帰る場所
家に帰る頃には、いつもの時間帯になっていた。
玄関のドアを開けると、見慣れた靴が並んでいる。
子どもたちのスニーカーと、誠の革靴。
——帰ってきた。
そう思うと、胸の奥がほっとする。
この場所は、嫌いじゃない。
むしろ、大切な場所だ。
「おかえり」
リビングから、娘の声がする。
「ただいま」
自然に返事ができる。
エプロンをつけて、夕飯の準備を再開する。
学校の話、部活の愚痴、明日の予定。
私は、ちゃんと母親に戻っている。
それは、思っていたより簡単だった。
包丁を握る手も、声のトーンも、いつも通り。
さっきまでの時間が、夢だったみたいに。
——でも。
ふとした瞬間、あのカフェの空気がよみがえる。
向かい合って座った距離。
名前を呼ばれた声。
何も起きていないのに、満たされていた感覚。
私は、首を振る。
思い出しても、意味はない。
もう終わった一時間だ。
夕食の時間になり、誠も帰ってきた。
「おかえり」
「ただいま」
いつもと同じやり取り。
誠はネクタイを外しながら、子どもたちの話を聞いている。
その様子を、私は無意識に見つめていた。
——こんな顔、してたっけ。
優しい。
穏やかで、変わらない。
それなのに、胸の奥に、わずかな違和感が生まれる。
今まで、見ていなかったわけじゃない。
でも、今日の私は、誠を「夫」としてではなく、ひとりの男性として見てしまっている。
比べるつもりなんてなかったのに。
「……どうかした?」
誠が、ふいにこちらを見る。
見つめすぎていたことに気づき、私は少し慌てた。
「え? ううん、なんでもない」
自分でも分かるくらい、返事が早かった。
誠は特に気にした様子もなく、また子どもたちに視線を戻す。
その淡白さが、今日は少しだけ胸に刺さる。
嫌いじゃない。
この人と築いてきた日々を、否定する気もない。
でも。
私は、知ってしまった。
向き合われる感覚を。
一人の女性として、見られる時間を。
食器を片付けながら、誠の背中を見る。
その距離は、いつもと同じはずなのに。
——触れたい。
そんな気持ちが、ふいに浮かんでしまった。
自分でも驚くほど、はっきりと。
私は、その思いを、そっと胸の奥に押し戻す。
ここが、帰る場所だ。
それは、変わらない。
けれど、同時に思ってしまう。
この距離を、
私は、もう「触れない距離」のままでいられるのだろうか、と。




