江古田警察署
今にも春一番が吹きそうな時節。今日は比較的暖かく、春も近いことを予感させる。
そんな日よりの中、真加部阿礼は自転車をこいでいる。自転車といってもいわゆるロードバイクというスポーツタイプである。探偵社を開設する際にこれを購入した。文伍が阿礼にはこれがちょうどいいということでそうした。都内だけでなく近場の関東圏であれば自転車で出かけている。ちなみに彼女が所持している乗り物はこれだけである。
実際、真加部の場合、運動神経が半端ない。ひとによると怪物級だという。それで自転車でちょうどいいのである。乗用車と同程度の速度は出るようだ。
新井薬師前にも地元の警察署が存在する。まあ、どこに住んでも駐在所もしくは警察署はある。そして真加部探偵社からその江古田警察署は近い。さらに探偵社と警察署はそれなりに交流もある。警察から依頼を受けて調査するようなこともあるのだ。
今日、真加部は情報提供で訪れることになった。
江古田警察署は2020年に新庁舎が完成したばかりで、屋上にソーラーパネル、地下に射撃場、授乳室なども完備している最新の建物だ。4階建てで見るからに新しい。
真加部は駐輪場に自転車を預けると、いつものように署内に入る。そして勝手に署内をうろつく。署員もそんなに気にはしない。顔なじみということだろう。そんな真加部が行くのは3階の組織犯罪対策課だ。
エレベータで3階に降りる。何やら騒がしいのがわかる。刑事たちが忙しく動き回っている。これは何か起きたに違いない。
真加部が知り合いの刑事を探す。
「西城!」
真加部の呼びかけに、がっちりとしたいかにも体育会系、悪く言えばやくざじゃねえの、といった巨漢の中年男性が手を上げる。
「阿礼、悪いな。事件発生だ。これから出かけるんだ」
「出かけるって、そっちが呼び出したんだろ」
「だから、悪いって、ああ、ちょっとゴミ!」
ゴミとはなんだと西城が呼んだ先を見ると、男がいた。
「ゴミ、真加部の話を聞いといてくれ」
ゴミと言われた男は年のころは20歳前半、真加部とは同年代なのだろうか。
西城が在籍しているのは組織犯罪課、昔の4課と言って、暴力団などを扱う部署だ。そういった部署には似つかわしくない。なんというか妙にイケメンの男子である。韓流好きのマダムあたりが飛びつきそうな僕ちゃんだ。
「じゃあ、阿礼、やつに話をしてくれ」
真加部が何か言う間もなく、西城は走り去っていく。
ゴミと言われた男がのっそりと立ち上がって、真加部の前に来る。
「えーと、何ですか?」
真加部はこういう初対面の人間が苦手だ。イケメンだとかそういうのは関係ない。とにかく人と話すのが難しいのだ。
「西城から呼ばれて来た」
「はあ、それでどういったご用件で」この若者は覇気がない。
「西城に情報があると言ったら、こっちに来るように言われたんだよ」
「情報ですか、それはどういった」
いつものように真加部の眉間にしわが寄ってくる。
「タイにいる半グレ組織の情報だよ。データで送るって言ったら、それは無理とか言われた」
「ああ、西城さんはそういった機械系は苦手ですからね」
真加部は面倒なので、持っていたUSBメモリーをゴミに渡す。
ゴミはそれを受け取って言う。「これはどういったものなんですか」
「警視庁で行方を追ってる連中の画像データだよ。本庁に言えばわかるって」
「そうですか、ちょっと見ても良いですか?」
「いいけど、俺も忙しいんだ。早くしてくれ」
「わかりました」
妙に素直だ。ゴミは自席のパソコンにそのUSBを差し込む。そうしてデータを確認しているようだ。なるほど機械に関しては西城よりはまともだ。
そしてゴミが真加部を呼ぶ。「真加部さん」そう言って手招きしている。
「何だ」真加部が近くに寄る。何やらいい匂いがする。今時の男はこういった匂いがするものなのか、真加部はびっくりする。
「これはどこで撮ったんですか?日本じゃないみたいですね」
「タイだよ。パッターニー」
「タイのどこですって?」
「パッターニー!」
「ああ、ちょっと書きます。パッターニーですね」
ゴミが自分のメモに書こうとする。そして悩んでいる。
「パッターニーで通じるのかな?」
真加部がメモを奪い取る。「俺が書くよ」そう言ってメモに住所を書く。
「英語ですか、あれ?それはどこの言葉ですか?」
「英語とタイ語を併記した。これだけあれば大丈夫だ」
「タイ語も書けるんですか、すごいな」そう言いながら動画を見て言う。「これが半グレですか。名前はわかりますか?」
真加部は段々とあきれてくる。大丈夫か、この男は。
「本庁にデータを送ればわかるよ」
「そうですか、でもわかれば教えてください」
「近藤泰司だよ。詐欺事件で警視庁がマークしてるやつ」そう言うとメモに名前も追記する。
「どれが近藤なんですか?」確かにそこには4人映っている。
「一番前にいるでかい男だよ。機関銃持ってる」
「ああ、なるほど、わかりました。あとの残りは誰ですか?」
「その辺は本庁に聞いてくれ。もういいかな」
「ああ、はい、じゃあ、データのコピー取ります。ちょっと待ってください」
そう言うとゴミはデータをコピーする。真加部は気になったので聞いてみる。
「ゴミって名前?」
ゴミはコピーの終わったUSBを真加部に返しながら言う。
「いえ、愛称と言うか、西城さんがそう呼んでるだけです。本名は駒込、駅と同じ漢字でこまごみと読むんです」
「ああ、それでゴミか」
「西城さんが気に入ってそう呼ぶんです」ちょっとパワハラの匂いがする。
「西城と組んでるの?」
「そうです。指導を受けているところです」
「あんた、組対ってイメージじゃないね」
「まあ、よく言われます」
「それで何か起きたの?」
相変わらず署内は忙しく人が飛び交っている。
「署内で人質拉致事件が起きたんです」
その割にこの駒込は落ち着き払っている。
「じゃあ、あんたも行かないといけないんじゃないの?」
「そうなんですが、今、聞き取りをやってまして」
「聞き取り?」
「そうです。あそこにいる人です」
駒込が指さす先。3階にあるパーティションで囲われた応接室に、初老の男性がいた。今は別の刑事と話をしている。
「誰なの?」
「その人質になった女性の御主人です」
「女性が人質なの?」
「そうです。あと、店員ともう一人従業員の女性が人質になっています」
全部で3人が捕まっているということか。
「場所は?」
「駅前の商店街です。GAOって知ってますか?」
「GAO、貴金属店だっけ」
「そうです。事件発生が10時、開店と同時でした」
「そうなんだ」
「そうです。ああ、僕、聞き込みを続けるんで」
そういうと駒込はその男がいる場所に戻ろうとする。
真加部がその初老の男性を見ると、何か切羽詰まった様子だ。顔が青ざめて見える。確かに奥さんが拉致されたとなるとそれは心配だろう。
真加部はそれとはなしに、聞き取りを続けている場所の近くを通る。
初老の男性。白髪頭で少し薄くなった頭髪、歳は60歳を越えたぐらいだろうか。少しやせぎすで疲労感が伺える。その男が真剣な顔で刑事たちに話をしている。
「早く助けないと妻の命が危ないんですよ」
「それは重々理解しています。我々もなんとか救出できないかと努力しているところなんです」
「もう時間がない」男が腕時計を確認している。
いったい、どういうことなのだろうか。気にはなるが真加部にはどうすることもできない。
初老の男性はあまりに興奮しすぎたせいか、気分が悪くなったようだ。「すみません。トイレを貸してください」そう言って立ち上がる。
それを見た真加部が言う。「俺が連れて行くよ」
駒込ともう一人の刑事がその提案を受けいれる。「ああ、お願いします」
真加部が男を抱えるようにしてトイレまで連れて行く。真加部は人と話すのは苦手だが、このぐらいの老人はそれほど苦手でもない。文伍がそれ位の歳だったせいもあるかもしれない。
「大丈夫?」
「はい、ありがとうございます」
そう言うとトイレに入る。しばらくして顔を洗ったのか、ハンカチで顔を拭きながら男が出てきた。そしてそのままトイレ脇の長椅子に腰かける。そして頭を抱えてしまった。
「さっき、奥さんが危険だって言ってたけど、どういうことなの?」
老人が顔を上げる。
「ああ、聞いてましたか」少し落ち着きを取り戻したのか、徐々に話を始める。
「妻には持病があるんです」
「持病?」
「ええ、アジソン病と言って難病の一種です」
「アジソン病」聞いたことがない病気だ。
「副腎皮質ホルモンの低下で起きるんです。それで定期的にステロイドを服用する必要があります」
「どのくらいの時間で投与するの?」
「一日三回服用しています。今朝は飲んでいったので、まだ少しは余裕がありますが、あまり時間が経過すると命の危険があります」
「期限はどのくらい?」
「少なくとも明日の朝までには投与しないと、死ぬかもしれません」
それは大変だ。警察はそれを知っているのだろうか。
「警察に話はしたの?」
「しました。ただ、店の中が見えなくて、犯人の様子がわからないそうです。応答にも応じないようで対処の使用が無いらしいです」
「そうなんだ。奥さんが拉致されたときはどういう状況だったの?」
それを言われると老人は苦しそうな顔になる。
「私が先に店に行けばよかったんです。妻を先に行かせて私は駐車場に車を停めていた。私が店に行った時には事件が起きていました」
「どんな状態だったの?」
「それがよくわからないんです。男が叫んでいるのが聞こえました。それと非常ベルが鳴っていて、それで男が銃を出したようでした」
「銃を持ってたんだ」
「窓越しなのでよく見えなかったんですが、そのようでした」
「普通のハンドガンなのかな?」
「ハンドガン?」
「ああ」そういうとスマホを出して拳銃の画像を見せる。
「こんな感じかな」真加部が見せたのは自動拳銃やリボルバータイプの拳銃だ。
老人は老眼鏡を出してそれを見る。
「そうですね。はっきりとはわからないんですが、こっちの方だったような気がします」
老人が指さしたのはリボルバータイプだった。
「大きい感じか」
「多分」
大型のリボルバーは殺傷能力も高い。警察が警戒しているのはそういうこともあるのだろう。
「犯人は見たの?」
「ちらっとですが。ただ、マスクをしていてその上に帽子もかぶってました」
「眼鏡はしてたの?」
「ああ、多分」
なるほど、気の動転もあるのだろうが、老人の記憶力も当てにできないのかもしれない。
「その後はどうなったの?」
「店のブラインドを降ろして中が見えなくなりました」
「それは犯人が要求したの?」
「そのようです」
「犯人の目的は何だろう?」
「私が最初に来た時にわめいていたので、何かを出すように言っていたと思います」
「何か?」
「それなんですが、警察にも聞かれたんですが、よくわからなかった」
「おじさん以外にそれを聞いた人はいないの?」
「いないようです。あの辺は10時だと人もまばらで」
確かに平日のその時間だと、商店街にはあまり人はいないかもしれない。
老人は再び頭を抱える。「あの時間に行かなければよかった」そう言って顔を上げて真加部を見る。「娘の結婚指輪を受け取りに行ったんです」
「ああ。そうなんだ」
「ええ、来週結婚式を挙げるので、我々から贈るということで」
真加部が言う。
「おじさん、俺が助けに行こうか?」
老人はきょとんとした顔になる。この娘は何を言ってるんだろうと言った顔である。
「俺は探偵なんだ。真加部探偵社と言って、言われた仕事は必ずやり遂げる」
老人は半信半疑だ。この娘は頭がおかしいのではないかとも思っているかもしれない。
真加部が名刺を出す。「真加部探偵社は100%の成功率だ」
「本当に出来るのならお願いします」
「お金は払える?」
老人は困った顔をする。「ああ、そうですね」顔を下に向けるが思い直したように顔を上げる。「ああ、お金の問題じゃない。助けてくれるならいくらでも出します」
「人質奪還だと100万円が相場だよ」
「100万円ですか」そう言って躊躇する。なるほど、この老人に100万は厳しいのだろう。
「いえ、大丈夫です。助けてくれるならそれぐらい出します」
「わかった。絶対助ける」
老人は真剣なまなざしを真加部に向ける。
「まかせてくれ」そう言って最後に確認する。「男が何を言ってたか、感じでいいから言ってくれないか?叫んでいたんだろ」
「ああ、そうですね。バックとかカメとか、言っていたような気がします」
「バック、カメか、わかった」
そう言うと真加部は走り出していく。時間が無いのだ。