表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
触れない距離 ――一時間だけの夫と、結婚十五年目の私  作者: オレンジ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/11

予約完了メール

朝は、いつも通りだった。


 目覚ましが鳴る前に目が覚めて、隣で眠る夫の背中を一瞬だけ見る。誠は寝息も立てず、少し丸まるようにして眠っていた。昔から変わらない姿だ。


 キッチンに立ち、冷蔵庫を開ける。卵とハム、昨日の残りのほうれん草。フライパンを温めながら、今日は何曜日だったかを考える。中学生の娘は部活、小学五年の息子はいつもより少し早い登校日。


 いつもと同じ朝。

 それなのに、胸の奥だけが、妙にざわついていた。


 テーブルの上に置いたスマートフォンが震えた。

 通知の表示を見て、指が止まる。


【ご予約ありがとうございます】


 一瞬、何のことかわからなかった。

 けれど、次の瞬間、昨夜の記憶が一気に押し寄せてくる。


 会社の歓迎会。久しぶりに飲みすぎたこと。帰りの電車で、ぼんやりとスマホを眺めていたこと。そして、何度も目にしてきた、あの広告。


「レンタル夫」


 最初は笑って流していた。

 私には関係ない。そう言い聞かせて、何度も閉じてきたはずなのに。


 メールを開くと、淡々とした文章が並んでいる。日時、場所、担当者名。どれも事務的で、感情の入り込む余地なんてなさそうだった。


 なのに、心臓だけが、少し早く打っている。


「……花帆?」


 背後から名前を呼ばれて、肩が跳ねた。


 振り返ると、いつの間に起きてきたのか、誠が立っていた。眠そうな目で、私の手元を一瞬だけ見る。


「どうした?」


 咄嗟に、スマートフォンの画面を伏せる。


「ううん、何でもない。ちょっと、通知が来ただけ」


 自分でも驚くほど、声は普通だった。

 誠はそれ以上何も聞かず、キッチンに向かってコーヒーを淹れ始める。


 そういうところが、昔から変わらない。

 深く踏み込まず、必要以上に触れない。その距離感が、私には心地よくもあり、時々、ひどく寂しくもあった。


 この人は、優しい。

 子どもたちの行事を忘れないし、私の誕生日も、結婚記念日も、ちゃんと覚えている。


 今でも、好きだと思う。


 それなのに——。


 子どもたちが起きてきて、朝の支度が始まる。

 いつも通りの会話。いつも通りの時間。


 でも、テーブルの上に伏せたままのスマートフォンが、ずっと気になっていた。


 削除すればいい。キャンセルすればいい。

 それだけのはずなのに、どこかで、消してしまうのが惜しいと思っている自分がいる。


 女として見られなくなったわけじゃない。

 そう言い聞かせてきた。


 けれど、誰にも触れられないまま過ぎていく夜が、いつの間にか三年になっていた。


「行ってきます」


 玄関で靴を履く誠の背中に、「行ってらっしゃい」と返す。

 ドアが閉まる音を聞いてから、私はもう一度スマートフォンを手に取った。


 画面に表示されたままの、予約完了メール。


 触れない距離の向こう側に、何があるのか。

 それを確かめたいと思ってしまったことを、私はまだ、誰にも話していない。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ