飯坂智朗
田島は真加部に、距離を置いて付いて来るように進言する。それはどこで誘拐犯の目があるかわからないからだ。真加部もそれは承知している。そういった部分はしっかりと理解できるようで、なるほど探偵業としては合格なのだろう。
ただ、どこかにジョギングに出かけるようなスウェットでの外出は、こんな都心では別の意味で目を引く。離れていても周囲の目がそれなりに気になる。
東京駅を降りると、すぐに兼森商事が入っているビルが見える。40階はあろうかというビルである。このビルの3フロアーを兼森商事が使用している。
まずは田島が建物に入り、受付に話をしている。
遅れてジョギング姿の真加部が入って来て、フロアーにいた数人が不思議そうな顔をする。田島はそのまま進むと、エレベータ前で待ち、真加部がひょこひょこついて来る。一緒にエレベータに乗る。
庫内は二人だけになる。
「真加部さん、社長室には私が先に入りますので、貴方は離れたまますっと入ってください。これが入門証です。扉にかざすと入れます」
「了解」真加部は入門証を受け取ると、軍隊風に敬礼する。いったいなんのまねだろう。
兼森商事が入っている最上部に社長室がある。
エレベータが到着音を鳴らし、田島が先に歩いて行く。廊下をまっすぐ行くとしっかりとした扉があり、脇に入室用のセキュリティシステムがある。カードをかざして入る。少し遅れて真加部も同じようにして、入って行く。
開発関連や総務関連のフロアーなのだろうか、それほど騒々しい現場ではない。フロアーはサッカーでもできそうなぐらい広々としている。従業員は忙しそうに仕事をしている。緊迫感のある職場なのか、真加部の格好に気を取られるような人間はほとんどいない。
田島が振り向きもせずに奥の社長室に入って行く。ここにもセキュリティがある。少し遅れて真加部が入る。
社長室は真加部の事務所が4つは入れるぐらい広々としている。ふかふかの絨毯とソファも量販店のものではない、しっかりとした本革のものが置いてある。社長室ならではの心地よい香りがする。
飯坂社長は田島と同年代だが、やはり若々しい。背広も高級感あふれる仕立てのようだ。真加部について田島と話をしている最中のようで、彼女を見るとさすがに驚いている。
飯坂が笑顔で真加部を迎える。
「真加部さんですね。どうぞそちらにお座りください」とソファを勧める。
ソファにふんぞり返った真加部に飯坂が名刺を差し出し、真加部もそれに応ずる。
飯坂が笑顔で話し出す。
「お若い方でびっくりしました」真加部は特に反応しない。「ブラックスワンは信用が置ける方だとおしゃってました」
「多分、それは文伍のことだね」
「文伍?」
「そう、親父のこと。残念ながら去年亡くなった」
ぎょっとして田島を見る。田島は訳が分からないと言った顔で首を振る。
「つまりは貴方のお父さんの話だということですか?」
「ああ、いや、でもブラックスワンのビルが言ったんだろ。彼なら親父が死んだことも知ってるからな」
確かに飯坂はブラックスワンの幹部ビル・スミスと話をしていた。つまりこの娘の言うことは間違いがないのかもしれない。
「つまり、貴方に任せれば大丈夫だということですか?」
「シュア」英語で応える。「真加部探偵社は仕事でミスをしたことがない。100%の成功率だ」
飯坂は少し考えてから、自分を納得させたかのように話し出す。
「娘が誘拐されました」真加部がうなずく。「三日前の話です。娘、未來というんですが、大学卒業記念で友人たちとタイに旅行に行きました」
飯坂が田島にパソコンを持ってくるように言う。
「タイのプーケットから南部のソンクラー湖へ行く途中で、拉致誘拐されたようです。現地のコーディネータからもそのように連絡がありました」
「現地警察に話はしたのか?」
「対応をどうするか検討していたところで、すぐに犯人から連絡が来ました」
田島がノートパソコンを持ってくる。飯坂はローテーブルにそれを置くと、画像を再生する。
動画では暗い倉庫のような場所に、ロープで縛られた娘がカメラに向かって助けてと叫んでいる。顔には涙の痕だろうか、疲労が伺える。
「この動画と通信アプリを使うように指示がきました。先方指定のアプリです」
飯坂がパソコンにそのアプリを表示する。
真加部はそれを見て言う。「なるほど、通信元を特定できないようにしているわけか、通信は会話?チャット形式?」
「チャットです。ただ、こちらの履歴は残らないようになっています」
「社長の顔を確認はしなかったのか?」
「しています。こちらからのカメラ画像を送るように言われました」
「先方の画像は無いということか」
「はい、そうです」
真加部は少し考えている。真剣な顔で飯坂に質問する。
「それでどうする?うちに依頼する?」
「お願いします」
「現地のコーディネータはどこにいる?」
「バンコクにいます。日本法人のNTB社で支店長が対応してくれました」
上客ということか。「日本人?」
「そうです」
「連絡先を教えてもらえる」
飯坂は名刺を持ってきて、真加部に渡す。彼女は瞬時に記憶したのか、それを戻した。
「ブラックスワンには身代金交渉を依頼したのか?」
飯坂は目を丸くする。「そうです」
「それに対して、ブラックスワンがうちを推薦した」
「ええ」
「交渉の必要はない。真加部探偵社が救出するだろうと」
飯坂がつばを飲み込む。「その通りです」
ブラックスワン社は老舗のアメリカの軍事会社だ。アメリカにはそういった軍事会社が数社存在する。そして、その活動は多岐にわたる。政府や企業、国際組織などに対して、さまざまな軍事的・セキュリティ関連のサービスを提供する。
ブラックスワンも基本は兵士の派遣を行い、戦闘行為、治安維持などを行うことを本文とするが、それ以外にも海外のトラブル支援も行っている。誘拐事件の解決援助も仕事の一部だ。さらにこういった費用はピンキリで、誘拐事件の交渉解決は比較的安い方の部類になる。
「犯人は何と名乗ってた?」
「イスラム解放戦線と言ってました」
「ふーん、で身代金についてはなんと」
「100万ドルを仮想通過で支払うように指示されてます。期日は1週間後ということにしました。こちらも準備に時間がかかります」
「具体的にはいつまで?」
「あと5日です」
「そうか」真加部は少し考え込むも、すぐに決断したようだった。
「それでは今回の案件。諸経費込みで300万円でどうかな?」
思ったより安かったのか、飯坂は簡単にうなずく。「大丈夫です」
「娘さんを含めた全員の救助が目的だ」
「つまり救出可能と言うことですか?」
「もちろん。それで見積書は必要?」
「はい、お願いします」
「ではそれは後程、送る。それでこのパソコンを少しの間、借りれるかな?」
「けっこうです」
「今後は田島さんに連絡すればいいのかな」
飯坂は真剣な顔でうなずく。「大丈夫です」
「先ほども言ったように真加部探偵社はこれまで100%の成功率だ」そう言って笑みを見せる。「まあ、なんとかなる。それではこれで」真加部はノートパソコンを持ち逃げするかのようにさっと出て行く。
飯坂が真加部の後ろ姿に向かって話す。「よろしくお願いします」
真加部は振り向かずに手だけを上げて去っていく。
しばし呆然となって飯坂と田島がたたずむ。
「田島、本当に大丈夫なのか?」
「わかりませんが、他に方法がありません」
「ブラックスワンもそう言っていた。最善の策は真加部探偵社に頼むことだと」
「そうです。タイ警察に頼んでもおそらく娘さんは殺される。過去に起こったキプロスの誘拐事例を言っていました」
「ああ、それと金を払っても、帰される可能性は五分五分だとも言っていた」
「そうですね。最善の策はあのスウェット娘だと」
「あれは何者なんだ?」
「わかりません」
「調査はしてくれ」
田島はわかりましたといい。部屋を出て行く。
飯坂はソファに座ったまま頭を抱える。