33話 黒咲の収穫
オレの唇から伝わってくる黒咲の体温が、冷たい海水の中では余計に生々しく感じてしまう。
いや、それだけじゃなかった。
「……ンんんっ!?」
わずかな唇の隙間から割って入ってきたのは、黒咲の舌先だった。
舌と一緒に口に入ってきた海水の塩辛さを感じながら、黒咲の柔らかな舌がオレの口の中で動き回り。
オレの舌を見つけると、ぬるぬると絡め合わせてくる。
(……な、何で黒咲がオレの目の前に? い、いやそれより、オレの口に触れてたのって、黒咲の、唇と……し、しし、舌だったよな???)
最初は突然海に沈んでいった驚きから、オレに何が起きているのか全然理解が追いつかなかったが。
ようやく頭が回り始めると、今のオレが置かれている状況を一つ一つ理解出来ていく。
オレの目の前に迫っていたのが黒咲なこと。
その黒咲にオレはキスをされてしまったこと。
しかも舌まで挿入れられる濃厚なヤツを不本意ながら経験してしまったこと。
そして、足を掴んだ何者かがいなくなったおかげで、黒咲に抱きしめられ、キスをしながらオレの身体が浮き上がっていってることに。
「う、う……うおおおおおっっっ!」
オレは慌てて、首に両腕を絡めていた黒咲の身体を引きはがしたのだが。
それとほぼ同時に、オレと黒咲が海面へと浮かび上がり、海から顔を出したのだ。
浮かび上がってきたオレの視界に入ったのは、ゴムボートから身体を乗り出して心配そうにこちらを見ていた真由の顔だった。
「せ、せんぱいっ!……と、え? えええっっ?」
オレだって不意に足を引っ張られ沈んだことに驚いたのだ。一緒にいた真由が驚かないわけがない。
だけど、真由が驚いているのはどうやらそれだけではなかったようだ。
「……な、なんで杏里ちゃんがここにっっ?」
オレと一緒に浮かび上がってきた黒咲を指差しながら、真由は目をぱちくりとさせていた。
(よ、よかったあ……黒咲とキスしていたのは真由に見られずに済んでっ)
オレは今になって、自分の唇に残っていた黒咲の唇の感触、その余韻を感じていた。
黒咲との付き合いは八年ほどになるが、黒咲の事を「女の子」と認識した記憶がほとんどなかったオレは、この八年間で彼女とキスをするなんて考えもしなかった。
さっきの二人の口喧嘩からわかったのだが、どうやら真由は行きの車内でオレとキスをしたことで、何故か黒咲に優越感を持っているみたいだ。
だから、下手に黒咲ともキスした事が知れれば面倒くさいことになる予想がしたので。
オレは黒咲とのキスの話題を、自分からは一切触れないことに決めた。
「何だ、私が海を泳ぐのにいちいち真由に許可を取らなければいけないのか? ん?」
「い、いえっ、で、でもさっき杏里ちゃんはいなくなったハズじゃあ……あれ?」
一度は無言でいなくなった黒咲を不思議に思い、再び言い争いを始める二人だったが。
(……ん? 黒咲の雰囲気が、元に……戻った?)
どうやらオレだけじゃなく、真由も感じたのだろう。ついさっき話していた黒咲と今の黒咲との違和感に。
いや、正確にはさっきの黒咲は何となくいつもの上から目線というか、余裕ある者の態度という雰囲気が欠けていたというか。やたらと真由の言葉に過剰に反応していたというか。
だけど今、目の前にいる黒咲は普段からの余裕ある態度を漂わせていた。
「いや、戻ってきたのは真由に渡したいモノがあったからなんだが」
「わ、渡したいモノ……ですかっ? 杏里ちゃんが、真由に?」
ゴムボートに掴まっているオレとは違い、ずっと立ち泳ぎをしたままの黒咲が、そう言いながらオレに手渡してきたもの────それは。
真っ赤な水着だった。
しかもかなり大きめのサイズの。
「コレって……まさか、真由がさっき波にさらわれそうになって失くした……」
「そ、それって真由のっ! な、何で杏里ちゃんがっ……ま、真由の水着を持ってるのっ??」
オレが確認のために両手で広げて見ていた真っ赤な水着を、ゴムボートの上からひったくるように取り上げていった真由は。
何故、自分の水着を黒咲が持っていたのかという疑問を感情的になってぶつけてくる。
「……さっきはつい感情的になって景君を責め立ててしまったが。冷静になって考えたら、景君がこんな昼間からそんな大胆なことをするハズがないと思ってね」
「おい、黒咲っ……オレはちゃんと説明したんだがな……」
「悪い悪い、景君。さすがに沖縄旅行に置いてきぼりにされて、私も少しばかり腹を立てていたんだ、許してくれ」
少し冷静になって、というが。元来、黒咲はそういった冷静な考えが出来るタイプだとばかり思っていたんだが。
「でだ。そう思って引き返してみたら、海面にぷかぷかとどこかで見覚えのある水着が浮かんでるじゃないか」
「それで、もう一回戻ってきてくれたってのか……真由に色々暴言吐かれたのに」
どうやら黒咲の話が本当であれば、真由の水着を拾えたのは全くの偶然のようだ。
そりゃ、いくら黒咲と言えどゴムボートをひっくり返すくらい大きな波を起こせるものか。
それにしても、黒咲と真由の二人は。
いつもオレを挟んで、絶えず口喧嘩をするような関係ではあるが。心の底では拾った水着をわざわざ届けてくれるほどには、黒咲も真由のことを気にしているのだろう。
「ありがとな、黒咲」
「…………ふん」
何か良い手段が思いつけばすぐにホテルへ帰れるよう、沖から浜辺にボートを運んではみせたものの。
このままでは本当に腕で真由のこぼれ落ちそうな両胸を隠しての強行突破しか方法がなかったオレは。水着を拾ってくれた黒咲に礼を言うのだが。
その黒咲が、ぷいと顔を背けて頬を膨らませていたのだ。
(な、何だ、黒咲のやつ? オレ……何か機嫌損ねるような真似したか?)
ついさっき、オレに水着を渡すまではむしろ上機嫌だった黒咲の態度の、突然の豹変にオレは困惑してしまう。
「おい黒咲っ。なあ、黒咲……オレ、何か悪いことしたかな?」
「……名前」
「ん? な、名前?」
「そう、景君に感謝の気持ちがあるなら、せめて沖縄にいる間くらい、下の名前で私を呼んでくれないかな」
黒咲を、杏里と呼ぶ。
オレも一度は挑戦し、少しの間はそうすることもできたのだが、やはりオレや黒咲をよく知る真由の前で、となるとハードルが高くなる。
だけど、ここに黒咲が水着を持って現れてくれなきゃ、真由をとんでもなく恥ずかしい目に遭わせてたかもしれない。
「あ、ありがとなっ……あ、杏里」
「う、うん……や、やっぱりな。八年もの間、ずっと景君に呼んでもらいたかった名前だ。それを……こうやって呼んでもらって、嬉しい限りだ」
やはり「名前で呼べ」と言われて下の名前で黒咲を呼ぶのは、意識してなかった最初とは比較にならない恥ずかしさだが。
それでも、黒咲の機嫌はすっかり良くなったみたいだ。
「あのー……もしかして二人とも、真由がいることを忘れていませんかぁー?」
そこへ割り込んできた声は、ゴムボートの上に寝そべってジト目でオレたち二人を睨んでいた真由のものだった。
「いえ、別にぃ、杏里ちゃんには、水着を拾ってきてもらった借りがありますから、今だけはせんぱいのことを譲ってあげてもいいんですけどー」
「いやいや、真由……私こそあんなにムキになって悪かったな。どうか今夜は景君とゆっくり二人きりで過ごすといい」
そう言うと黒咲は、海の家に設置されている時計を指差していく。
「それに……早く浜まで帰らないと、ホテルの夕食の時間に間に合わなくなるぞ?」
「……そ、そう言えばっ」
沖に出た時にはまだ十五時頃だったのは覚えていたが。今は時計の針は十九時になる寸前を刺していた。
しまった……空が暗くならなかったので油断していたが、夏場は日が暮れるのがかなり遅くなるため空の色で判断しちゃいけなかったんだ。
確かホテルの従業員は、夕食は二〇時だったと言っていた。
今からビーチに戻り、ホテルに帰ってシャワーを浴びてから着替えを済ませるとなると……男のオレでも時間ギリギリになってしまうだろう。
オレと真由が、夕食までの迫るリミットに戦々恐々としていると。
今の今までゴムボートと併走ならぬ並んで泳いでいた黒咲が、ボートをレンタルした海の家とは別の方向へ離れていく。
「私もそろそろ門限というモノがあるので今日は失礼するよ……それじゃ、景君」
器用に手を振りながら、華麗なフォームで泳いでいく黒咲が最後にオレたちにかけた言葉は。
「──愛してるよっっ!」
その言葉を聞いた途端。
一生懸命にビーチへと向かっていたボートの上の真由が、ボートをバンバン!と叩く音が聞こえてきたのだ。
何でイラついていたのか、ここで真由と一悶着を起こそうものならホテルの夕食は絶対に間に合わなくなる。
気にはなったが、オレはあえてここは追及せずに急いでビーチへと帰還するのだった。




