Hamlet
よしまずはプラス思考なものを挙げてみよう。夢、希望、愛情、優しさ、強さ、慈しみ、やる気。あれ、もう出て来ないな。ああそうだ、人間にとって必要不可欠なものがあった。絆だ。
じゃあ今度はマイナス思考なものを挙げてみるか。絶望、悲しみ、怒り、憎しみ、弱さ、嫉妬、怠惰、強欲。強欲? それはおかしい。それは人間の三大欲じゃあないか。三大欲って何。『食欲』『睡眠欲』『私欲』だ。人間はこの三つの欲によって動いているんだっけ。強欲・性欲・物欲はもちろん私欲に入るよね。欲欲欲って、お前よくそんな汚い言葉使えるよな。『人間』以下だ。
「人間以下? 僕が?」
眉を顰めながら僕は双眼鏡から瞳を離して兄さんを見た。兄さんは涼しい顔をしながら僕が視ていた所を同じように見ている。僕はまだ天使として未熟だから、双眼鏡や眼鏡等の視力促進道具がなければ下界を視る事が出来ない。
「僕、学校の模試で一位だったんだよ。僕は人間何かよりも凄いに決まってる」
「そういう愚かなところが人間以下なんだよ。ああそうだ人間のマイナスには愚者もあった」
「…………」
双眼鏡をぎりっと握り締めて僕は悔しさを紛らわした。兄さんは隣で課題の書類に羽ペンを走らせている。新しく追加された項目は「愚者」だ。
「今の自分の立場に甘えるな。伸びよう伸びようと思うからこそ、俺達天使は育つんだ」
「何で僕の背中には羽が生えないの」
「それはお前が未熟だからだろう。人間の方がまだマシだ」
兄さんは羽ペンと書類を足元に置くと、また下界の観察を始めた。雲と雲の切れ目から見える下界はとても興味深いもので、僕達天使が暮らすこの天界にあるものはどこにもない。それと同時に天界にないものばかりが地面を走る。
「何であの地面は茶色なの?」
「土より更に細かい砂という微粒子が敷き詰められているからだ。差詰め、天界で言う所の蒸気だ」
「じゃあの土は黒いよ?」
「『土』には様々な種類があるがあれは違う。コンクリート、というものだ」
「コンクリート?」
「原料は石灰石、粘土、酸化鉄を焼成、粉砕した灰色の粉末に砂、砂利、水。別名は混凝土で下界は主にこれを道の舗装に用いる。雲のようなものだ」
「兄さんは何でも知ってるんだね」
「お前も大人になったら知らねばならぬ時が来る」
そう言うと兄さんは僕の頭を撫でて書類を片手にどこかへと飛んでいってしまった。兄さんの背中ではためく純白の羽は紛れもない天使の証だ。僕の背中にはそれがない。
僕はしばらく兄さんが飛んで行った方角を眺めていたけど、自分のやるべき事を思い出して慌てて双眼鏡を覗き直した。今日の学校から出た宿題は「人間一人を幸せにすること」だった。
「…………」
金色、茶色、黒色の髪の毛を色んな形に切ったり結んだり。人間は頭を見るだけでも十分楽しい。顔も皆違うけど、時たまにそっくりな顔をした二人が歩いていくのも見かける。兄さんはあれを「双子」と言った。
道端でお金がなくて困っている子供、子供を授かる事が出来ない夫婦。仕事がなくなってしまった人。勉強がしたいのに出来ない貧乏な家の子供。色々見て来たけど僕はそれを助ける気にはならなかった。もしも助けるとしたら凄い人がいい。人間の歴史を動かすような、それこそ王様のような地位に就いているような人がいい。
まず最初に僕の双眼鏡が止まった。そして次に僕の瞳がキラキラと輝く。最後は僕の声で、見つけた。と呟いた。
僕の目線の先にいたのはとある国の王子様だった。キラキラに輝く大きな冠は被っていないけれど、それは紛れもなく王子様だ。例えば格好。赤いマントに先っちょが尖がっている緑色の靴。白いタイツにぷっくりと膨らんだ短いズボン。緑と赤を基調にした服。昔絵本で読んだ王子様そっくりだ。兄さんだったら胡散臭いと笑うかもしれないけれど。王子様かもしれない彼が手にしているカーディガンは、金と銀の糸で作られたもので、月明かりに照らされる度に、砂漠の砂のように細やかな輝きを見せた。あんな高価そうなものを持っているのは王子様だ。そうだ違いない。
王子様は王様が座る台座に、持っていたカーディガンを掛けた。赤い絨毯が敷き詰められている床に、ダイアモンドが沢山吊り下げられているシャンデリア。ここはきっと王子様が住むお城の中だ。王子様は台座を暫く見詰めると、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。台座には立派な金の冠が一つあるだけで、本来そこにいるはずの王様は影さえない。僕は王子様のその寂しげな表情を見て胸を打たれた。
どうやら王子の父親である王様は誰かに殺されてしまったらしい。僕は王様が誰に殺されたかを調べるために兄さんの部屋に忍び込んだ。すぐに兄さんに見つかってしまったけれど。
「何をしている」
「大事な事を探してあげるんだ。……王子様の、」
「…………」
兄さんは僕の顔をじっと見詰めると、一冊の本と、掌ほどの大きさの虫眼鏡を僕に渡した。そして、いつもよりも優しい声で僕にこう問うた。
「お前は優しい奴だが、やってはならない事とやっていい事がある。もしもそれを遣り遂げるつもりならこの本は遣り遂げた後に読め。もしも遣り遂げないのなら前に読め。わかったな」
僕は頷いた。兄さんは少し寂しそうな顔をしてから僕の頭を撫でた。
さっきいたところへ戻ると、王子様がなにやら大きな紙に色んな事を書き込んでいるのが目に入った。まず父親の名前から書いて、父親の肉親、知人、従者、最近話した人間。このままいくと王子様は色んな人間を疑わなくてはならなくなる。と僕は思った。そうなる前に王様を殺した人間の名前を教えてあげた方が、彼のためになると思った僕は本を投げ捨てて虫眼鏡を手にした。
投げ捨てられた本の題名欄には、『Hamlet』と書かれてあったが、まだ子供である僕には意味がわからなかった。それに作者は人間である。人間をそこまで好んでいない兄さんにしては珍しいと思った。
虫眼鏡越しに見えたのは男と女。名前が浮かんでいたので、僕は名前のスペルを本を破ったものに書き、下界へと落とした。王子様はそれを拾うと、空の僕がいる方向を向いて御辞儀をして、今度は地面を見て土下座した。僕はまるで自分が神様になったかのような、良い気分になった。
その後、僕は兄さんにその事を話した。兄さんは「その人を助けた事は誰にも言うな。違う人を助けろ」とだけ言って、虫眼鏡を机の引き出しに仕舞った。
僕はその言葉の意味がよくわからなかったけど、兄さんが言う言葉に間違いはないと踏んだ上で、道端で転んだ女の子の傷を治してあげた。女の子は喜んで走り去っていったけど、今度はあんまり良い気分にはならなかった。
暫くして、僕は双眼鏡を片手に雲の切れ目の方へと走って行った。王子様が今どうしているのか、気になって仕方がなかったからだ。
でも、双眼鏡を覗き込んだ瞬間、僕はそれを思わず落としてしまった。切れ目ではなく雲の上であったから、下界に落ちなかったものの、僕は恐くて、悲しくて、涙をぼろぼろ流した。
僕が助けた王子様は、自殺していた。王子様は破滅の運命を辿ってしまっていた。父親を殺した二人を殺そうと誓い、しかし本当に殺してもよいのかと悩み、人の命の狭間で苦しんで苦しんで苦しんだ果てに死んだ。恋人も捨てて、最後に二人を殺して、王子様は涙を流しながら己の命を絶ったのだ。
王子様が未来、治めるはずだった国は廃れ、最後の一人であった国民も馬車を引きながら去って行った。残っているのは、荒れた土地と死に絶えた動物の骨や腐った骸。
僕は破ってしまった本を手に取り、自分の涙で滲んだ表紙を見詰めながら、兄さんがご丁寧に訳してくれている部分を見詰めながら、「ハムレット」と小さく呟いた。
これは歴史を変えてしまった可哀想な小さな空の住民のお話。
最後までお目を通していただき光栄です。
初めましてな方は初めまして。昨日・ちょっと前ぶりな方はこんにちは。
今回はシェークスピアが作った四大悲劇の内一つを使わせていただきました。童話という事で分けていますが、ジャンル分け様には頭を悩ませられます。
では、ありがとうございました。