今日のお題【くじら】
水の中をゆっくりと進んでいく。
太陽の光の届かない暗い海を、ゆっくりと進んでいく。
水面近くには、あまり行きたくは無い。
前に、背中に焼けるような痛みを、感じたことがあるからだ。
できることなら、ずっとこの暗がりに潜んでいたい。
けれど。
生きるためには水面近くに行かなければならない。
そこで群れてくるくる回っている魚たちのように、
水の中で呼吸をすることができないから、
我は、水面まで昇る。
水面近くは、キラキラしている。
水表面の光りが、海の中まで反射して、眩しいくらいだ。
すぐそばに小さな魚が泳いできた。
その青い鱗までもが、小さく煌めく。
「そなた、群れからはぐれたのか。」
小さな青い魚に、心で話しかける。
「そんなに小さな体で、たった一匹でこの海原を泳ぐのは、
とてもしんどかろう。
我が、くじらでなかったら、そなたは喰われていただろうよ。」
小さな魚は、我と目が合うと、踵を返して泳ぎ去った。
青い鱗を、一瞬煌めかせて。
我は、その姿を見送った。
「群れに、戻れればよいが。」
あの魚の身を案じたところで、我とて同じこと。
シャチにでも見つかれば、喰われる運命よ。
こんなに大きな図体をしていても、我は狩られる方なのだ。
食物連鎖では、決して頂点ではない。
それに。
もうだいぶ長く生きた。
体も、昔ほど自由に動くことができなくなった。
だから、こうして、ゆっくり水の中を進む。
暗い水の中を、ゆっくり進むのが、我の安定。
光りが、煌めきが、だんだん遠くなる。
ああ、これでいい。これがいい。
暗い水の中を、我はゆっくり進んでいく。
若い頃のことは、もう忘れてしまった。
今はただ、こうして暗い海の底を、ゆっくりと泳ぐ。
それがいい。それだけでいい。




