先に休んでて」
その声は、いつも通り穏やかで、気遣いに満ちている。
——優しい。
素直に、そう思う。
結婚して十五年。
この人は、変わらず家族を大切にしてくれる。
私の体調や様子にも、ちゃんと気づいてくれる。
「ありがとう」
そう答えながら、胸の奥が、少しだけざわついた。
嬉しい。
でも、それだけじゃない。
——そうじゃないの。
喉まで出かかった言葉を、飲み込む。
自分でも、何が違うのか、うまく説明できない。
だから、言えない。
花帆自身が、一番戸惑っていた。
ベッドに入り、電気を消す。
しばらくして、誠が隣に横になる。
同じ布団。
同じ距離。
それなのに、妙に遠い。
背中越しに伝わる体温を感じながら、私は目を閉じた。
眠ろうとしても、意識が冴えてしまう。
三年。
数字にすると、あらためて長い。
触れなかった時間。
触れようとしなかった時間。
隣で眠っているのに、手を伸ばすことすら、こんなに勇気がいるなんて。
——私から、触れていいの?
問いが、頭の中でぐるぐると回る。
拒まれたらどうしよう。
困らせたらどうしよう。
でも。
触れたい。
その気持ちだけは、はっきりしていた。
誠は、変わらず静かな寝息を立てている。
何も知らない。
私の中で起きている、この小さな嵐に。
私は、そっと体を横にずらした。
いきなり抱きつくなんて、できない。
そんな勇気は、まだない。
だから、慎重に。
本当に、そっと。
腕が、誠の腕に触れるか触れないかのところで止まる。
一瞬、息を止める。
……触れた。
ほんの少し。
袖越しに、確かに。
誠は、目を覚まさない。
寝息も、変わらない。
それが、少しだけ寂しくて、少しだけ安心する。
私は、そのまま動かずに、目を閉じた。
抱きしめてもらえたわけじゃない。
何かが始まったわけでもない。
それでも。
触れない距離から、ほんの一歩だけ、踏み出した夜。
その感触を、胸の奥に残したまま、私は静かに眠りについた。




