茨城農業高校
車は昼過ぎに農業高校に着く。
今回は校内の会議室を取ってもらっていた。教務主任の佐久間だけでなく、当時の神を知る先生にも集まってもらっていた。
会議室には長テーブルがあり、両サイドに椅子が置いてある。6畳間ぐらいの広さで、窓から外が見えており、ちょうど庭園が近くにあった。
教務主任の佐久間の爺さんと40歳ぐらいの女性教師、それと年配の男性教師がいた。
互いに名刺交換を行う。例によって真加部は名刺を切らしている。
男性教師は五十嵐、女性は橘と言う名前だった。
教務主任の爺さんが教師を紹介する。
「五十嵐先生と橘先生は当時の神先生と同学年を担当していました。神先生は担当クラスを持っていなかったのですが、橘先生のクラスの副担任もしていました。教師の入れ替わりもあって、当時を知る人間は私も入れてこの3名ぐらいです」
西城が代表してあいさつする。
「わざわざお時間を取ってもらって申し訳ないですね。捜査内容をお話は出来ないのですが、神先生がある事件に関連があると言う事が分かって来ています」
教師たちが驚く。
「ああ、いえ、決して神先生が事件の当事者といったことではなく、彼が研究していた内容が関係しているといった」
西城はしどろもどろだ。駒込がフォローする。
「我々は素人なものですから、神先生がどういった研究をなさっていたのか、その辺を教えていただきたいのと、また、当時の様子をお聞きしたいと思っています」
それで少し納得したようだ。
佐久間が写真を出してくる。
「神先生の写真をご覧になりたいとのことでしたので用意しました」
写真は生徒が3名で、その脇に神らしき人物がひっそりと映っている。
「神先生は写真が苦手だったのですかね。ほとんど残ってないんです。これは彼が顧問をしていた科学部の写真になります」
真加部はその写真に京香が映っているのに気づく。神は度のきつい黒縁眼鏡を掛けた小さな男だった。とにかくやせていて、貧相な男という説明が最も適している。
「神先生は小柄ですね。生徒よりも小さいかもしれない」
「ええ、確か160㎝ぐらいだったかな」
真加部が下を向いて顔を見られないように声色を使って話す。
「どうやら倉庫から無くなった段ボール箱の資料は、神先生の実験データだったようです」
佐久間は不思議そうな顔で真加部を見る。
五十嵐がそれを受けて話す。
「倉庫から資料が無くなっていたというんですね」
西城たちがうなずく。
「そうです。10箱ぐらいです」
「10箱とは多いですね」
五十嵐と言われた男が話す。50歳は越えているだろう、中年男性である。
「では私から話をしましょう。神先生とは少し関係がありました。私も農作物の育成には関係していましたから。ただ、神先生は基本お一人で研究されていました。具体的な研究内容は後からわかったような状況でした」
「具体的にはどんな研究だったのですか?」
相変わらず真加部は下を向いてボソボソと話す。
「農作物の遺伝子改良ですね」
「遺伝子?」
「農作物は1990年代から遺伝子改変といったことが行われていました。今では当たり前になっていますよね。暑さに強い稲だとか、甘いトマトとか、植物でもそういった遺伝子改変がおこなわれています。神先生も同じような実験をされていました」
駒込が驚いて質問する。
「あの、失礼ですが、農業高校でもそういった研究をされるんですか?」
少し不服そうな顔をして五十嵐が答える。
「もちろんです。学生にそういった作業をさせることはありませんが、先生の中にはそういった研究を行い、生徒とともに実験作業を行ったりします」
五十嵐は少し躊躇しながら、話をする。
「ただ、神先生は少し桁が違っていたかもしれません」
真加部が思わず顔を上げる。「桁が違った?」
佐久間が真加部を見て増々不思議そうな顔をする。どこかで会ったとでも思ったのだろうか。五十嵐が続ける。
「我々にはとても真似ができない領域だということです。実際、彼がやっていたことはよくわからなかったですから」
「具体的にはどういったことですか」興奮したのか、真加部はボソボソしゃべりをやめている。
「当時はよくわからなかったんですが、おそらくゲノム編集までやっていたと思うんですよ」
「ゲノム編集?」
「今でこそ、クリスパーキャス9などを使って、ターゲットの遺伝子を改変できるようになりました。当時はとてもそこまでは出来なかった。遺伝子改変は特色のある植物の掛け合わせで偶然できるといった作業でした。ただ、神先生はあの頃からゲノム編集をやっていたように思えるんですよ」
「具体的にはどういったことですか?」
「食べ物については安全性の問題がありますから、そこまではやらなかったようですが、観賞用の植物、花だとかそういったものについては改変作業をしていたようです」
真加部の顔が変わる。
「黒い薔薇」
五十嵐が驚く。
「ええ、そうです。よくわかりましたね。私も最初は気づかなかったんです。普通に黒い薔薇を栽培しているのかと思ったんですが、神先生が栽培している薔薇は一般のものとは違っていました。本当に黒いんですよ。漆黒という色でした。実際、今でも黒い薔薇なんて自然界にはないんですよ」
西城たちが気色ばむ。「黒い薔薇?」
「普通に花屋にも黒い薔薇はありますが、あれは本当の黒じゃないんです。黒みの強い赤色なんです。ところが、神先生が栽培した薔薇はそれこそ本当の黒でした。よくよく見て気が付いたんです。これはどうやったんだろうってね」
「その薔薇が無くなった」
「えっ、そうなんですか?私は誰かが植え替えたんだと思っていました」
五十嵐は佐久間を見る。
「どうも盗まれたようなんです」
真加部が質問する。
「そういった神先生の論文などはあるんですか?」
五十嵐が答える。
「そうですね。一度だけ学会誌に載せたと思ったな。あんまりそういった事はしない先生だったんですけど、当時の校長が出すように指示したと思ったな」
「それは今ありますか?」
「ええ、あります。探してきましょうか?」
「ぜひ、お願いします」
「わかりました」そう言うと五十嵐は離席する。
真加部は震えていた。謎が明らかになってきたのだ。
佐久間が話し出す。
「とにかく神先生は不思議な人でしたよ」
「天才ですか?」
「ええ、そうです、そうです。それが一番しっくりくる」
女性の橘が話をする。
「私が新任でこちらに来た時に神先生にはお世話になりました。本来であれば先輩でもある神先生が担任をやるべきなのでしょうが、固辞されて私が代わりにやることになったんです」
橘は五十嵐よりも若い。当時新卒で教師になったのなら、今は40歳前半だろう。
「少し変わった先生でしたが、実際は優しい面をお持ちで、ことあるごとに私のフォローをしてくれました。ただ、極端に人見知りで、人付き合いも苦手だとおっしゃってました」
真加部はわかる気がした。それは真加部に引き継がれている。
「そこまで優秀な先生なら大学か、研究所で研究するべきですよね」
駒込がもっともな質問をする。
佐久間が答える。
「神先生は大学には行ってないんですよ。ご家庭の都合だったのかな。高専卒業で通信制の大学で教員資格を取られたようです。ご本人が言うにはやはり研究をやりたかったようで、資格を取って、自宅から近いここの高校を希望されたようです。ただ、とにかく頭がいいっていうか、さっきも言いましたが天才でしたね」
真加部がぼつっと言う。¦量子力学。
橘がはっとする。
「そうです。量子力学の話をすると止まらなくなるんです。こっちは何もわからないけど、とにかく必死で話をされてました。相対性理論だとか、宇宙についてだとか、生命理論だとか、本当は物理学をやりたかったんじゃないかしら」
真加部が続ける。
「語学はどうでしたか?」
「ええ、ええ、そうです。英語だけじゃなかった。何語でもわかってるみたいでした。一度、海外から来客があって、恥ずかしい話ですけど、英語の先生が通じなくて、神先生が代わりに話をされてました。語学も堪能でしたね」
真加部は目頭が熱くなる。なぜだかわからないが、神という男が自分の肉親だという実感がそうさせるのか。
五十嵐が戻って来た。
「こちらに載ってますね」
西城が受け取るが、ちらっと見て駒込に渡し、すぐに真加部に渡される。
表紙に『作物学会研究』と書かれた雑誌で、2000年の4月号だった。神正和の論文タイトルは『量子干渉型標的遺伝子反応』とあった。
真加部がそれを読む。特定のDNA領域に量子共鳴を起こし、分子結合を選択的に切断・再構築する方法と、外部酵素を使わずにDNAそのものに干渉できるという利点を書いてあった。真加部が唸る。
「これを2000年に発表していたのか、ありえない」
五十嵐が繋ぐ。
「そうです。これは推論ということで決着を付けられたようです。当時の技術ではありえない話で、大学の先生からは与太話だと失笑されていました」
「量子もつれを利用しているのか」真加部が驚く。
五十嵐が意外な顔をする。
「刑事さんもお詳しいんですか?」
「いえ、ちょっとだけ齧っただけです」
西城たちはきょとんとしている。この世の話だとは思えないといった顔だ。
いずれにしろ中国はこの技術に興味を持ったということだ。しかし、どうしてこんな過去の遺物のような推論とまで言われた技術に食いついたのだろうか。それがよくわからない。
真加部が質問する。
「それで神先生は2007年に退職されましたね。その理由はどういったものでしょうか?」
佐久間が渋面になる。
「うーん、それがはっきりしないんですよ。個人的な理由だとおっしゃるだけで、当時の校長も引き止めたんですけどね。決意が固かったようです」
「以降はまったく関係が無くなったんですね」
「そうです。なにしろ案内を出しても戻ってきてしまって、引っ越しされたようでした」
神はタイに行ったのだ。
「神先生のご実家はどちらでしたか?」
「神先生はご両親とも他界されたようで、実家というものがないようでした。お一人で学校近くのアパートに住んでおられました」
「元々の田舎は茨城でしょうか?」
「そういったプライベートな話は」そういって二人の教師の顔を伺う。二人とも首を振る。
真加部が唐突に歌いだす。
かっこん かっこん お馬の足音
かっこん かっこん お馬はどこへ
「こういった子守歌がありますか?」
佐久間が気付く。
「ええ、ありますよ。茨城の子守歌です。『かっこんかっこん』がタイトルです」
「そうですか」
真加部は確信した。
江古田に戻る車中。助手席に座る西城はすでに高いびきをかいている。
後部座席の真加部は先ほどからずっと車窓の景色を見ている。周囲は暗く、何が見えるでもない。
「阿礼さん」
駒込が呼びかけるも上の空だ。
「阿礼さん!」
ぼんやりと駒込の方を向く。「何だ?」
「ひょっとして神さんって、阿礼さんの関係者ですか?」
真加部は返事をしない。話題を変える。
「ずいぶん、化学的な話に詳しかったですよね」
「物理学は勉強中だ」
「ああ、さっきの論文ですか。中身を見てもさっぱりわからなかったです。何ですか、あれは?」
「俺も数式についてはよくわからなかった。もっと勉強しないとな」
「僕も高校までは数学をやってましたが、多分、あの辺がわからなくなった部分です。微分積分だとか、そういうやつですよね」
「あれは多分、行列式ってやつだと思う。量子力学が行列で表されるらしい」
「へーそうなんですか。ああ、それとあの子守歌はどうしたんですか?」
「神が歌っていたらしい」
「そうですか、いや、真加部探偵社は相変わらずすごいな。どうやって調べているんですかね」
相変わらず真加部は外をじっと見ている。まるで何かに挑んでいる様な顔だ。
駒込はこれ以上、あえて聞くことを遠慮した。真加部と神は関係している。それを話したくないということだろう。
その後も真加部はずっと何かを考えていた。




