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いつかどこかの旅の空で  作者: アカホシマルオ
第一章 転がる石のように
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6 アイス

 


 扉を開けると、そこは広い厨房だった。


 手前には巨大なステンレスの冷蔵庫と、流し台やガスレンジや私には理解不能な機器が所狭しと並び、奥は二階まで吹き抜けの大空間で、そこにはさらに見た事もない巨大な機器が設置されていた。


 内部は換気されていて適温に保たれているのだが、ここもまたミルクの腐ったような異臭に包まれていて、決して気持ちのよい場所ではなかった。


 何が起こるのかドキドキしながら、とりあえず慎さんに並んで入念に手を洗った。


 それが済むと、慎さんは部屋の隅にある冷蔵庫の扉を開けた。白い冷気が足元へ流れ出る。かなり低温の冷凍庫らしい。


 中からステンレスのボウルを二つ取り出し、慎さんは私に中身を見せた。どうやら二つともアイスクリームらしい。


 それぞれを器に取り分けて、私の目前に並べる。私は自然と顔を近寄せた。


 ガラスの器に盛られた二つのアイスは、特に見た目も香りも変わったところはどこにもない。


「よう、まずはこの二つを食べてみてくれ」

 慎さんは私にスプーンを手渡した。



 私は厨房のステンレス台に並んだアイスを、立ったまま口に運ぶ。


 怪しすぎる雰囲気に圧倒されて味には何の期待もしていなかったが、それは良い意味で裏切られた。


 最初に口に入れたアイスは今まで食べた事のない濃厚なミルク味で、バニラの香りもそれに負けない強い芳香を放つ。絢爛豪華で口の中にねっとりと絡みつくド派手な甘い快感だった。


 一口食べるといつまでもその味と香りの余韻が残り、早く次の一口をと強要されるような力強さを持つ。


 もう一つのアイスも濃厚で一瞬同じような華やかさを感じるが、口溶けはより軽く爽快感があり、後味もさっぱりとしている。その分高級感には欠けるが、私の好みは断然二番目だった。


 黙って見ていた慎さんが、いつの間にか三つ目の器を持って立っていた。それもやはり、見た目は同じようなバニラアイスのようだ。


 黙って慎さんが差し出す器を受け取り、夢中で食べた。


 三つ目のアイスは最初のもの程濃厚でなく、口あたりも若干軽い。けれど口溶けが滑らかで、舌に心地よい。


 これに比べると最初のアイスは濃厚過ぎて口の中に残る脂肪分がうるさく、それを消すためにすぐ次の匙を口へ運びたくなるのだった。


 二番目のアイスは軽さが良いが、その分少し舌にザラつく感じがマイナスだ。


 そう考えると、三番目のアイスは一番バランスがとれていておいしいのだが、その分決定的な個性に乏しく、若干物足りなさが残るように思える。なんとも悩ましい限りだ。


 三つのアイスを完食してから、私は慎さんにそのままの感想を述べた。


 そもそも、正直に詳しく感想を語る必要などなかった。

 ただ、美味しい、とだけ言っておけばよかったのだ。


 それなのに、新興宗教の勧誘に必死で抵抗するかのように、私は試食したアイスに駄目出しをせねば、と本能的に感じてしまったのだ。


 だから、必要以上に厳しい言い方になってしまった。ところが慎さんはそんな私の戯言に真面目な顔でいちいち頷いて、話を聞いてくれた。



「三つ目のアイスが、今ここで作って売っているアイスだ。自信作なんだが、もっと美味しいものをと欲張って作ってみた試作品が、最初の二つだ。俺たちはどちらも結構いけると思っていたんだが、どうもまだちょっと足りないようだな……それにしても、俺たちの作っているアイスは、おまえの探している幻のアイスじゃないぞ、きっと。」


 慎さんは自分に駄目出しをすると同時に、あっさりと私にも引導を渡した。私は美味かったアイスの余韻を舌に残したまま、ただ首を傾げるのみだった。


 誰もいないと思っていた部屋の奥から物音がして、白衣の人物が出て来るなり、我々の姿を見て小さな悲鳴を上げた。


「もう、誰もいないと思っていたのに、慎さんいたんだ。脅かさないでよ」


 驚いたのは私も同じだ。同じように小さく悲鳴を上げそうになったが、何とか堪えた。


 まさかこんな掃き溜めに、きれいな鶴がいたなんて。それも、とびきりの白鶴だ。


 彼女は細身の体を白衣で隠し、頭にも白いシャワーキャップのような帽子をかぶっていて、まるで給食のおばさんのような格好をしているのだが、シャープな顎のラインと涼しげな目元が印象的な美人だった。



 彼女は美佳さんと言って、ここで商品開発の仕事をしているそうだ。今食べたアイスも、彼女の作ったものらしい。


 慎さんは私がここにいる理由を簡単に説明して、もう一度試食の感想を彼女に伝えるよう求めた。


 私は緊張気味にさっきの感想をもう一度繰り返す。


 美佳さんも慎さん以上にじっと聴き耳を立てて、真剣に話を聞いてくれた。時折簡単な質問を返す度にその薄い唇が動くのを、私は逆にうっとりと眺めていた。


 私のような素性の知れない若造の話にここまで付き合ってもらえるとは、甚だ恐縮である。


 やはりここでは都会の洗練された味覚センスが求められているのだろうか。

 しかし、いつものように調子に乗るには、あまりにここはアウェー過ぎた。


 美佳さんは大学で酪農を学び、乳製品の発酵に関する研究をしていた人らしい。専門はアイスではなくチーズやヨーグルトという事だ。それで、ここの、この臭いなのだった。



「それならフローズンヨーグルトなんてのもありですよね」


 何気なく私が漏らした一言が興味を引いたらしく、その後は二人の会話に熱が入り、私の存在は一時置き去りにされた。


 そういう事には比較的慣れているので、暇な時間にぶらぶらと部屋の奥へ入るとますますミルクとチーズの臭いが強くなった。


 あまり強い興味もなくただ眺めながら、アイスについてもう一度考えてみた。確かに、三つ目に食べたアイスは美味かった。これが幻の、牧場のアイスなのだろうか。


 けれど神様の言っていた、ガリガリ君より美味い、という点には引っ掛かりがある。アイスはアイスでも、私の好きなガリガリ君は棒付きのアイスキャンディーである。


 今食べたアイスクリームは素人の私が見ても別のカテゴリにあり、比較する方が変だ。その点では慎さんの言うとおりである。


 神様は何を考えていたのか。そしていったい私に何をさせようというのか。全くわからない。


 ここへ来て、旅の目的も何もかもがぐちゃぐちゃになって、私は混乱の極みにあった。



 その時、後ろで美佳さんの風鈴のような涼やかな声が心に響いた。


「ここは、今朝取れた原乳から、モッツァレラチーズを作っているところ。食べてみる?」


 私はチーズには全く詳しくない。モッツァレラと言われても、宅配ピザのチラシに印刷された名前くらいしか思い出せない。


「これは今作ったばかりのモッツァレラ。このチーズは熟成をしないから、作ってすぐ食べられるフレッシュなチーズなの。本場のイタリアでは水牛の乳で作るんだけど、普通の牛乳で作るとより癖がなくて、チーズが苦手な人でも食べ易いの」


 私はゴルフボール大にちぎった柔らかな白い塊をもらって、口に放り込んだ。ゴムのような弾力があり、ミルクの香りが良い。だがそれだけである。チーズ特有の塩分が少ないのが一番の問題に思う。そう言うと、美佳さんは喜んだ。


「そうそう、この普通のミルクで作るモッツァレラは、それが特徴なの。なるべく味も香りも薄く、癖がないように作っているんだから」


「へぇ」間抜けな返事をしてしまった。


「水牛の乳で作るイタリアのモッツァレラはブッファラと言って、もっと味も香りも濃厚で塩味も強いの。それは、そのまま食べてもすごくおいしいわ。でもここで作っている物はそのまま食べるよりも、ピザやパスタなんかの料理に使う事が多いわね。オリーブオイルや、バジルなどの香草との相性が抜群なの」



「へえ」ともう一度間抜けぶりを発揮して、やっと我に返った。


「ここのレストランで食べられるんですか?」


「もちろん。でも、あなたには試食のお礼をしなくちゃね。あなた、いつまでここにいるの?」


 そう言われても、どう答えて良いのやら。言い淀んでいると、慎さんが助けてくれた。


「おまえ、どうせ暇なんだろ。じゃあまた次の試作品が出来たら呼ぶから、暫くライダーハウスで遊んでろ」


「はぁ」


「じゃあ、その時にはここのチーズをたっぷり使ったお料理をご馳走するわ。楽しみに待っててね」


「もしかして、その料理も試作品ですか?」思わず余計なことを言ってしまった。


「おお、ミカちゃんの創作料理はすさまじいぞ。覚悟して待ってろ」


 慎さんの言葉に美佳さんは顔を赤くして笑った。その天使のような笑顔が駄目押しとなり、私は完全に正気を失っていた。



 


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