28話 幼馴染からのクラスチェンジ
「い、いや……それはだな、黒咲」
「だからそれだよ景君っ!」
鼻先に指を突きつけたまま、今度は顔まで間近に迫ってくる黒咲。
「ち、近いって! 顔っ、近いっての?」
どうやら黒咲は、小学生の頃から苗字で彼女を呼んでいた習慣で、いまだに「黒咲」と他人行儀でいるのが気に入らないらしい。
普段は何事にも動じない冷静沈着な印象のある黒咲が、今オレの目の前だといつものクールな態度はどこへやら。
こちらをじーっと睨み、あからさまに不機嫌さを表情へ出している。
(いや、子供の頃からずっと「黒咲」で通してきてたってのに、な、なんで今さらっ?)
と、オレは言ってやりたかったのだが。
黒咲にジッと睨まれたオレは、まるで蛇に睨まれた蛙のようにビビってしまい、その言葉を口にすることができなかった。
「大体だよ……何で真由は名前で呼んでるんだ。だったら私も下の名前で呼んでくれても……その、いいじゃないか……」
かと思えば、突然オレから顔を背けた黒咲が頬を真っ赤にしながら。
いつも真由を下の名前で呼んでいるように、黒咲も下の名前。つまり「杏里」と呼んでほしいと言い出したのだ。
「まあ……そんなコトでいいなら」
「ほ、本当かい景君っ? そ、それじゃ早速私のことを下の名前で呼んでくれっ!」
「い、今ここで、かっ?」
「ああ、今ここで、だ。それとも何か、都合でも悪いのかい?」
別にオレとしては「黒咲」でも「杏里」でも変わらない。彼女を認識する言葉が変わろうが、接する態度まで変わるワケじゃない。
ただ一言。
『あ──杏里、っ』
と、口にすればいいだけの話なのだが。
いざ、黒咲の下の名前を口にしようとすると、舌が動かない。喉から声が出ない。
ただ名前を言えばいいだけのハズなのに、目の前でオレから名前を呼ばれるのを今か今かと待っていた黒咲の事を妙に意識してしまい、心臓の鼓動が早くなる。
(……こ、コレは、本格的にマズいかもしれん)
最初、下の名前で呼ぶなんて大したことない、と高を括ったことを今さら後悔したオレはもう恥ずかしさで死にそうだった。
なので、もし黒咲の下の名前を呼ぶにしても今この場では無理だと判断したオレは。楽しみに待っていた黒咲に提案を持ちかける。
「い、いや……やっぱほら、黒咲さ。こういうのは急に言われても、なぁ……今まで通りでいいんじゃな……」
「──それじゃあダメなんだっっっ!」
とりあえずこの場を逃れようとしたオレの言葉を大声で遮った黒咲。
「お……おい黒咲っ、声が大きいっての」
そのあまりの大きな声で、周囲にいたビーチで遊んでいた人間やホテルの従業員までもがオレたちに反応し、注目の視線が集まってしまう。
「なんだなんだ?」
「いや……どうやらカップルが喧嘩してるみたいよ」
「それにしちゃ、女のほう美人すぎね?」
学園でも「完璧超人」と称される黒咲の容姿は、ここ沖縄でも目を引いてしまう……特に男には。
少しずつではあるが騒ぎは大きくなり始め、しまいには。
「あの……お客様。ホテルの敷地内ではお静かにお願いいたします」
「あ、ああ……ご、ごめんなさい」
ホテルの従業員がこの騒ぎの原因であるオレらに注意を促す事態にまでなってしまう。
(ま、待て待て待てえ? オレが黒咲の下の名前を呼ぶかどうかだけで、何でこんなメに遭わなきゃならんのだ?)
確かに大声を出したのは黒咲だが、人集りができたのはオレらの責任ではない。そう思ってはいたがこれまた口には出せずにいると。
「なあ、従業員のキミ。景君に謝らせるのは筋違いじゃないのかい?」
さっきまで表情をコロコロと変えていた黒咲が、途端にいつもの冷静な顔に戻っていたかと思えば。
眉をしかめながら、不機嫌さをあらわにしてホテルの従業員へと何かを言い返そうとしていた。
「大声を出したのは私なのだから、注意すべきは景君ではなく、私だろう。なのに何故キミは私ではなく景君に注意を?」
「……は、はあ」
「それだけじゃない、騒ぎを大きくしているのは勝手に集まってきたあの連中だ。なら、まず私や景君に対処するよりも先にあの野次馬を散らす努力をすべきだと思う。したがってけ──むぐっ?」
どうやら黒咲は、何もしていないオレが従業員に注意された事を代わりに怒ってくれているようだった。
しかも感情的にクレームを言うわけではなく、あくまで自分の責任は認めつつ。淡々と従業員の過失を責めるような説教じみた口調だったので。
「い、いえっ、ご、ご迷惑をおかけしましたあっ!」
「むむう……ぷはあっ? け、景君っ待ってくれ、まだ私の話は終わって──」
オレはまだ説教し足りない様子の黒咲の口を手で覆って言葉を遮ると。
黒咲の手を握って、砂浜へと無理やり引っ張っていく。
「いいから行くぞ、杏里っ」
多分、直前まで頭で「下の名前を呼ぶ」ことを意識しすぎていたからなのだろう。
この時オレは、さも昔からこう呼んでいたかのようにごく自然に黒咲の事を「杏里」と呼んでしまっていたのだ。
「……え?」
その瞬間、オレが引っ張るのに抵抗していた黒咲の力がふいっと抜け、まさになすがまま状態で砂浜へと素直についてくる。
「け、景君っ……今、私を名前で呼んで……っ?」
「ん、何だって?」
今のオレは、とにかく注目を浴びていたあの場を一刻も早く離れたい気持ちで精一杯だったから。
当然、オレはまだ自分が黒咲を下の名前で呼んだことなんて自覚していなかった。
「ふぅ……ここいらまで来れば、さっきの騒ぎに気づいた連中もいないだろう」
黒咲から借りたサンダルのおかげで焼けた砂浜も、足を真っ赤に焼かずに歩くことができ。
先程までいたビーチの入り口がすっかり遠のくほど、結構な距離を歩いていたのに気づく。
ふと横を見ると、手を引いて歩いていた黒咲は何故か顔を真っ赤にしてうつむいていた。
そういえば、ずっと強引に手を握ったままだったことにハッと気づいたオレは慌てて手を離す。
「……わ、悪いっ?」
「あ、ああ、その……わ、私のワガママで景君に迷惑をかけてしまったみたいだな」
手を離した後もまだしばらくは黒咲はうつむいたまま、オレの顔を見ようとしなかった。
(あの場は無理やり連れてくるしかなかったとはいえ……オレが理不尽に注意されたのを代わりに怒ってくれたんだよな)
そう思うと、黒咲が機嫌を損ねたままなのは当然に思えてならない。
一向にオレの顔を見てくれない黒咲の態度に、どうしたら機嫌を直してくれるかを考えた結果。
やはり、これしかないという結論に至り。
「いや、あ……杏里はさ。言い出せなかったオレの代わりに怒ってくれたんだ。それを迷惑だなんて思うワケないじゃんか」
「け、景君っ……さ、さっきもだけど、今」
ようやく伏せていた顔を上げて、オレを見てくれた黒咲。
「下の名前で、呼んでくれたね……やっと」
「いや、はは……サンダルには感謝してるし、呼ばなきゃとは思ってたけどさ。いざとなるとなかなか気恥ずかしくて、な?」
下の名前で呼んでみて、あらためてわかったのは。
まだ黒咲と呼んでいた時は、黒咲はあくまで「幼馴染」で「恩人」である「親友」まででしかなかったが。
杏里、と呼んでしまったことにより。オレはこの日初めて杏里を「女の子」として認識し。
オレの中での立ち位置を変えざるを得なくなった。
「景君……」
「あ、あのさっ、くろさ……いや、あ……杏里っ」
「は、はいっ」
オレは、この後真由と合流してから三人で海で遊ばないかと誘おうとした、その時だった。
(ん? 真由との合流……)
「──し、しまったあ!?」
杏里に声をかけられ、あれこれ騒ぎに巻き込まれていくうちに。オレの頭の中から真由の存在がすっかり抜け落ちていたのだ。
「ど、どうしたんだ景君っ?」
(た……確か、真由は水着に着替えるため一度ホテルに戻って、それから)
最悪の事態を避けるためには、真由に見つけられるのではなく。杏里に頼ってもいけない。それこそ最悪の事態になってしまうからだ。
ここはオレが真っ先に、そして自力で真由を見つけて合流しないといけない。
オレは必死になって、真由と別行動となった直前の出来事を思い出していると。




