幽霊の正体
阿礼は北京経由で、平壌の平壌順安国際空港に入国する。
日中の到着なのだが、空港内は薄暗い。照明が極端に減らされているせいだろう。この国の電力事情がわかる。空港も国際という名とは程遠い。地方空港、それも相当に古い空港を思わせる。
ラオス大使館員として、証明書やパスポートも準備していたのだが、やはり金に勝るものはなかった。入国審査の担当に露骨に賄賂を渡す。それで入国のスムーズさがまるで違ってきた。
そんな中でも阿礼に監視は付いていた。この国のガードは固い。入国してからずっと後を付けられていた。
空港前にはスミスが手配したガイドが車で待っていた。また、こういったガイドについても政府が管理している。この地で単独行動などは不可能なのだ。あらかじめ決められた動きしかできないようになっている。
車は北朝鮮国産のセダンタイプで、クラシックカーを思わせる。
そして平壌市内もまるでゴーストタウンのようだった。コロナの影響もあるのか、人が出歩いていないのだ。思った以上にコロナの脅威が広まっているようだ。
ガイドは現地人で、阿礼を見て確認する。
「名前は?」これは本人確認の意味もある。
「ワンナです。よろしくお願いします」阿礼は朝鮮語を話し、さらにお金も渡す。途端にガイドの機嫌がよくなる。
「朝鮮語が話せるのか?」
「日常会話程度です」
「ラオス大使館まで行けばいいのか?」
「そうです。お願いします」
万景台区域から牡丹峰通りを経由し、平壌―順安高速道路を走っていく。ガイドはほとんど話をしなかった。さすがに空港からの監視は無いようだった。もっともこのガイドは政府管轄なので監視されていることに間違いはない。
40分ぐらいかけて、ラオス大使館まで来る。ここで降ろされる。
ガイドは大使館に入るところまで監視を続けるようだ。停まったままで、こちらを見ている。阿礼は気にせずに大使館に入る。
ラオス大使館は普通の民家のようだった。それでもここでは高級な部類に入る。
入り口を入ると、隣の部屋から担当官が出てきた。若い男性だ。
阿礼は名乗る。「ワンナです」
男は真加部を見て「話は聞いている」と英語で話す。
「よろしくお願いします」阿礼はラオス語を話す。
男は驚く。「ラオス語がしゃべれるのか?」
「いえ、昔タイにいたので日常会話程度です」
「なるほど」ラオス語とタイ語は親せきのような関係で、似ている部分がある。
男は阿礼にメモを渡す。
「これはここで処分してくれ。裏口から出られる」
阿礼はメモを見て驚く。本当にこの場所なのだろうか。
そこには―ミリム大学学生寮2・24号室、19時―とあった。
「スミスはどうなりましたか?」
待っているはずの外人がいないので聞いてみた。
「彼は動きが取れないそうだ。それでこのメモを渡すように言われた」
なるほど、スミスでも動きが取れないほど、北のガードがきつくなっているということか、コロナ禍のせいなのだろうか。ただ、そうなると偽造パスポートなどの手配も自分でやるしかない。まさに前途多難だ。
もらったメモだと、場所は学生寮を指定している。ハッカーはまだ学生なのか。
「色々、世話になった」
「これから行くのか?」
「はい、情報収集を兼ねて待ち合わせ場所まで行ってみます」
阿礼はそう言うと、すぐさま、メモを捨てて裏口に回る。
周囲を確認する。さすがに監視の目は無いようだ。ただ、監視カメラの設置はあるようで、2か所のカメラが確認できた。
大使館員が普通に外に出るのだから、問題はないだろうと、阿礼は堂々と出て行く。
そして人気のない場所まで来ると、背中のリュックから衣装を出す。この地では、春先にはよく見かける一般的なシャツとパンツ姿だ。見るからに古そうな服装だが、ロスでは目立つがここでは目立たない。
それに着替えると、いきなり走り出す。ミリム大学までは車で10分ぐらいの距離だ。阿礼が走るとそれぐらいでは着く。
走りながら、街を確認するも、やはり人通りが少ない。ここは首都なのだ。それにしても出会う人の数は信じられないほど少ない。これはコロナの影響なのだろうか。それともいつも同じなのだろうか。これまで、北朝鮮はコロナ罹患者はゼロと発表していたが、実際は相当数が被害にあっていたとも聞く。まあ、春先のこの時期にここまで人が少ないのはその証拠だろう。
そして、10分でミリム大学まで来る。
ここは2015年に設立された。軍事先端科学の研究を目的としている。まさにハッカーの養成所でもある。幽霊がここに在籍しているのもうなずける。
大学は川沿いに建つ、5階建ての近代的な建物である。
そして寮は同じ敷地内にあり、やはりここも監視対象のようだ。
阿礼は学生のふりをするしかない。幸い顔立ちはアジア人なので、全く違和感がないとは言わないが、いてもおかしくはない顔だ。
正門から堂々と入るわけにはいかない。当然、入館にはチェックが入る。
大学自体には厳重な監視があるが、寮についてはそれほどでもないようだ。ただ、周囲は2m以上の高い塀で囲われている。さすが軍事関連施設である。
阿礼は何気を装って周囲を歩いて行く。監視カメラの位置を確認すると、川沿いの箇所に死角があるのを見つけた。まあ、普通の人間であれば、そこからよじ登ることは不可能である。
阿礼は周囲を確認すると、数メートルの助走とともに飛び上がり、塀の上面に手を掛ける。実に3m近く飛んだわけだ。そして塀に素早くよじ登ると、そのまま敷地内まで飛び降りる。
ちょうど草むらに着地した。周囲を確認するが、ラッキーなことに人はいなかった。待ち合わせ時間までには、あと2時間はある。この時間だと寮生はまだ帰ってはいないだろう、人がいない時間に早めに潜伏したほうがいいと判断する。
とにかく校内では学生のように振舞えばいいのだ。さりげなく、それでいて素早く寮に急ぐ。
寮は2階建てでそれほど監視の目もないようだった。東洋にありがちな木造の校舎然とした建物だ。周囲を歩くと、裏口を発見する。少しだけ扉を開ける。なるほど、ここから食堂に通じるようだ。人もいないので、すぐさま中に入る。
早く24号室を見つけなければ、食堂を抜けて階段を探す。両側に部屋がある廊下を抜けた奥に階段が見える。2階へ上がるためにはそこを上がるのだ。
すると突然、扉が開いて中から男が出てくる。男子学生のようだ。眼鏡を掛けたニキビ面の学生が阿礼を見て目を丸くする。
「君はなんだ。ここは男子寮だぞ」
阿礼は流ちょうな朝鮮語で返す。「失礼、間違えました。私、方向音痴なので」そういって舌を出すと自分の手で頭をこづく。
「同志、それはまずいぞ。日本のアニメのポーズだろ。捕まるぞ」
「すいません」
「まあ、いい。実は僕もそれは好きだ」ニキビ面が笑顔を見せる。
「2・24号室はわかる?」
「2は女子寮って、おい、当たり前のことを聞くな」
「まあね。女子寮はどういくんだっけ?」
「まったくひどい方向音痴だな。入口を出て左が女子寮だ」
「ありがと」そういって帰ろうとする。
ニキビ面が呼び止める。「ちょっと待った。君、名前は?」
阿礼は振り返って言う。「美英」
ニキビ面はなぜか赤い顔で、茫然と立ち尽くしている。
ここに長居は無用と阿礼は女子寮に急ぐ。
なるほど、寮生への監視はそれほどでもないようだ。もっともここは軍の幹部候補生が通う学校なので、そんな不穏分子がいるわけではないのだ。
出て左側に女子寮が見える。女子寮?つまり幽霊は女なのか。
なるほど女子寮なので2という表記なのか、さすがに女子寮は先ほどの男子寮の規模ではない。建物は半分ぐらいの大きさだ。女子の人数は少ないのだろう。入口から入って行く。
寮内は薄暗い。やはり電力事情はよくないようだ。日中に電気を点けることはまずないのだろう。人も少ないし、今の時間は寮生もいないようで、スムーズに移動できそうだ。2階に急ぐ。
全部で10部屋程度しかない。廊下の片側に部屋が続いている。おそらく二人部屋なのだろう。ここでは生徒同士が監視対象となる。そうやってスパイや不穏分子を見つけるのだ。東側ではそういった行為が当たり前のように行われる。さらにこの地ではもっとも有効なシステムだ。
4番目が24号室だった。入口にはその数字が書いてあった。
阿礼は周囲を確認すると部屋に入る。
窓はあるのだが、薄暗い部屋である。6畳程度の広さで、入り口脇にクローゼットと箪笥がある。中には片側に二人分の机があり、反対側には2段ベッド、当然木製のものがあった。
さて、どうするか、とりあえずクローゼットにでも身を隠そうと扉をあけて、何かに気づく。何だろう、胸騒ぎとでもいうのだろうか、もう一度室内を観察する。
ありえない。なんと薄暗い2段ベッドの上に人がいた。
「誰だ」その幽霊が言う。
「話を聞きに来た」阿礼も朝鮮語で話す。
「お前がエージェントなのか?」
薄暗い中でその幽霊を見ると、おかっぱ頭で、ちょっと見は子供のように見える。なぜ、阿礼が気付かなかったのか、不思議だ。
「ユリョンエ・ソンか?」
「まあな。時間を間違えたのか?」
「いや、この時間だとまだ、寮生もいないと思って早めに来た」
「そうか、まあ、よかった。あのメモもどこで見られているか、わかったもんじゃないからな。変更は幸運だったかもしれない」
「話を進めていいのか?」
「大丈夫だ。ここにも盗聴器はあるんだが、偽装工作した。ここでの話は聞こえない」
「亡命させる準備は整っている」
「その前に条件がある」
「条件?」
「そうだ。家族も逃がしてほしい」
阿礼は驚く。そういった話は聞いてない。さらに家族となると話は大きく変わることになる。難易度が桁違いに上がるのだ。
「それは難しいかもしれない」
「もし、その条件が飲めないのなら、この話は無しだ」
はたしてこの状況をどう考えればいいのか、確かに北朝鮮から亡命をした場合、残された家族は悲惨な目にあうという。拷問や強制労働に回されるという。そういった観点から、幽霊が家族全員の亡命を望むことは理解できる。
「わかった。その方向で考えてみる。少し家族の話を聞かせてくれ」
幽霊が言うには、家族は祖母、両親、そして弟がいるそうだ。彼らは平壌のサドン区域の集合住宅で暮らしているという。ここからはそれほど遠くない。週末には幽霊は実家に帰ることもあるそうだ。
少し心配そうな顔で幽霊が聞く。
「できそうか?」
阿礼は力強く言う。「大丈夫だ。これまで俺は仕事でミスったことはない。100%の成功率だ」
幽霊はきょとんとする。阿礼が聞く。
「それでお前の本名はなんて言うんだ?」
「パク・ミンヘだ。貴様は?」
「真加部阿礼だ」
「変な名前だな」
「そうか、文伍が付けた。いい名前だと思うぞ」
「パクのほうがいい」
阿礼は、そんなことを言ってる場合ではないと気付く。
「決行は早い方が良いと思うが、どうだ?」
「もちろんだ。早ければ早い方が良い」
「わかった。すぐに計画する。それで連絡はどうすればいい?」
「この部屋は、今は一人部屋になった。だから深夜なら大丈夫だ」
「珍しいな。一人部屋とは?」
「すぐに次が入るとは思うがな。ここにいた相棒は粛清されたよ」
「そうか」
阿礼は長居は禁物と、ここから出て行くことにする。
「なるべく早く連絡する」
「わかった」
阿礼は再び出て行く。




