表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
私立探偵 真加部阿礼  作者: 春原 恵志
パクミンヘ
40/130

穏城(オルソン)

 トラックは予定よりも早く進んで行く。検閲は少なくとも町ごとに設けられており、ネズミはそのたびに賄賂を払っていた。そのせいもあって荷物検査も緩やかなのだろう。ここまでは、いたって順調に来ている。おそらくネズミのせいもあるのだろうが、顔が効くようだ。どこの検閲もネズミへの対応は悪くない。やはりここは根回しの世界なのだ。

 トラックはほぼ阿礼が運転していた。ネズミは阿礼の運転技能に感心している。普通は軍用トラックの運転は戸惑うものなのだが、阿礼はレーシングドライバー並みに車を操っていた。夜になって明かりも無く、悪路でもあり、運転は怖いはずだが、いとも簡単に運転するのである。

 車はいよいよ穏城オルソンに近づく。予定の18時間よりも4時間は早い。今は深夜2時だ。

「リー、そろそろ穏城に着くぞ」

 助手席で半分寝ていたネズミが、寝ぼけ眼で起き上がる。

「そうか、いよいよだな。もうすぐ検問だ。ここの検問は厳しいぞ。今はコロナだから、前ほどじゃないが、中国への脱北が最も多い場所だ。もし脱北でもされてみろ、兵隊だってただじゃすまないからな」

「わかってる」

 阿礼のハンドルを持つ手に力が入る。

 車が暗闇を走っていくと、突然、サーチライトのようなもので照らされる。検問だ。

 小銃を抱えた軍人が数人、トラックの前を遮る。

 阿礼に電灯の光をもろに浴びせる。

「降りろ!」

 阿礼とネズミは素直に従う。阿礼を見た軍人が言う。

「女か」そしてネズミを見て言う。「女を雇ったのか?」

「ええ、運転ができるもんで」

 軍人は妙に赤ら顔で、なめまわすように阿礼を見る。

「リー、こいつを借りるぞ」と言って阿礼を連れて行きそうになる。

「あ、ちょっと旦那、待ってください。荷物を急いで運ばないとならないんですよ」

「1、2時間いいだろ。酌婦が欲しいんだよ」

 なるほど、どうりで酒臭いわけだ。仲間内で一杯やっていたわけか。

 小銃を阿礼に突きつけるようにする。阿礼がネズミを見ると、なるほど、奴はここで阿礼が暴れないかを心配しているのがわかる。まあ、当然、叩きのめすことは簡単だが、ここには数人規模、下手をすると小隊規模で軍人がいる。そいつらとドンパチするとなると、無事では済まないだろう。

「いや、旦那、勘弁してください」そういってネズミは懐からいつもより多めの金を渡す。

「うーん、いや、ちょっとでいいんだ」お金をもらった割には引き下がらない。酔っぱらいはこうだから困る。

「ほんとに魚なんで腐るのが心配なんですよ。相手先も時間には正確なんで」

 ところが、こいつは妙にくどい。それほど阿礼が気にいったのだろうか。

 阿礼は奥の手を出す。急に咳をし出す。軍人はぎょっとする。

「ああ、すみません。昨日から咳が止まらないのと、熱があるので、ああ、お酌ですか、行きます」

 軍人は急に慌てる。

「ちょっと待て、お前、まさか罹患してないよな」

「え、さあ、でも熱が下がらないんです。触ってみますか?」

 そう言って頭を出す。

「ば、バカ、いい。おい、検閲終わったか?」

 荷台を検査していた仲間に言う。

「大丈夫です。魚しかないです」

「わ、わかった。早く行け」

 阿礼とネズミが運転席に戻る。

 見ると軍人は急いで手を洗いに行くようだ。

 トラックが走り出すと、ネズミがにやりとする。

「さすがだな」

 阿礼は真顔で、「いや、咳と熱は本当だ。触ってみろ」と頭を出す。

 ネズミがぎょっとする。

「ははは、冗談だ。まあ、怒りで体温はあがったがな」

 ネズミはあきれて首を振る。


 そして豆満江トゥマンガンが左手に見えてくる。川の流れは早そうに見える。増水しているのだ。

「もう少し先だ。ここいらは川幅が狭い。脱北者が多かったところだ。軍隊が見張っている」

「知ってる。監視塔もあるようだな」

「ああ、赤外線感知装置もある。それと、ここいらの軍人は精鋭だ。人民軍直属の特殊部隊がいる」

「何があっても脱北させないつもりだな」

「地雷もあるって噂だ」

「それじゃあ、やつらも追尾できないだろう」

「さあな。自分たちは判断できるのかもな」

「最近の雨で川も増水している。川幅が広いところでの脱北は無いと思っている。そこが付け目だ」

「なるほどな」

「手漕ぎの船を用意してある。それに乗って川を渡れ。それとな、向こう岸には中国軍も待機してるぞ。見つかればすぐに強制送還だ。むしろそっちがやばい。賄賂が効くかわからない。それも中国軍人によるんだ」

「わかった」

 ネズミが時計を確認する。

「ちょうどいい時間だ。見張りは4時ごろに交代するはずだ。ちょうど手薄になる」

「そうか」

 この暗い中でネズミは場所がわかるのだろうか。阿礼はそれなりに目が言いので辺りの様子はわかる。

 川から外れて森が見えてきた。

「よし、ここでいいぞ」

 トラックを停める。

 ネズミがホロを外す。

「出ていいぞ」

 ポリボックスから5人が顔を出す。さすがに長旅で疲労の色はぬぐえない。特に母親は増々体調が悪そうだ。

 ネズミが阿礼に話す。

「そこに獣道がある。その先に川が見える。その手前に船が置いてある。草なんかでカモフラージュしてあるが、お前さんなら気付くだろう。それと地雷には気を付けろ。けもの道だから大丈夫だと思うがな」

 動物は地雷などの人工物に異常に反応する。それで地雷を避ける傾向があるという。

「リーさん、ありがとう」阿礼がネズミと握手する。

「よせ、金のためだ」

「俺が知る限り、最高の北朝鮮人だ」

 ネスミはそのまま振り返ることもせずに、トラックに戻っていく。

 阿礼は我に返って、パク達に言う。

「これから川を渡る。最後の難関だ」

 疲れた顔をしても一同が真剣にうなずく。

「地雷が設置されているかもしれない。俺が歩いた後を慎重に付いて来てくれ。できれば足跡も同じにしてくれ」

 さすがに、これには困った顔をする。まあ、無理もない。こんな夜道でそれは酷というものだ。

「付いて来て」

 阿礼を先頭に弟、祖母、両親、パクの順で列になって森に入って行く。

 さすがに獣道だ。鬱蒼としている。暗闇もあって先が見通せない。しかし、考えによっては月明りも無く、脱北するには適した天候とも言える。阿礼はついているのだ。

 母親はやはり苦しそうで、息も絶え絶えに歩くのがやっとの状態だった。

 しばらく進むと、川の音が聞こえてきた。阿礼は周囲を気にする。ネズミの言うように警備の警戒は薄れている気がする。ここからは監視塔も見えない。

 そして阿礼は気づく。草木で覆ってあるが。そこに木造船があった。そしてその先に川が見えた。

「よし、船を川に運ぶぞ」

 阿礼と男たちが船のカモフラージュを外していく。なるほど、この大きさだと5人がやっとかもしれない。ほんとに単なる木の船だ。

「軽そうだな。まあ、運ぶにはいいが、じゃあ、ゆっくり川まで運ぶぞ」

 船を川に向けてずるずると動かしていく。音が気になるが、川の音もそれなりにしているので、何とかなるだろう。

 川まで来て愕然とする。川幅がとんでもなく広いのだ。100mはあるだろうか、川は濁流に近い。向こう岸がかすんでよく見えない。

 パクが心配そうに言う。

「これで渡れるのか?」

「何とかする」

 阿礼は今一度、周囲を確認する。監視塔はここから500mぐらい先に見えた。

 船を川岸に付ける。

「みんな、乗ってくれ」

 全員がその貧相な木造船に乗っていく。弟が泣きそうな声を出す。

「これ沈むよ」

 確かに6人乗ると沈みそうだ。阿礼は5人が乗った時点で、船を後ろから押していく。木造船はずるずるという音と供に前に進んでいく。

 パクが目をむく。なんという阿礼のパワーなのだろうか。馬並みである。

 船が岸から外れた瞬間に阿礼が飛び乗る。

 そして阿礼は、まるでマシンのように先ほど拾った太い木をかいのように漕ぎ出す。凄まじいパワーだ。

 それでも水の勢いは激しい。濁流に抗おうとするも、船は斜めに進むしかない。その時だ。

 船にサーチライトが当たる。

「止まれ!」拡声器から大声が聞こえる。

 川岸に軍人たちが次々と現れる。

 阿礼はとにかく漕ぐしかない。

「止まらないと撃つぞ!」しかし、その声とは裏腹にもう撃っている。

 船内から悲鳴が上がる。自動小銃が乱射されていく。

「くそ!」阿礼が唸ると同時に、自分のリュックをパクに渡す。

「これで防げ」リュックを盾にしろというのである。

 そして阿礼は思いもよらぬ行動に出る。

 木造船から川に飛び込んでいく。

 パクが叫ぶ。「阿礼!」

 いったん、川に沈んだと思った阿礼は、船の後部に取りつく。そしてあろうことか、船をビート板のようにして、バタ足で推進していくのだ。

 えっとパクが思うのもつかの間、船はモーターボート化する。

 木造船は阿礼というエンジン付きのボートになり、一直線に向こう岸まで渡ろうとする。

 自動小銃が連続して撃ち続けられる。奴らも必死なのだ。木造船にも銃弾が当たる。木片が飛び散って、そのたびに船内から悲鳴が上がる。阿礼は泳ぎ続ける。馬並みのいや、今はイルカ並みのパワーを持って。

 そしてついに対岸が見えてきた。

「阿礼、中国だ!」

 阿礼は力を緩めない。そのまま泳ぎ続ける。そしてとうとう岸に着いた。

 中国側は森になっていた。

 さすがに北の兵士も対岸までの攻撃はしない。あきらめるしかないのだ。ここは中国だ。下手に撃つと新たな火種を生むことになる。

 5人が中国の地に降り立つ。

 阿礼が船尾から陸に上がってくる。当たり前だがもうびしょ濡れだ。

「阿礼、大丈夫か?」

「ああ、大丈夫だ。さあ、行くぞ」

 100mもの距離を、船のエンジンになって泳いだとは思えないほどの回復ぶりである。まるでちょっとジョギングしましたといった雰囲気だ。

 阿礼を先頭に森を進む。


 そして最悪の事態が訪れる。

「止まれ!」

 森の中から今度は中国軍が現れた。3名もの軍人がやはり自動小銃を構えている。

 実際、越境については、中国側の体制は北朝鮮よりもはるかに厳しくなっている。ここでも国境警備の主力部隊が警備に当たっており、検挙率は90%以上だ。さらに運よくここを抜けたとしても、以降も規制は続き、事実上、脱北は不可能に近い。

 阿礼はがっくりと肩を落とす。もうこうなってはどうしようもない。中国軍との戦闘は彼女だけであれば何とかなるが、家族は犠牲になる可能性が高い。

「朝鮮人だな」

 パクが涙ながらに言う。「助けてください。送還されれば殺されます」

 軍人たちは朝鮮語は、わからないようで、気にも留めない。阿礼が中国語で話す。

「見なかったことにしてくれないか?」そういってドル紙幣を渡す。

 兵士は金を受け取るが、これは駄賃としてもらっておく。そう言うと小銃で小突きながらパク達を連行していく。

 阿礼は隙を伺うが、家族がいては如何ともしがたい。ただ、目だけがギラギラとしていた。

 森を抜けると小屋があった。兵士たちが駐屯しているのだろう。数名の兵隊たちが警備に当たっていた。

 阿礼たちを見て言う。

「家族で脱北か、久しぶりだな」

 パク達家族は皆泣いていた。本国に送還されれば、間違いなく何らかの罰則はある。運よく死刑を免れても、凄まじい試練が待っているのだ。

 阿礼がパクに言う。

「すまない」

 パクは何も言わない。たしかに阿礼のせいではない。しかし、この現実は受け入れられない。

 小屋に入れられそうになった時に、向こうから軍用車輛が近づいてきた。

 見た目はアメリカのハマーそっくりだが、中国車の東風EQ2050猛士である。

 車輛から中年男性が降りてくる。阿礼たちを拉致していた兵士たちが緊張する。

 なるほど、上官のようだ。軍服からは勲章の類があふれている。

 兵士が上官に敬礼をする。右手を伸ばし、人差し指と中指を眉の右側に付ける中国式だ。

「大尉殿、脱北者を拿捕いたしました」

「ご苦労、久々だな」

 大尉は敬礼した兵士に近づく。

「貴様、まさか賄賂を受け取ったりしてないな」

「はい、滅相もありません」敬礼したまま答える。

 大尉はいきなりその兵士のポケットに手を入れる。あまりの早さに何もできない。ドル紙幣が数枚落ちてくる。

「これは何だ」

 兵士は冷や汗を流す。

 大尉はポケットの残りの札も取り上げると、「本来は軍法会議扱いだが、見なかったことにする」

 そう言うと自分の懐に入れた。

「ありがとうございます」兵士は今や涙を流さんばかりだ。

「こいつらは俺が連行する。ちょうど公安によることになっている」

「いえ、それでは申し訳が立ちません」

「いいんだ。そうだ。これでなんか食え」

 そう言って自分がせしめたドル札を数枚だけ戻す。

「いいのでありますか?」

「貴様たちが頑張って国境警備をしているから、この国の平和が守られるのだ」

「はい、ありがとうございます」

 大尉は阿礼たちに言う。

「車に乗れ」

 阿礼たちは仕方なく、車に乗り込む。

 大尉は兵士たちに挨拶した後、車に乗り込んできた。

「さあ、行くぞ」

 車が発進する。

 阿礼はしばらく黙ったままだ。先程までのギラギラした目は収まっている。そしてなんと阿礼が話し出す。

「大尉殿、目的地はどこですか?」

「ああ、延吉朝陽川空港まで行く」

 後部座席のパクが驚く。この大尉は何を言っているのか。

「その後は北京からロサンゼルスだな」

「じゃあ、偽造パスポートがいるな」

「大丈夫だ。全員分用意している」

 阿礼が満面の笑顔になる。

「文伍!」

「阿礼、よくやったな」

「どうしてわかったんだ。あそこにいるなんて神のみぞ知るだろ」

「阿礼の考えなんか、手に取るようにわかるんだよ。まあ、豆満江を渡るとすればあの辺りだからな。中国軍の無線も聞いてた」

「その衣装はどうした?」

「コスプレだよ。今度のパーティで使おうと思ってたんだ」

「まったく似合わないよ」

 パクが目を白黒させている。

「阿礼、この人は誰なんだ」

「ああ、この人は真加部文伍、俺の親父だ」

「初めまして皆さん。阿礼の父親です。娘がご迷惑をお掛けしましたね」

 後部座席に座ったパク家族が抱き合って喜んでいる。パクも涙を流している。

 弟も飛び跳ねて喜んでいる。

 パク達家族全員が、生まれて初めての心からの笑顔だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ