今日のお題【黒い靴】
黒い靴を白い箱から出した。
まだ一度も履いていない黒い靴。
足を通し、ベルトを引っ張ってマジックテープで止める。
爪先が丸くなった可愛い靴。足を入れる縁にタックが緩く入っている。
なんだか嬉しくなって、数歩歩いてみた。今日は母のお葬式だというのに。
母は、眠っているようだった。
髪を撫でると、すぐに目を開きそうだった。
革が柔らかいので、どこにも当たらず痛くならない。
ほっとして、更に嬉しくなって、車の周りを歩いてみた。クッションも最高だった。
この靴の前に履いていた初代の黒い靴は、爪先が細くなったサンダル風の、踵にベルトで固定するタイプだった。ほっそり見えるデザインだったが、そのとき持っていた靴の中では、一番履き心地がよかった。
その靴で、道路に面した急な斜面を登った。約三十センチの幅しかない土の地面は、前の日の雨で、しっとりと湿っていた。山の上の墓地に着いたとき、靴もストッキングも濡れていた。
その次に履いたのは雨の日だった。
傘をさし雨の中を葬儀場まで歩いて行った。
お喋り好きで、皆を笑わせていた友人は、棺の中で静かに眠っていた。
手を合わせ、じっと見詰めても、いつもの笑顔がその顔に浮かぶことはなかった。
反対方向の電車に乗り込んだ友人達を見送ったホームで、命の儚さについて考えた。
そのとき履いていた黒い靴は、そのまま手入れもせず乾かしただけで箱に仕舞った。
それから何年も経って、久しぶりに箱から出した黒い靴を、オーケストラのコンサートに履いて行った。
久しぶりにスカートをはいたのだが、そのとき持っていたお洒落な靴は、どこかしらが当たって痛かったので、その黒い靴を履いた。
コンサートの帰り、靴底が爪先の方から半分剥がれているのに気が付いた。気を許すと、靴底を半分折った状態で踏んでしまう。なるべく刺激をしないように、ぱこぱこする靴を騙し騙し、なんとか家まで辿り着いた。
その夜、初代の黒い靴に、お礼を言って別れを告げた。
朝、今日のような特別な日のためだけに履く黒い革靴を、夫は磨いていた。
艶が出て、ピカピカになった靴に満足して足を通し、歩き回っている私を促して、家を出た。
葬儀場に着いて、自分の履いている靴が見えた途端、夫は驚いた。表面がひび割れたように革が剥がれ、足を入れる縁の踵側の革が、広範囲に剥げて無くなっている。
もう何年も履かないで仕舞っていたせいだ。二、三回しか履いてないのだが。
しかし、靴という物は、履かなくても時が経つと確実に劣化してしまうのだ。
-表面の革が剥がれているだけなら、恥ずかしいけれど、それさえ気にしなければ、なんとかなるだろう。-
夫は高を括った。だが、移動を続けるうちに、靴底が踵の方から剥がれてきていることに気が付いた。
これはまずいと、まだ先が長いのだと、慌てに慌てる。なんとかならないものかと、思案した結果、余分に持ってきたからという母の黒い靴下で、靴底と靴本体を結びつける事に成功した。
葬儀が全て終了し、玄関で足を上げた途端、取れかかっていた踵が
「ぼとっ。」
という音と共に落下した。
「うわぁ!よく保った!危なかった!」
と、夫は叫んだ。
後で、玄関を見ると、細かい土で汚れている。
「なんだろう、これ。土?」
と私が言うと、
「靴の革です。」
と、夫が応える。
「あっ、そうか。・・もしかして、出掛ける前から?」
「そのようですね。」
壊れてしまった黒い靴を白いビニールの袋に入れながら、夫は応えた。
靴は、履かなくても確実に壊れるということを再認識させてくれる出来事だった。
だが、再び油断して、同じ過ちを繰り返すことに、ならなければいいと祈りつつ。