穏城(オルソン)
トラックは予定よりも早く進んで行く。検閲は少なくとも町ごとに設けられており、ネズミはそのたびに賄賂を払っていた。そのせいもあって荷物検査も緩やかなのだろう。ここまでは、いたって順調に来ている。おそらくネズミのせいもあるのだろうが、顔が効くようだ。どこの検閲もネズミへの対応は悪くない。やはりここは根回しの世界なのだ。
トラックはほぼ阿礼が運転していた。ネズミは阿礼の運転技能に感心している。普通は軍用トラックの運転は戸惑うものなのだが、阿礼はレーシングドライバー並みに車を操っていた。夜になって明かりも無く、悪路でもあり、運転は怖いはずだが、いとも簡単に運転するのである。
車はいよいよ穏城に近づく。予定の18時間よりも4時間は早い。今は深夜2時だ。
「リー、そろそろ穏城に着くぞ」
助手席で半分寝ていたネズミが、寝ぼけ眼で起き上がる。
「そうか、いよいよだな。もうすぐ検問だ。ここの検問は厳しいぞ。今はコロナだから、前ほどじゃないが、中国への脱北が最も多い場所だ。もし脱北でもされてみろ、兵隊だってただじゃすまないからな」
「わかってる」
阿礼のハンドルを持つ手に力が入る。
車が暗闇を走っていくと、突然、サーチライトのようなもので照らされる。検問だ。
小銃を抱えた軍人が数人、トラックの前を遮る。
阿礼に電灯の光をもろに浴びせる。
「降りろ!」
阿礼とネズミは素直に従う。阿礼を見た軍人が言う。
「女か」そしてネズミを見て言う。「女を雇ったのか?」
「ええ、運転ができるもんで」
軍人は妙に赤ら顔で、なめまわすように阿礼を見る。
「リー、こいつを借りるぞ」と言って阿礼を連れて行きそうになる。
「あ、ちょっと旦那、待ってください。荷物を急いで運ばないとならないんですよ」
「1、2時間いいだろ。酌婦が欲しいんだよ」
なるほど、どうりで酒臭いわけだ。仲間内で一杯やっていたわけか。
小銃を阿礼に突きつけるようにする。阿礼がネズミを見ると、なるほど、奴はここで阿礼が暴れないかを心配しているのがわかる。まあ、当然、叩きのめすことは簡単だが、ここには数人規模、下手をすると小隊規模で軍人がいる。そいつらとドンパチするとなると、無事では済まないだろう。
「いや、旦那、勘弁してください」そういってネズミは懐からいつもより多めの金を渡す。
「うーん、いや、ちょっとでいいんだ」お金をもらった割には引き下がらない。酔っぱらいはこうだから困る。
「ほんとに魚なんで腐るのが心配なんですよ。相手先も時間には正確なんで」
ところが、こいつは妙にくどい。それほど阿礼が気にいったのだろうか。
阿礼は奥の手を出す。急に咳をし出す。軍人はぎょっとする。
「ああ、すみません。昨日から咳が止まらないのと、熱があるので、ああ、お酌ですか、行きます」
軍人は急に慌てる。
「ちょっと待て、お前、まさか罹患してないよな」
「え、さあ、でも熱が下がらないんです。触ってみますか?」
そう言って頭を出す。
「ば、バカ、いい。おい、検閲終わったか?」
荷台を検査していた仲間に言う。
「大丈夫です。魚しかないです」
「わ、わかった。早く行け」
阿礼とネズミが運転席に戻る。
見ると軍人は急いで手を洗いに行くようだ。
トラックが走り出すと、ネズミがにやりとする。
「さすがだな」
阿礼は真顔で、「いや、咳と熱は本当だ。触ってみろ」と頭を出す。
ネズミがぎょっとする。
「ははは、冗談だ。まあ、怒りで体温はあがったがな」
ネズミはあきれて首を振る。
そして豆満江が左手に見えてくる。川の流れは早そうに見える。増水しているのだ。
「もう少し先だ。ここいらは川幅が狭い。脱北者が多かったところだ。軍隊が見張っている」
「知ってる。監視塔もあるようだな」
「ああ、赤外線感知装置もある。それと、ここいらの軍人は精鋭だ。人民軍直属の特殊部隊がいる」
「何があっても脱北させないつもりだな」
「地雷もあるって噂だ」
「それじゃあ、やつらも追尾できないだろう」
「さあな。自分たちは判断できるのかもな」
「最近の雨で川も増水している。川幅が広いところでの脱北は無いと思っている。そこが付け目だ」
「なるほどな」
「手漕ぎの船を用意してある。それに乗って川を渡れ。それとな、向こう岸には中国軍も待機してるぞ。見つかればすぐに強制送還だ。むしろそっちがやばい。賄賂が効くかわからない。それも中国軍人によるんだ」
「わかった」
ネズミが時計を確認する。
「ちょうどいい時間だ。見張りは4時ごろに交代するはずだ。ちょうど手薄になる」
「そうか」
この暗い中でネズミは場所がわかるのだろうか。阿礼はそれなりに目が言いので辺りの様子はわかる。
川から外れて森が見えてきた。
「よし、ここでいいぞ」
トラックを停める。
ネズミがホロを外す。
「出ていいぞ」
ポリボックスから5人が顔を出す。さすがに長旅で疲労の色はぬぐえない。特に母親は増々体調が悪そうだ。
ネズミが阿礼に話す。
「そこに獣道がある。その先に川が見える。その手前に船が置いてある。草なんかでカモフラージュしてあるが、お前さんなら気付くだろう。それと地雷には気を付けろ。けもの道だから大丈夫だと思うがな」
動物は地雷などの人工物に異常に反応する。それで地雷を避ける傾向があるという。
「リーさん、ありがとう」阿礼がネズミと握手する。
「よせ、金のためだ」
「俺が知る限り、最高の北朝鮮人だ」
ネスミはそのまま振り返ることもせずに、トラックに戻っていく。
阿礼は我に返って、パク達に言う。
「これから川を渡る。最後の難関だ」
疲れた顔をしても一同が真剣にうなずく。
「地雷が設置されているかもしれない。俺が歩いた後を慎重に付いて来てくれ。できれば足跡も同じにしてくれ」
さすがに、これには困った顔をする。まあ、無理もない。こんな夜道でそれは酷というものだ。
「付いて来て」
阿礼を先頭に弟、祖母、両親、パクの順で列になって森に入って行く。
さすがに獣道だ。鬱蒼としている。暗闇もあって先が見通せない。しかし、考えによっては月明りも無く、脱北するには適した天候とも言える。阿礼はついているのだ。
母親はやはり苦しそうで、息も絶え絶えに歩くのがやっとの状態だった。
しばらく進むと、川の音が聞こえてきた。阿礼は周囲を気にする。ネズミの言うように警備の警戒は薄れている気がする。ここからは監視塔も見えない。
そして阿礼は気づく。草木で覆ってあるが。そこに木造船があった。そしてその先に川が見えた。
「よし、船を川に運ぶぞ」
阿礼と男たちが船のカモフラージュを外していく。なるほど、この大きさだと5人がやっとかもしれない。ほんとに単なる木の船だ。
「軽そうだな。まあ、運ぶにはいいが、じゃあ、ゆっくり川まで運ぶぞ」
船を川に向けてずるずると動かしていく。音が気になるが、川の音もそれなりにしているので、何とかなるだろう。
川まで来て愕然とする。川幅がとんでもなく広いのだ。100mはあるだろうか、川は濁流に近い。向こう岸がかすんでよく見えない。
パクが心配そうに言う。
「これで渡れるのか?」
「何とかする」
阿礼は今一度、周囲を確認する。監視塔はここから500mぐらい先に見えた。
船を川岸に付ける。
「みんな、乗ってくれ」
全員がその貧相な木造船に乗っていく。弟が泣きそうな声を出す。
「これ沈むよ」
確かに6人乗ると沈みそうだ。阿礼は5人が乗った時点で、船を後ろから押していく。木造船はずるずるという音と供に前に進んでいく。
パクが目をむく。なんという阿礼のパワーなのだろうか。馬並みである。
船が岸から外れた瞬間に阿礼が飛び乗る。
そして阿礼は、まるでマシンのように先ほど拾った太い木を櫂のように漕ぎ出す。凄まじいパワーだ。
それでも水の勢いは激しい。濁流に抗おうとするも、船は斜めに進むしかない。その時だ。
船にサーチライトが当たる。
「止まれ!」拡声器から大声が聞こえる。
川岸に軍人たちが次々と現れる。
阿礼はとにかく漕ぐしかない。
「止まらないと撃つぞ!」しかし、その声とは裏腹にもう撃っている。
船内から悲鳴が上がる。自動小銃が乱射されていく。
「くそ!」阿礼が唸ると同時に、自分のリュックをパクに渡す。
「これで防げ」リュックを盾にしろというのである。
そして阿礼は思いもよらぬ行動に出る。
木造船から川に飛び込んでいく。
パクが叫ぶ。「阿礼!」
いったん、川に沈んだと思った阿礼は、船の後部に取りつく。そしてあろうことか、船をビート板のようにして、バタ足で推進していくのだ。
えっとパクが思うのもつかの間、船はモーターボート化する。
木造船は阿礼というエンジン付きのボートになり、一直線に向こう岸まで渡ろうとする。
自動小銃が連続して撃ち続けられる。奴らも必死なのだ。木造船にも銃弾が当たる。木片が飛び散って、そのたびに船内から悲鳴が上がる。阿礼は泳ぎ続ける。馬並みのいや、今はイルカ並みのパワーを持って。
そしてついに対岸が見えてきた。
「阿礼、中国だ!」
阿礼は力を緩めない。そのまま泳ぎ続ける。そしてとうとう岸に着いた。
中国側は森になっていた。
さすがに北の兵士も対岸までの攻撃はしない。あきらめるしかないのだ。ここは中国だ。下手に撃つと新たな火種を生むことになる。
5人が中国の地に降り立つ。
阿礼が船尾から陸に上がってくる。当たり前だがもうびしょ濡れだ。
「阿礼、大丈夫か?」
「ああ、大丈夫だ。さあ、行くぞ」
100mもの距離を、船のエンジンになって泳いだとは思えないほどの回復ぶりである。まるでちょっとジョギングしましたといった雰囲気だ。
阿礼を先頭に森を進む。
そして最悪の事態が訪れる。
「止まれ!」
森の中から今度は中国軍が現れた。3名もの軍人がやはり自動小銃を構えている。
実際、越境については、中国側の体制は北朝鮮よりもはるかに厳しくなっている。ここでも国境警備の主力部隊が警備に当たっており、検挙率は90%以上だ。さらに運よくここを抜けたとしても、以降も規制は続き、事実上、脱北は不可能に近い。
阿礼はがっくりと肩を落とす。もうこうなってはどうしようもない。中国軍との戦闘は彼女だけであれば何とかなるが、家族は犠牲になる可能性が高い。
「朝鮮人だな」
パクが涙ながらに言う。「助けてください。送還されれば殺されます」
軍人たちは朝鮮語は、わからないようで、気にも留めない。阿礼が中国語で話す。
「見なかったことにしてくれないか?」そういってドル紙幣を渡す。
兵士は金を受け取るが、これは駄賃としてもらっておく。そう言うと小銃で小突きながらパク達を連行していく。
阿礼は隙を伺うが、家族がいては如何ともしがたい。ただ、目だけがギラギラとしていた。
森を抜けると小屋があった。兵士たちが駐屯しているのだろう。数名の兵隊たちが警備に当たっていた。
阿礼たちを見て言う。
「家族で脱北か、久しぶりだな」
パク達家族は皆泣いていた。本国に送還されれば、間違いなく何らかの罰則はある。運よく死刑を免れても、凄まじい試練が待っているのだ。
阿礼がパクに言う。
「すまない」
パクは何も言わない。たしかに阿礼のせいではない。しかし、この現実は受け入れられない。
小屋に入れられそうになった時に、向こうから軍用車輛が近づいてきた。
見た目はアメリカのハマーそっくりだが、中国車の東風EQ2050猛士である。
車輛から中年男性が降りてくる。阿礼たちを拉致していた兵士たちが緊張する。
なるほど、上官のようだ。軍服からは勲章の類があふれている。
兵士が上官に敬礼をする。右手を伸ばし、人差し指と中指を眉の右側に付ける中国式だ。
「大尉殿、脱北者を拿捕いたしました」
「ご苦労、久々だな」
大尉は敬礼した兵士に近づく。
「貴様、まさか賄賂を受け取ったりしてないな」
「はい、滅相もありません」敬礼したまま答える。
大尉はいきなりその兵士のポケットに手を入れる。あまりの早さに何もできない。ドル紙幣が数枚落ちてくる。
「これは何だ」
兵士は冷や汗を流す。
大尉はポケットの残りの札も取り上げると、「本来は軍法会議扱いだが、見なかったことにする」
そう言うと自分の懐に入れた。
「ありがとうございます」兵士は今や涙を流さんばかりだ。
「こいつらは俺が連行する。ちょうど公安によることになっている」
「いえ、それでは申し訳が立ちません」
「いいんだ。そうだ。これでなんか食え」
そう言って自分がせしめたドル札を数枚だけ戻す。
「いいのでありますか?」
「貴様たちが頑張って国境警備をしているから、この国の平和が守られるのだ」
「はい、ありがとうございます」
大尉は阿礼たちに言う。
「車に乗れ」
阿礼たちは仕方なく、車に乗り込む。
大尉は兵士たちに挨拶した後、車に乗り込んできた。
「さあ、行くぞ」
車が発進する。
阿礼はしばらく黙ったままだ。先程までのギラギラした目は収まっている。そしてなんと阿礼が話し出す。
「大尉殿、目的地はどこですか?」
「ああ、延吉朝陽川空港まで行く」
後部座席のパクが驚く。この大尉は何を言っているのか。
「その後は北京からロサンゼルスだな」
「じゃあ、偽造パスポートがいるな」
「大丈夫だ。全員分用意している」
阿礼が満面の笑顔になる。
「文伍!」
「阿礼、よくやったな」
「どうしてわかったんだ。あそこにいるなんて神のみぞ知るだろ」
「阿礼の考えなんか、手に取るようにわかるんだよ。まあ、豆満江を渡るとすればあの辺りだからな。中国軍の無線も聞いてた」
「その衣装はどうした?」
「コスプレだよ。今度のパーティで使おうと思ってたんだ」
「まったく似合わないよ」
パクが目を白黒させている。
「阿礼、この人は誰なんだ」
「ああ、この人は真加部文伍、俺の親父だ」
「初めまして皆さん。阿礼の父親です。娘がご迷惑をお掛けしましたね」
後部座席に座ったパク家族が抱き合って喜んでいる。パクも涙を流している。
弟も飛び跳ねて喜んでいる。
パク達家族全員が、生まれて初めての心からの笑顔だった。




