2話 同級生と後輩、朝の来襲
呆然と自宅の玄関の前で立ち尽くすオレ。
「あれぇ? まだ着替えてなかったんですか、せんぱぁい?」
そんなオレの胸元に伸びた手が、まだ止めてなかった制服のワイシャツのボタンを上から一つずつ閉じていく。
まるで子供に服を着せるかのように。
「お、おい、ちょ、ま、真由っ?」
「ほら、せんぱい? 急がないと遅刻しちゃいますよ?」
そう言いながらオレのボタンを閉める、世話焼きな後輩は──白鷺真由。
小学生の頃から、オレの後ろにひょこひょこと付いて来ていたので、仕方なく遊んでやっていた。言わば妹みたいな存在だ。
そんな真由だが、実は父親が海外で有名な企業の経営者だか何とかで、かなり裕福な環境だと知った時にはさすがに驚いたが。
本来であれば、一握りのお嬢様だけが通えるような由緒正しい女子校に通っていてもおかしくなく。実際にこの学区内の一画には、私立十六夜学院なるお嬢様学校が存在したのだが。
何故か真由は十六夜学院を選ばずに、ごく一般庶民であるオレと同じ高校への進学を選び。
子供の頃と変わらずに、相変わらず毎日のようにオレに付きまとい、世話を焼いてくるのだ。
ちょうど、今みたいに。
「う、うるせえっ! だ、だいたい子供じゃねえんだっ、ボタンくらい自分で止められるっつうの!」
「いいから動かないでくださいせんぱいっ、あんまり暴れると……」
すると、ボタンを止めていた指を止めて。
真由が悪戯な笑みを浮かべながら、オレの顔を上目遣いに見上げてくる。
「な……なんだよ?」
「シャツの襟に、口紅付けちゃいますよ、うふふ♡」
「なっ⁉︎」
それは困る。非常に困る。
本当ならあまりクラスで目立ちたくない性分なオレなのだが、家族を襲った出来事に加え、この二人に絡まれることで学校で要らぬ注文をオレは受けてしまっているのだ。
そんな時に、ワイシャツの襟に口紅なんぞ付けて登校したらどうなることか。
現役であるオレが言うのもなんだが、高校生というものは妙なところで想像力が豊かだったりする。
実際には何もしてないのに、あらぬ疑いをかけられてしまうのは想像に難くない。
クラスの男子からは変なやっかみを受け。
クラスの女子からは白い目で見られるだろう。
「わかったなら大人しくしてて下さいね、せ・ん・ぱ・いっ♡」
ただ一つ、昔の真由と変わったことは。
子供の頃はオレを「お兄ちゃん」と慕い、実に素直ないい娘だったのに。
今では、先程のやり取りのように純朴なオレをからかうのを楽しむ悪い女になってしまった、という点だ。
「はぁ……あの頃は可愛かったのになあ……」
と、不用意にオレが口から漏らした一言を、真由は聞き逃さなかった。
今の今まで鼻歌を口ずさみながら機嫌が良さそうにボタンを止め、制服のネクタイを首に回した手を止め。
目をスッ……と細めてオレを見つめてくる。
「せんぱい。真由はあの頃から何も変わってませんよ」
「い、いやいやっ! 違う、訂正、訂正っ! 済まんっ、真由はあの頃から変わらず可愛い可愛いっ!」
一つ下の後輩に怯えるというのは変な話だが。
この時の真由の眼は、目の前にいたオレが映っていないような、どこか空虚な眼をしていたのがあまりに怖くなってしまったのだ。
だから慌ててオレは真由に謝罪すると。
「じゃあ……せんぱいは真由に意図的に意地悪した、ってコトなんですね」
「だから悪かったって」
「いいえダメです。だから──」
真由が首から垂らしたネクタイをグイと引っ張ると、オレの首が下がるように前屈みになり。
つま先立ちになり背伸びをしていた真由の顔が触れられる距離まで近付いてくる。
「ごめんなさい、のちゅーしてください」
「ま、待てっ! 待て……待てってば真由っ?」
真由の意図に気づいたオレは、慌てて抵抗しようと身体を起こしたが。
ネクタイを引っ張る真由の力の強さは想像していた以上で、男であるオレがなすがままにされていき。
あろうコトか頬ではなく、オレの唇へと真由自身の唇を寄せてきたのだ。
(オレの唇の貞操が奪われちまうっ⁉︎)
などと考えていると。
「……おい。何をしてるんだ二人とも」
さっき玄関から勝手に家に上がっていった黒髪の同級生が、いつの間にか真由の背後に立ち。
目を閉じてキスを迫っていた彼女の身体を無理やりオレから引きはがしていった。
「う、うわあびっくり、杏里ちゃんだあ?」
「杏里ちゃん、じゃない。真由……景の登校の準備もさせず、一体何をしてるんだ?」
「んー……ないしょ♡」
「ないしょ、じゃないっっっ!」
オレの時と同じように、唇に指を置いて悪戯な笑みを浮かべ、からかうような返答をしていく真由だったが。
────バッチーン!
そんな真由の頭に、何処から取り出したのかは知らないが、大きなハリセンが落とされる。
「まったく……景君のカバンの準備をしてたら油断もスキもない……」
腰に手を当てて仁王立ちになりながら、真由へとハリセンを落とした黒髪の同級生は──黒咲杏里。
黒咲とは、小学生の頃にオレがこの街に引っ越してきてからの腐れ縁で、いわゆる幼馴染と言うヤツだ。
オレが通う高校の生徒会長を務め、勉強も常に学年トップ。さらには二年生ながら既に剣道部の次期主将とも言われていたりと、まさに文武両道を体現している。
それが黒咲杏里という人物だ。
当然ながら、そんな優秀な生徒である黒咲ならば。もっと偏差値の高いランクの高校、県内最高の進学校だろうが狙えたはずなのだが。
何故か、数段レベルの低いこの高校に進学先を選んだ彼女。
『黒咲、お前ならもっと上を狙えるのに……』
と、中学の教師全員が残念なあまり机を叩きながら、涙を流したとか流さなかったとか。
「ほらっ、そろそろ家を出ないと遅刻してしまうぞ、景君っ」
その黒咲が、オレの通学用のカバンを手渡してくれる。
そういや準備してたって言ってたっけ。
「うおっ? もうこんな時間かよっ!」
確かに玄関に置いてあった壁掛けの時計を見ると、あと十五分ほどで遅刻になってしまう。
だが、オレだって思春期を迎えた立派な男だという自覚はある。
いくら幼馴染だとはいえ、勝手に自宅に侵入されただけじゃなく、年頃の男子の部屋を踏み荒らされたのではたまったモノじゃない。
「……い、いやそうじゃねえっ! いいか黒咲っ、もうオレは子供じゃねえ! いい加減かっ──」
だからオレは、とりあえずカバンの中身を確認しながら黒咲に文句の一つでも言ってやろうと思い、気持ちを吐き出していた……が。
カバンの中に見慣れない物品を見つけたオレは。
思わず黒咲への文句を止める。
「ん? 何だ……これ?」
その物品とは、女子に人気のある某マスコットの柄の入ったランチクロスで包んであった箱のようなものだった。
ランチクロスで包んだ箱に触れてみると、ほんのりと温かさがオレの手に伝わってくる。
当然ながらオレはそんな可愛いモノを持っているはずもなく。それだけでこの物品がオレのものでないのは明らかなんだが。
だとしたら、答えはカバンの準備をした黒咲しかいない。
オレが箱について聞こうとすると。
「その……何だ、確か景君はいつもランチは購買でパンと飲み物を買っているだろう? だから、私が弁当を作ってみたんだが」
黒咲はオレから目をそらし、何かクネクネと身体を揺らしながらそう答えた。
悔しいが、確かに黒咲の言う通りだ。理由あって一軒家で一人暮らしをしているオレは、朝早くに起きて自分が食うための弁当を作る気にはなれなかった。
さりとて、毎日毎日変わり映えのしない購買のパンにも正直、飽きがきていたのも図星だった。
「ふ、ふん! まあ……弁当には罪はねえから、弁当はありがたく受け取っておくけどよっ……」
弁当を用意してくれた黒咲には一応、感謝しておくが。
だからといって朝から自宅に突撃してくる二人の迷惑行為を許せるか、と言ったらそれは別の問題だ。
プラスマイナス、で言えば明らかにマイナスが大きいのだ。だから感謝の言葉もこんな感じになるのはしょうがない。
「ああ、ちゃんと噛み締めて味わってくれよ。何しろ私の景君への想いがたっっっぷり詰まってるんだからな」
そんな乱暴な感謝の言葉を聞いた黒咲は、指をくるくると動かしながら嬉しそうな笑顔を浮かべていた。
「愛情……ねえ」
愛情、とは言っても。世間で使われてるような「ラブ」という感情ではない。おそらく黒咲にとって、俺は世話の焼ける弟程度の感覚でしかないのだろうが。
「ちょ、ちょっと待ってよ杏里ちゃんってばっ! 抜け駆けナシって言ったのは杏里ちゃんのほうなのに……お弁当なんてズルいズルいっ!」
「な、何が狡いだ真由っ……だ、大体っ私がいない間に景君にキスを迫るほうがよっぽどだな──」
「何よっ!」
「……何だっ?」
突然、横から割り込んできた真由が、黒咲と口喧嘩をし始めたのだ。
「……付き合いきれるかよっ」
二人が互いに言い争いに夢中になっているスキに、オレは二人から逃げるように駆け足で登校する。
その内。背後からオレの名前を呼ぶ声が聞こえてきたが、オレは耳を塞いで聞こえないフリをしながら学校まで追いつかれないように全力で走ったのだったが。
もちろん。
遅刻ギリギリだったのは言うまでもない。