予約完了メール
朝は、いつも通りだった。
目覚ましが鳴る前に目が覚めて、隣で眠る夫の背中を一瞬だけ見る。誠は寝息も立てず、少し丸まるようにして眠っていた。昔から変わらない姿だ。
キッチンに立ち、冷蔵庫を開ける。卵とハム、昨日の残りのほうれん草。フライパンを温めながら、今日は何曜日だったかを考える。中学生の娘は部活、小学五年の息子はいつもより少し早い登校日。
いつもと同じ朝。
それなのに、胸の奥だけが、妙にざわついていた。
テーブルの上に置いたスマートフォンが震えた。
通知の表示を見て、指が止まる。
【ご予約ありがとうございます】
一瞬、何のことかわからなかった。
けれど、次の瞬間、昨夜の記憶が一気に押し寄せてくる。
会社の歓迎会。久しぶりに飲みすぎたこと。帰りの電車で、ぼんやりとスマホを眺めていたこと。そして、何度も目にしてきた、あの広告。
「レンタル夫」
最初は笑って流していた。
私には関係ない。そう言い聞かせて、何度も閉じてきたはずなのに。
メールを開くと、淡々とした文章が並んでいる。日時、場所、担当者名。どれも事務的で、感情の入り込む余地なんてなさそうだった。
なのに、心臓だけが、少し早く打っている。
「……花帆?」
背後から名前を呼ばれて、肩が跳ねた。
振り返ると、いつの間に起きてきたのか、誠が立っていた。眠そうな目で、私の手元を一瞬だけ見る。
「どうした?」
咄嗟に、スマートフォンの画面を伏せる。
「ううん、何でもない。ちょっと、通知が来ただけ」
自分でも驚くほど、声は普通だった。
誠はそれ以上何も聞かず、キッチンに向かってコーヒーを淹れ始める。
そういうところが、昔から変わらない。
深く踏み込まず、必要以上に触れない。その距離感が、私には心地よくもあり、時々、ひどく寂しくもあった。
この人は、優しい。
子どもたちの行事を忘れないし、私の誕生日も、結婚記念日も、ちゃんと覚えている。
今でも、好きだと思う。
それなのに——。
子どもたちが起きてきて、朝の支度が始まる。
いつも通りの会話。いつも通りの時間。
でも、テーブルの上に伏せたままのスマートフォンが、ずっと気になっていた。
削除すればいい。キャンセルすればいい。
それだけのはずなのに、どこかで、消してしまうのが惜しいと思っている自分がいる。
女として見られなくなったわけじゃない。
そう言い聞かせてきた。
けれど、誰にも触れられないまま過ぎていく夜が、いつの間にか三年になっていた。
「行ってきます」
玄関で靴を履く誠の背中に、「行ってらっしゃい」と返す。
ドアが閉まる音を聞いてから、私はもう一度スマートフォンを手に取った。
画面に表示されたままの、予約完了メール。
触れない距離の向こう側に、何があるのか。
それを確かめたいと思ってしまったことを、私はまだ、誰にも話していない。




