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私立探偵 真加部阿礼  作者: 春原 恵志
真加部阿礼
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302号室

 真加部は再び病院に戻り、302号室へ急ぐ。

 真新しい病院の廊下を足早に歩く。そしていよいよ302号室前に来る。扉の前に名札があり、4人部屋に3人いるようだ。そこに佐藤博の名前があった。

 病室に入るが各ベッドがカーテンで仕切られており、中にいる人間の顔がわからない。

 入口脇に看護士がいた。真加部が聞く。

「佐藤博さんは?」

 看護士は優しい顔で奥になりますと一番奥を指さす。

 真加部はゆっくりとベッドに近づいて、その前で息を整える。

 そしてゆっくりとカーテンを開けた。

 佐藤博は外を見ていた。その横顔には昔の写真の面影はない。ひどく痩せこけて彼の寿命が残り少ないことを暗示していた。

 カーテンが開いたのに反応すると、佐藤の視線が固まる。

 次に頭を布団に押し付ける。そして嗚咽を漏らしだす。

「神正和だな」真加部が言う。

 ぼんやりと顔を上げると信じられないといった顔で、生きてたのか、とだけ言った。後は涙が止まらない。

 神が落ち着くのを待って、真加部が話を始める。

「俺が生まれた意味を知りたい」

 神はうなずくと、ごめんなと言った。

 そうしてゆっくりと話を始めた。


 神は茨城県筑西市の出身で工業高専を卒業して、自宅近くの自動車工場で勤務を始めていた。元々家は貧しくて大学に行ける金も無かったそうだ。父親は早くに亡くなり、母親が一人で神を育てていた。

 そんな状況だったが、神の優秀さは群を抜いていたという。特に理数系に強く、高校生を対象とした数学の全国大会に参加すると見事に優勝するほどだった。優勝すれば国立大学への入試も免除されるのだが、神の家の状況では進学は無理だった。当時の先生も残念がっていたが、母親の健康状態もあり、家を支えるのは神の役目だった。それで卒業と同時に就職となった。

 そんな状況だったが神の研究意欲だけは旺盛だった。なんとかして現状で研究者の道は無いかと熟考し、高校教師の道を目指す。研究機関では高専の敷居は高い。高校であれば自宅からも通えるし、研究の真似事も可能となると思ったのだ。

 それで教員の資格を取り、無事農業高校の教師となった。

 神は昔から数学と物理学に人一倍、興味があり、個人的にそういった勉強もしていた。高校に入ると増々その熱は上がっていく。

 教職の仕事は苦手で生徒に教えることはうまくいかなかった。生来の人見知りと人付き合いの下手さが災いする。そして神が30歳を過ぎた頃、母親も亡くなる。これで神は天涯孤独となった。

 そうして神の研究成果が実を結びだす。農業高校と言うこともあって、農作物の遺伝子改良は研究テーマとしても認められており、実際、世の中でも盛んに行われていた。神はそこに自身の能力を注力する。遺伝子自体はようやくその構造が明らかになり、遺伝子改編を行うことで農作物の特徴が変わることもわかっていた。ただ、当時は突然変異的に出来た、特徴を持った植物を掛け合わせるといった形での遺伝子改編が主流だった。

 神は遺伝子改編技術に特化した方法を考えていた。今でこそクリスパーキャス9で特定の遺伝子を切断することが可能となったが、当時はそういった方法も無かった。神はそこに量子力学を持ち込んだ。

 量子力学の中に量子もつれという課題があった。アインシュタインが量子論を否定したことでも有名な話だ。アインシュタインは神はサイコロを振らないといったことでも知られている。これは二つの量子(電子や光子などの小さな粒)が宇宙の果てまで離れた状態でも結びついて、同じ結果をもたらす現象を言う。これまでの物理理論ではありえないことが、しかし実際は起きていたのだ。

 そして神はこれを利用した。離れた細胞同士を量子もつれ状態にし、量子による干渉状態を作り出す。これを量子干渉型標的遺伝子反応と呼んだ。

 量子共鳴と選択的分子励起を利用して、特定のDNA配列に対して非接触で遺伝子編集を行う改変技術だった。クリスパーキャス9などの方法が外部タンパク質や酵素に依存して、接触反応していたのに対し、この理論は量子場干渉を応用することで、非接触でDNAの特定の塩基結合に対する選択的な構造変化を実現する。

 さらに干渉パターンを複数指定することで、ターゲットとする遺伝子を一気に改編させることに成功している。これは量子的な影響のみで、遺伝子情報を書き換えることができる。まさに画期的な手法だった。

 この発明を元に神は実証実験を繰り返す。農業高校にはそうやって出来た植物の痕跡が多数残されている。ただ、表面上に大きな違いはないため、気付いている人間はいない。そしてその中の一つに黒い薔薇がある。これが神に運命的な出会いをもたらした。

 神がようやく教師生活にも慣れた頃だった。39歳の時である。それまでも人から紹介されて、女性との付き合いは無くもなかったが、長続きはしなかった。やはり内向的な性格が邪魔をする。気の利いた言葉など掛けられるはずも無く、神にとって女性心理は物理学以上に複雑だった。

 当時、神はすでに量子論を元にした遺伝子改変技術を実用化していた。ただ、あまりに突拍子もない話なので、どうやって発表すればいいかもわからず、研究成果はそのままになっていた。ただ、神が作り出した農作物は実際に高校で耕作されていた。

 そんな中に黒い薔薇があった。

 校内の耕作地に植えていた薔薇が花を咲かせていた。まさに黒一色の薔薇である。

 栽培中の神の後ろから声を掛ける生徒がいた。

「どうやったんですか?」

 神が振り返ると女子生徒が目を丸くして、その薔薇を見つめている。

「これですか、これは実験中の薔薇なんですよ」

「だって真っ黒じゃないですか?どうやって作ったんですか?」

 この子はよくわかっていると思った。そしてどことなく昔から知りあっていたような親近感を覚えた。

 少女は源京香みなもときょうかといった。この学校の新入生だった。

 神が薔薇の製作方法を説明すると、その子は目を輝かせて聞いていた。こういった経験も初めてだった。そして実に素直に感動してくれたのだ。

 それから幾度となく、神が作業をしていると京香が訪ねてきた。二人で会話するとどこか懐かしいような心が和む気がした。男女が好意を抱く上で匂いがあると言うが、京香とはそういった引き合うような匂いを感じた。そうして京香は神が顧問をやっている科学部に入る。

 神にとっては初めての経験だった。女性に恋をしたのだ。ただ、39歳と15歳である。ましてや教師と生徒と言う関係だ。最初からそう言った男女の仲はありえないとも思っていた。ところが若気の至りとでも言うのだろうか、京香の方から積極的なアプローチが来た。神は悩む。ただ、境界線を越えることは出来ない。それが神と言う人間の限界だった。

 ところが事態が一転する。

 ある日、科学部の活動が終了した後、二人が教室に残った。神は後片付けがあるので、残ったのだが、京香は何か相談事があるようだった。それでも神は自分からは言い出せない。気にはなるのだが、切り出し方がわからない。そうして京香が唐突に話し出す。

「先生の子供が欲しい」

 つぶやくように京香が言うので、果たしてそれが本当に言ったのかが、よくわからなかった。神は片づけをしながら聞くとは無しに聞いていた。

「私、昨日、子供を抱いている女の人を見たの。とっても幸せそうで羨ましかった。そうして思ったの。先生の子供が欲しいなって」

 神はどう言っていいかわからない。ただ、これはまずいとだけ思った。

「気の迷いだよ。源さんはまだ若いんだから、これからいい出会いもあるさ」

 すると京香は思いつめた顔をする。

「先生、私には残された時間が無いの」

「え、どういうこと?」

 そして京香は自身の病気の話をする。

 拡張型心筋症であと何年生きられるかわからないという。

 拡張型心筋症とは心臓の心室が拡大し、壁が薄くなり収縮出来ない状態になる病気だ。京香は左心室が肥大しているという。さらには京香の場合、治療方法も無く、心臓移植しか治療法が無いということだった。医者が言うには心機能のNYHA心機能分類も4度だという。これは性行為も駄目らしい。子供も作ることは出来ないレベルとなる。

 話を聞いて神は絶句する。少女の魂の叫びに対し、どうすればいいのか、わからないのだ。

「私が生きてきた証が欲しい」

 そういって京香が泣く。

 普通の男であれば、慰めて終わるのだろうが、神は違っていた。

「源さん、時間をくれないか。何とかできないか考えてみる」

 京香が涙で濡れた顔を上げる。ほんとに、そう言った。

 それから神は考える。彼は科学者だ。科学的な解決方法を模索する。そしてある結論を導き出す。

 それが代理母を使った人工授精である。当時、不妊治療の一環として代理母を使った出産方法自体は確立されていた。ただ、日本ではそれを認めていない。よって海外で実施するしかなかった。

 神は熟考し、ある計画を立てる。タイでの代理母出産である。その話を京香にすると彼女は一も二もなく賛成する。そうして夏休みを利用しての計画がスタートした。

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