今日のお題【雨】
今日は雨だった。
予報では、お昼からのはずだったが、今日は、朝から雨だった。
傘をさし、裏山の階段を登る。一歩一歩、濡れて湿った土の階段を登っていく。
昨日、この階段を走って登った。途中で息が切れて、踏み出す足が遅くなったが、そのとき出せる限りの力で階段を登った。
一番上の階段が終わっても、足を緩めず走った。息が切れた。マスクが張り付いて呼吸困難になりそうだった。それでも、足を緩めることはしなかった。
サーモン色のカーテンで八つに区切られた右側の端に母はいた。その一区切りは、とても狭かった。
酸素マスクをつけて、少し口を開けたままで、母は眠っていた。
もう呼吸もしてないし、心臓も動いていないと、看護師が言った。
「うん、わかるよ。」
心で呟いた。シューシューという息を吸う音が全く聞こえなかったから。ただ、酸素を供給する音だけが聞こえていたから。
父が、母の顔の一番近い位置で呼びかける。
「お母さん。」
反応はない。しばらく父が呼びかける。反応はない。
「だめだ。」
ぽつりと呟いて、私を見る。母の顔を見ながら、父と位置をかわり、呼びかける。
「お母さん。」
母の肩に手を当てると、まだ温かかった。
「お母さん。」
もう、戻ってこなくていい、と、思った。
こんな不自由な体に戻ってこなくていい、と、思った。
もう十分頑張ったから、自由になって欲しい、と、思った。
母は戻ってこなかった。
今日は朝から雨だった。
ゆっくり階段を登り切って、振り返って見た景色は、昨日と変わりはなかっただろう。
ただ、母がいないだけ。
「気を付けて。」
と、ここで、手を振ってくれた母が、いなくなっただけ。
雨は、変わらず降るだろう。
しっとりと重くなった傘を持ち直して、私は、階段の先に続く道に足を踏み出した。