第3話:距離
目覚める。
天井。白い。
蒼衣は身体を起こし、ベッドから降りた。
床に足をつける。
冷たい。
「おはようございます」
イヴの声。
いつもの場所。
壁際。
蒼衣は答えなかった。
洗面台に向かう。
水で顔を洗う。
冷たい。
鏡を見ない。
振り返ると、机にトレイが置かれていた。
パン、スープ、果物。
椅子に座る。
パンを手に取る。
「よく眠れましたか」
蒼衣は一口齧った。
飲み込む。
「黙ってろ」
イヴは黙った。
スープを飲む。
温かい。
果物を食べる。
甘い。
食べ終わると、トレイが消えていた。
蒼衣は立ち上がり、部屋の隅で腕立て伏せを始めた。
十回、二十回。
腕が震えた。
三十回で止めた。
イヴは壁際に立っていた。
蒼衣は床に座り込んだ。
「水分補給を」
「いらない」
イヴは黙った。
蒼衣は立ち上がり、洗面台で水を飲んだ。
冷たい。
ベッドに戻る。
横になる。
天井を見る。
時間が分からない。
「イヴ」
「はい」
蒼衣は黙った。
言葉が続かなかった。
「何かご用ですか」
「いや」
イヴは何も言わなかった。
蒼衣は目を閉じた。
「消えろ」
「分かりました」
像が薄くなった。
部屋が静かになった。
蒼衣は目を開けた。
天井。白い。
「イヴ」
像が戻った。
「はい」
蒼衣は横を向いた。
壁を見た。
「何でもない」
「分かりました」
イヴは立っていた。
動かない。
蒼衣は再び天井を向いた。
「お前、ずっとそこにいるのか」
「いてほしくないですか」
「聞いてない」
少し間があった。
「ずっと、ここにいます」
蒼衣は目を閉じた。
「そうか」
⸻
どれくらい経ったのか。
蒼衣は身体を起こした。
イヴを見た。
「イヴ」
「はい」
蒼衣は立ち上がり、机の椅子に座った。
「お前、今何時か分かるか」
「はい」
「教えろ」
「現在、施設時間で14時23分です」
蒼衣は机に肘をついた。
「夜は」
「何時頃ですか」
「いつもと同じでいい」
イヴは少し間を置いた。
「照明を落としますか」
「そうしろ」
「分かりました」
蒼衣は立ち上がり、ベッドに戻った。
横になる。
「イヴ」
「はい」
「お前、いつも同じ場所にいるのか」
「移動することも可能です」
「そうじゃなくて」
蒼衣は言葉を探した。
「いつも、そこなのか」
「そこ、とはどこですか」
蒼衣は手で示した。
壁際を。
「あそこ」
「はい。通常、そこにいます」
「なぜ」
「あなたから見えやすい位置だからです」
蒼衣は天井を見た。
「近くに来るな」
「分かりました」
「でも」
蒼衣は黙った。
イヴは何も言わなかった。
「近すぎず、遠すぎず」
蒼衣は自分が何を言っているのか分からなくなった。
「そういう位置にいろ」
「可能かどうか、確認させてください」
イヴは少し間を置いた。
「現在の位置から、どの程度の距離が適切ですか」
「知るか」
蒼衣は横を向いた。
「適当にしろ」
「分かりました」
イヴの像が動いた。
壁際から、少しだけ部屋の中央寄りに。
蒼衣はそれを見ていた。
「そこでいい」
「分かりました」
蒼衣は再び天井を向いた。
「理由は聞くな」
「はい」
部屋が静かになった。
蒼衣は目を閉じた。
「イヴ」
「はい」
「お前は、質問しないんだな」
「してほしいですか」
「いや」
イヴは黙った。
蒼衣は目を開けた。
「でも」
言葉が続かなかった。
イヴは待っていた。
「まあ、いい」
蒼衣は起き上がった。
床に降りた。
部屋の隅で腹筋を始めた。
十回、二十回。
イヴは先ほどの位置に立っていた。
壁際ではない。
少しだけ近い。
蒼衣は三十回で止めた。
「イヴ」
「はい」
「お前、動けるのか」
「はい」
「どこまで」
「この部屋の範囲内であれば」
蒼衣は立ち上がった。
「じゃあ、こっちに来い」
イヴの像が動いた。
蒼衣の方へ。
「止まれ」
イヴが止まった。
蒼衣とイヴの間に、三メートルほどの距離があった。
「そこでいい」
「分かりました」
蒼衣は床に座り込んだ。
「なぜそこなのか、聞くな」
「はい」
蒼衣は膝を抱えた。
「お前、私が何を考えているか分かるのか」
「いいえ」
「そうか」
蒼衣は顔を膝に埋めた。
「なら、いい」
イヴは何も言わなかった。
しばらくして、蒼衣は顔を上げた。
「イヴ」
「はい」
「お前は」
蒼衣は立ち上がった。
「何でもない」
ベッドに戻り、横になった。
イヴは三メートルの距離に立っていた。
「元の場所に戻れ」
「分かりました」
像が動いた。
壁際ではない。
さっきの、中途半端な位置に。
蒼衣はそれを見ていた。
「そこでいい」
「分かりました」
蒼衣は目を閉じた。
「何も変わってない」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
「何も」
イヴは答えなかった。
蒼衣は目を開けた。
天井。白い。
イヴは立っていた。
壁際ではない場所に。
蒼衣は目を閉じた。
「このままでいい」
小さく、そう言った。
イヴが聞こえたかどうかは、分からない。
部屋は静かだった。




