鴨緑江(おうりょくこう)のネズミ
平壌は北朝鮮の首都だ。それなりに高層ビルもあるが、少し裏通りに入ると、この国の貧しさを実感することになる。町全体が灰色に覆われたようで、建物は平屋がほとんど、そして老朽化し、田舎の寂れた街並みと変わらない。人々が笑いあうようなこともなく、日本製の中古自転車も目立つ。自動車に乗るような者はここにはいない。
文伍から教えられた場所に急ぐ。
闇営業なのだろうか、道路沿いに露店が出ている。台があるのはいいほうで、地べたに茣蓙を敷いて売っているのも目立つ。売っているものは服や靴、電気製品、タバコ、化粧品や食品、いかがわしい医療品も売っている。さしずめ、ここがコンビニのようなものか。ただ、中古品や粗悪品であることはわかる。
該当の住所まで来ると、一応、建物はあった。ここは露店ではないようだ。表の看板は『クッチェサンジョム(国際商店)』とある。なるほど、いかにもと言った名前だ。
店の間口は3mぐらいと広く、店の前には色々な商品が置いてあった。表向きは中国製品を販売しているようだ。これまでの闇市とは異なり、それなりの品物に見える。
店頭に人はおらず、阿礼は中に声を掛ける。
「すみません」
すぐに中から人が出てくる。ああ、いかにもといった強面の中年男である。
「はい、何か」凡そ物を販売しそうにない雰囲気である。阿礼をねめつける。
「鴨緑江のネズミに会いたい」
途端に顔色が変わる。
「てめえ、何言ってやがる」いきなり殴りかからんばかりの勢いである。
阿礼はまったく動じず。「頼みたいことがある」
「だから、そんな奴は知らないって言ってんだろ」
仕方が無いとばかりに、阿礼はドル札を見せる。
「これでも知らないか?」
男は目を大きく開けて、柔和な顔になる。
「ああ、ネズミか。ちょうどいるよ。奥に来な」
男はそのまま奥に向かっていく。阿礼もついていく。
店の奥は事務所になっているのか、机、椅子などがあり、雑多な箱が積んであった。
男は振り返ると、「ネズミに会う前に俺と楽しいことしようぜ」
そう言って阿礼に抱きつこうとする。
瞬殺だった。阿礼は男の前から消えると、強烈なパンチを腹に打ち込む。
鈍い音がして、男は目をむくと、そのまま前のめりに倒れていく。
音に気付いて、奥の方から男が出てきた。そして目の前の光景に目を疑う。
「お前がやったのか?」
痩せぎすで目のギラギラした、日焼けした中年男だ。貫禄から言ってこいつがネズミだろう。
「殺したのか?」
「いや、程度はわきまえてる。気絶しただけだ」
中年男は倒れた仲間を確認する。確かに息はあった。阿礼が言う。
「おさわり厳禁だからな。お仕置きだ。それであんたが鴨緑江のネズミか?」
男は阿礼をじっと見る。
「誰から聞いた?」
「出どころは言えない。ただ、あんたに頼めば上手くいくと聞いた」
「案件による。あんた、誰なんだ?」
「アメリカのエージェントだ」
男は少し驚く。「よくここまで来れたな。まあ、いい。で、どういう仕事だ」
「家族5人を脱北させたい」
ネズミは眉間にしわを寄せる。
「5人は多いな」
「俺も協力する」
「この力でか」男は床に倒れた男を指す。「いや、そういう問題じゃない。戦争をやるつもりじゃないんだろ」
阿礼は黙る。
「要はどうやって、何風立てずにいなくなれるかってことなんだよ。わかるか、俺もここで生きて行かなくちゃならない。事を起こすわけにはいかないんだ」
阿礼はうなずく。
「金が要るぞ。俺に払う分だけじゃない。相当な数の検問を抜けなくちゃならない」
「大丈夫だ」
ネズミはふっと笑う。
「一人1万ドルだ。お前さんを入れて6万ドル」
「わかった」
ネズミは驚く。
「現金だぞ。米ドルだ」
「もちろん」
ネズミは真剣な顔になる。
「失敗しても仕方が無い案件だ。もし追われるようなことになれば、俺は遠慮なく逃げるぞ」
「いいだろ」
「それとこっちが送れるのは、豆満江、中国に渡る川岸までだ。あとは知らない」
「船はあるのか?」
「6人が乗れる木造船を用意する。ああ、当然、エンジンなんかないぞ。手漕ぎだ」
「わかった」
「運が良ければ歩いて渡れる川だ。ただ、今は雨期だから厳しいな」
「いつ行ける?急いでるんだ」
「そうだな」ネズミは考える。「三日くれ、それで何とかしよう」
「家族を連れて来ればいいのか?」
「いや、こっちから行く。当局の目もある。今や、あんたが知ったように、こっちの闇商売もそれなりに気付かれてる節がある」
「じゃあ、俺だけが来ればいいか?」
「そうしてくれ。三日後のそうだな。昼の12時でいいか」
「わかった。金はその時に渡す」
「普通は前金をもらうんだが、いいだろ。お前を信じよう」
「よろしく頼む」
阿礼は店を後にする。
そしてその深夜、再び寮に忍び込むとパクに詳細を話す。パクも納得し、決行は三日後になった。




