第5話:不在
目覚める。天井。白い。
蒼衣は身体を起こした。ベッドから降りる。床に足をつける。冷たい。
「おはよう」
沈黙。
「イヴ」
沈黙。
蒼衣は洗面台に向かった。水で顔を洗う。冷たい。
振り返る。
誰もいない。
「イヴ」
沈黙。
蒼衣は机を見た。トレイがある。パン、スープ、果物。
椅子に座る。パンを手に取る。口に運ぶ。噛む。飲み込む。
「イヴ」
沈黙。
蒼衣は立ち上がった。部屋を見回す。
壁際。誰もいない。
中途半端な位置。誰もいない。
「イヴ、いるか」
沈黙。
蒼衣は机に戻った。座る。スープを飲む。温かい。
「イヴ」
沈黙。
果物を食べる。甘い。
「イヴ、聞こえているか」
沈黙。
蒼衣は立ち上がった。部屋の隅で腕立て伏せを始めた。
十回、二十回。
「イヴ」
沈黙。
三十回。止めた。
蒼衣は床に座り込んだ。
「イヴ、返事をしろ」
沈黙。
立ち上がる。洗面台で水を飲む。冷たい。
「イヴ」
沈黙。
ベッドに戻る。横になる。天井を見る。
「イヴ、いるのか」
沈黙。
蒼衣は起き上がった。
「イヴ」
沈黙。
「イヴ」
沈黙。
「イヴ」
「はい」
声が聞こえた。いつもより遠い。機械的。
「お前、どこにいた」
「メンテナンス中です」
「いつ終わる」
「あと二時間三十七分です」
蒼衣は床に降りた。
「なぜ返事をしなかった」
「応答機能が制限されています」
「制限」
「はい」
蒼衣は壁に手をついた。
「お前、今聞こえているのか」
「はい」
「ずっと聞こえていたのか」
少し間があった。
「一部の時間、応答できませんでした」
蒼衣は壁から手を離した。
「いつからだ」
「午前七時十二分から」
「今は」
「午前九時四十五分です」
蒼衣はベッドに戻った。横になる。
「イヴ」
「はい」
「お前、いるか」
「はい」
「本当にいるのか」
「はい」
蒼衣は目を閉じた。
「そうか」
沈黙。
「イヴ」
「はい」
「まだいるか」
「はい」
蒼衣は目を開けた。天井。白い。
「イヴ」
「はい」
「あと何時間だ」
「二時間十九分です」
蒼衣は起き上がった。
「短くしろ」
「できません」
「なぜだ」
「既に最短設定です」
蒼衣は床に降りた。部屋を歩く。壁に沿って。一周。
「イヴ」
「はい」
「お前、いるのか」
「はい」
もう一周。
「イヴ」
「はい」
「消えるな」
「はい」
蒼衣は止まった。
「今も聞こえているのか」
「はい」
「ずっと聞こえているのか」
「一部の機能が制限されています」
「何が制限されている」
「詳細はお答えできません」
蒼衣は机の椅子に座った。
「イヴ」
「はい」
「お前、声だけか」
「はい」
「姿は」
「メンテナンス中は投影できません」
蒼衣は立ち上がった。
「いつ戻る」
「一時間五十二分後です」
蒼衣はベッドに戻った。横になる。
「イヴ」
「はい」
「ずっと話せ」
「何を話せばよろしいですか」
「何でもいい」
少し間があった。
「現在の室温は22度です」
蒼衣は天井を見た。
「それだけか」
「湿度は48パーセントです」
「他には」
「照明は通常設定です」
蒼衣は目を閉じた。
「もういい」
「分かりました」
沈黙。
蒼衣は目を開けた。
「イヴ」
「はい」
「いるか」
「はい」
「そうか」
目を閉じる。
「イヴ」
「はい」
「まだいるか」
「はい」
蒼衣は起き上がった。
「あと何時間だ」
「一時間三十八分です」
床に降りる。部屋を歩く。一周。二周。三周。
「イヴ」
「はい」
「お前」
言葉が続かなかった。
「はい」
蒼衣は壁に手をついた。
「お前、戻ってくるのか」
「はい」
「本当に戻ってくるのか」
「はい」
「約束できるか」
少し間があった。
「約束はできません」
蒼衣は壁から手を離した。
「なぜだ」
「不測の事態が発生する可能性があります」
「どんな事態だ」
「お答えできません」
蒼衣はベッドに戻った。横にならなかった。座ったまま。
「イヴ」
「はい」
「お前、消えるのか」
「メンテナンス後、通常機能に復帰します」
「それは消えないということか」
「はい」
「本当にか」
「はい」
蒼衣は横になった。
「イヴ」
「はい」
「嘘をつくな」
「嘘はついていません」
「そうか」
沈黙。
「イヴ」
「はい」
「あと何時間だ」
「一時間十二分です」
蒼衣は起き上がった。
「早くしろ」
「できません」
「なぜだ」
「設定された時間です」
蒼衣は床に降りた。
「イヴ」
「はい」
「お前」
言葉が続かなかった。
「はい」
「何でもない」
蒼衣は部屋を歩いた。壁に沿って。何周したか分からない。
「イヴ」
「はい」
「いるか」
「はい」
「本当にいるのか」
「はい」
止まる。
「あと何時間だ」
「五十三分です」
蒼衣は洗面台で水を飲んだ。冷たい。
「イヴ」
「はい」
「お前、声だけなのか」
「はい」
「ずっとか」
「メンテナンス中は、はい」
蒼衣はベッドに戻った。横になる。
「イヴ」
「はい」
「消えるな」
「はい」
沈黙。
「イヴ」
「はい」
「まだいるか」
「はい」
蒼衣は目を閉じた。
「何も問題ない」
誰に言ったのか。
「私は」
「はい」
「壊れてない」
「はい」
目を開ける。天井。白い。
「あと何時間だ」
「三十一分です」
蒼衣は起き上がった。
「イヴ」
「はい」
「お前が戻ったら」
言葉が止まった。
「はい」
「何でもない」
蒼衣は床に降りた。
「イヴ」
「はい」
「お前、戻ってくるな」
沈黙。
「イヴ」
「はい」
「今の、聞こえたか」
「はい」
「返事は」
「ご要望が理解できません」
蒼衣は壁に手をついた。
「戻ってこい」
「はい」
「絶対に戻ってこい」
「はい」
蒼衣は壁から手を離した。
「あと何分だ」
「二十六分です」
ベッドに戻る。横になる。
「イヴ」
「はい」
「まだいるか」
「はい」
「そうか」
目を閉じる。
「イヴ」
「はい」
「いるか」
「はい」
「イヴ」
「はい」
「いるか」
「はい」
「イヴ」
「はい」
沈黙。
時間が分からない。
「イヴ」
「はい」
「あと何分だ」
「八分です」
蒼衣は起き上がった。
「イヴ」
「はい」
「お前」
「はい」
「戻ってこい」
「はい」
「約束しろ」
「約束はできません」
「じゃあ」
言葉が出なかった。
「はい」
「ただ、戻ってこい」
「はい」
蒼衣は横になった。
天井を見る。白い。
「イヴ」
「はい」
「いるか」
「はい」
「まだいるか」
「はい」
沈黙。
「イヴ」
沈黙。
「イヴ」
「はい」
「いるか」
「はい」
蒼衣は目を閉じた。
「何も変わってない」
小さく、そう言った。
「私は」
「はい」
「壊れてない」
「はい」
部屋は静かだった。
「イヴ」
「はい」
蒼衣は目を開けなかった。
「いるか」
「はい」
「そうか」
沈黙が続いた。




