帯広病院
円谷宅から病院までは10㎞ほどだ。
佐藤博が神正和だとわかったからには急いで病院に行くしかない。肺腺癌のステージ4だそうだ。余命は1カ月ないだろうと言う話だった。
帯広病院はこの地域のみならず、北海道では有数の病院だ。当然、がん治療も行われている。現地に近づくと近代的な建物がいきなりそびえ立っている。周辺の建物と比較しても最先端の施設だ。
病院に入る。広いフロアーのロビーに受付があり、佐藤博との面会を申し出る。
必要書類に名前などを明記すると302号室を案内された。
真加部はフロアー奥にあるエレベータに急ぐ。するとエレベータ脇に見覚えのある男性がいた。白い大理石の壁に背を持たれてじっとこちらを見ている。
なるほど、やはりそういうことだったのかと思う。男が手を上げる。
「やあ、久しぶり」
そこにいたのは佐藤聖だった。
真加部は佐藤をじっと見つめる。
「やっぱりな」
佐藤は両手を広げる。
「気が付いていたのか?」
「なんとなくな」
佐藤はふっと笑う。真加部が言う。
「ミンヤーだな」
「因果な商売だ。僕は自分の任務をやるしかない」
「それは無理な相談だ」
「そうだろうな。で、どうする?」
「人気のないところがいい」
「わかった。ちょっと行ったところに森がある。そこにしよう。僕の車に乗ってくれ」
ミンヤーの車に乗る。
「いつから僕のことに気付いた」
「最初から、普通じゃなかったよな」
「それはお互い様だろ。でもお前たちが追っているミンヤーとは顔が違っていたはずだ」
「ああ、そうだな。でも防犯カメラに映った顔が違ってただけだ」
「まあな。こっちはああいう技術はお手の物だ。ミンヤーこと、すずきいちろうは架空の人間なんだ。つまりそっちがまやかしということだ。でも佐藤聖がミンヤーだと気付いたのは何故なのかな」
「どうかな。俺も諜報員をやってたからな。なんとなく匂いというかそういったものを感じた」
「匂いと来たか」
「俺と同じ匂いだよ」
「さすがだな。僕もあんたはどこか違うとは思ってたんだ。ただ、こちらも迂闊だった。まさかミャンマーに僕たちの探し物がいたとはな」
「俺がそうだと気付かなかったのか?」
「まあな。灯台下暗しとはよくいったものだ。神の子供がいたとはな。こっちの調査ではアフガニスタンで死んでるはずだった。アルラワナだったか。まさか真加部阿礼として生きていたとは恐れ入った」
「それがわかってから、俺を泳がせたのか?」
「そういうことだ。こちらがいくら探しても神が見つからなかった。だから、お前に賭けたんだ。なにせ100%の成功率だからな」
ミンヤーが笑みを浮かべる。
「神はもう長くないんだぞ」
「ああ、わかってる。言っただろ因果な商売だって。僕の任務は彼を本国に連れていくしかない」
「お前たちは俺の本当の正体も知ってるのか?」
「もちろんだ。ミャンマーであの動きは気になった。それで調査した。やはり神の子供、いや、黒い薔薇だと気付いたよ」
「俺が黒い薔薇だという確証はあるのか?」
ミンヤーは真加部を見てにやりとする。
「申し訳ない。実は池袋で会った時にサンプルをもらった」
「なるほどな」
「いや、驚いたよ。薔薇どころの騒ぎじゃない。真加部阿礼の遺伝子は完璧だ。人間の運動神経を司る遺伝子は数種類あって、真加部阿礼はそれのどれもが完璧な配列をしていた。ACE、BDNF、PPARGC1A、ミトコンドリア代謝、ミスタチオン、その他すべてが理想的だった」
「頭脳はどうだった?」
「それも理想に近い状態だったよ。ただ、運動能力についてはもっとだ。まさに神がかりだ。どうやったのか不思議でならない」
「中国もデザインベイビーをやってるだろ?」
「クリスパーキャス9だと、あそこまでのデザインベイビーは作れない。それこそある特定の能力を完全な状態にするだけだ」
「お前はそうじゃないのか?」
ミンヤーはぎょっとする。
「鋭いな。やはりデザインベイビーは違うな。そういう意味だと俺は後天的に操作された人間だ」
「後天的?」
「薬物だよ。僕は中国政府に拾われた人間だ。幼児期から元々の運動能力が高く、そういった子供たちを集めたんだ。もちろん諜報員や軍人としての利用価値を求めてだ。そして薬物投与と実験を繰り返した。高用量ステロイド、ミオスタチン阻害剤、EPO、アンフェタミン、モダフィニルなんかを計画的に投与していった。その上で訓練を行うんだ。いわば作られた人間だ」
「そういうことか」
ミンヤーは自虐的な笑みで応える。真加部が聞く。
「神の作った理論は本当に必要なのか?」
「それは僕にはわからないね。上が決めたことだ。ただ、話によるとあの理論は世界を変えるらしい。軍事面、経済面、政治面も含め、そういったすべての分野で世界を凌駕できるらしい」
「量子コンピュータがそういったのか?」
「こいつは驚いた。それは君のところのハッカーが突き止めたのか?」
「違うのか?」
「いや、そうじゃない。僕のレベルじゃあそういった話までは降りてこない。なるほど、そういうことか、それで納得したよ」
車が山の中に入ってくる。ここは公園の脇になるようだ。鬱蒼と樹々が生い茂っている。
路肩に車を停車させると、ミンヤーが先に降り、真加部の扉を丁重に開ける。
「どうぞ」
真加部がゆっくりと降りる。
そしてミンヤーに話しかける。
「どうしてもやるしかないのか?」ミンヤーはすこし驚いた顔になる。「なんか、お前とやる気がしない」
ミンヤーは再び笑みを見せる。
「言いたい意味は分かる。僕だって本望じゃないさ。特に真加部さんはね」
「俺もそうだ。止められないのか?」
ミンヤーは両手を広げる。
「任務は絶対だ。それとあんたじゃないが、僕も失敗したことがない」
「そうか、わかった」
二人は闘うしか道がない。
ここまでは太陽がさんさんと輝いていたが、二人は薄暗い森の中に入った。
ここまでの車道もほぼ林道に近かった。よって車の通行もほとんどなく、ここでいくら騒いでも人が来ることは無いだろう。
ピリピリした空気の中、ミンヤーと真加部が対峙している。
お互い、武器を持つでもなく、素手でじりじりと間合いを詰めている。力での対決だ。
真加部はミンヤーの構えと動きを見て、相当の使い手であることを理解する。
中国軍の場合、中国拳法といった格闘技よりも、より近代的な格闘方法になってきている。ただ、このミンヤーはそういうものでもないようだ。中国の特殊部隊がそうなのかはわからないが、彼の構えはロシアのシステマに近いようだ。
一方の真加部はこれまでも様々な格闘技を習得してきている。
まずはタイ式のムエタイから始まり、パキスタンではクラヴマガやナイフを使ったものまでやった。基本は殺し合いの武術で急所攻撃が主だ。その上さらにブラックスワン時代には文伍からマーシャルアーツを指導されている。
ミンヤーは自然体のまま徐々に間合いを詰めてくる。
鳥のさえずりが聞こえる。ピッコロロ~ピチュリ、ピチュリと戦いをあざけるような涼しい鳴き声だ。
いきなりミンヤーが仕掛ける。
ボクシングのジャブのようなパンチを繰り出す。真加部はそれを簡単にいなす。ミンヤーはパンチからの蹴りを連続的に仕掛けるのだが、真加部にはまったく当たらない。
受けることさえしないのだ。真加部はダンスでも踊るかのように軽く避けるだけだ。
ミンヤーが首を振る。
「まったく信じられない。ここまで僕の攻撃が当たらないのは初めてだ」
「そうか、いや、実際、ここまで早い攻撃はこっちも初めてだ」
ミンヤーは構えを変える。
今度は真加部を捕まえる作戦だ。体重差と馬力の違いを使えば、押し倒すことが可能と考えたのだ。
ラグビーのタックルで真加部を捕まえようとする。
捕まえたと思った瞬間、真加部が消える。そして強烈な蹴りが後頭部に入った。真加部は上空に飛ぶとそのまま蹴りを入れたのだ。
ミンヤーは頭から地面にめり込む。あまりに強烈な蹴りだ。ただ、まだだ。彼は素早く起き上がり、攻撃態勢に入ろうとする。
ミンヤーの顔は泥だらけになっている。
「人間の完全な運動神経とはそこまでの領域なのか」
いよいよ真加部が攻撃に移る。ミンヤーは後頭部への攻撃で目元が定まっていない。今がチャンスだ。
軽いジャブからいきなりの回し蹴りを加える。ミンヤーはあまりの速度に面食らうだけだ。ただ、必死で受ける。
ここからは一方的になる。真加部の体力は無尽蔵だ。実際、アフガニスタンでは数人を相手に数時間の戦闘でも耐えることができた。アルラワナは化け物だ。
ミンヤーは攻撃を避けることもままならなくなる。すぐに顔面は血まみれとなる。打撲の跡も痛々しい。
真加部が攻撃を止める。
「ここまでにしよう。もうあきらめてくれ。俺は殺しはしない」
今やミンヤーは大木を背に地面に座り込んで肩で息をしている。
すでに腫れあがった顔を真加部に向けるとつぶやくように話す。
「僕もそうしたいんだ。ただね。それができる国じゃない」
そう言うといきなり懐から拳銃を出して発砲した。
乾いた銃撃音が森の中にこだまする。
ミンヤーは発砲できたと思ったのだが、実際、発砲したのは真加部だった。
ミンヤーが銃を出すよりも早く、真加部が自分のH&K UPSで撃っていた。真加部はこうなることも想定済だった。
ミンヤーはそのままうつぶせに倒れて起き上がることは無かった。




