円満に婚約解消いたしました(私以外!)
花が咲き乱れる庭園で行われるいつも通りの二人きりのお茶会は、いつもと違って重苦しい空気が流れていた。
理由は分かっている。
私、ナタリー・ヴァンツとその婚約者、グレッグ・ペテルセン。
二人の長きに渡る関係がこれから終わろうとしているからだ。
「……ナタリー。もう父君から聞いていると思うがけじめとして改めて私から言わせて欲しい」
「はい」
「申し訳ない。ナタリー。私との婚約解消をしてもらいたい」
生真面目な性格そのままに頭まで下げて行われた謝罪と嘆願に、私ができる返事など一つしかなかった。
「……はい、分かりました」
父から話を聞かされたのは数日前。
なんでも私が所用で家を開けている時に、当主であるペテルセン子爵がグレッグを伴い婚約解消の要請に来たとのことだった。
いくら我が家が裕福な商家といえど、平民であることには変わりない。
貴族からの要望を断ることは不可能だったと落胆しながら父は私に謝罪し、私はそれを受け入れるしかなかった。
婚約解消を求められた際、律儀にも理由を伝えられたそうだ。
どうやらグレッグに一目惚れした伯爵家のご令嬢から縁談の書状がペテルセン家に届いたらしい。
裕福な商家の子供だけれどただの平民の私と、格上の貴族のご令嬢。
どちらとの繋がりの方が旨味があるかは明白で、ペテルセン子爵は後者を選んだ。
貴族としては当然で仕方のないことだった。
幼い頃からの、約十年ほどに渡る婚約をこちらの都合で破棄することになるので、とペテルセン子爵はおよそ貴族が平民にしないような丁寧な謝罪とお詫びの品を我が家にも私個人にもいくつか送ってきた。
更には商売上ヴァンツ家が有利になるような大口の契約を結んでくれたり、他貴族との仲介など色々と便宜を図ることを約束してくれたらしい。
そして件の令嬢の家からもすでに纏まっていた婚約に横槍を入れたお詫びとしてそれはもう沢山の貴重な品物が届けられた。
平素より貴族と平民の婚約など貴族側が一方的に破棄したところで何も問題視などされない。
いっそやりすぎなくらい誠意のある対応に、恨み言など一つとして浮かぶはずがなかった。
現に父は落胆はどこへやらといった様子で、私の新たな婚約者を選びだした。
ただの平民だとはいえ、下手な貴族よりもよっぽど裕福な我がヴァンツ家。
繋がりを持ちたい、ひいては金銭面での援助を受けたいといったような貴族は少なくなく、後釜探しに苦労することはないだろう。
そしてその想像通り、新しい婚約者はあまり日を置かずして簡単に決まった。
相手は伯爵令息。
ペテルセン子爵家のグレッグよりも格上にあたるお方だった。
これに父はたいそう喜んだ。
より上位の貴族とつながりが持てると。
グレッグとの婚約解消はこの縁のためにあったのだ。
父はそう満足そうに笑っていた。
グレッグも間もなくして件のご令嬢との婚約が纏まった。
こうして、私たちの婚約解消は円満に終わったのだった。
……私以外は。
「うっ……うっ……」
「ナタリー、いい加減に泣き止めよ。お前とグレッグの関係が終わっちまったことも奴が例の令嬢と婚約したことも仕方ねぇことだったろ」
「分かってるわ! でも、でもぉ……好きだったのに! 私だってグレッグのこと好きだったのにぃ!!」
ぐすぐすめそめそと薄化粧が崩れるのも構わずみっともなく私は涙を流していた。
テーブルを挟んだ向かいに座り呆れたようにため息を吐いているのはギルベルト・リーベルス。
「……それ、未来の旦那にたいして言うようなことじゃないだろ」
リーベルス家の四男で、つい最近決まったばかりの私の新しい婚約者様だ。
花が咲き乱れる庭園で行われる婚約者との二人きりのお茶会。
結婚予定の相手が変わったとてその習慣は変わらず、グレッグが座っていた定位置に今現在はギルベルトが頬杖をつきながらおさまっていた。
グレッグはもっとぴっしり行儀良く座っていたのに。
だらしない格好の現婚約者をついついグレッグと比較してしまって、もうその姿を間近で見れることが無いのだとまたまた涙が溢れてくる。
ぐすぐすめそめそぐすぐすめそめそ。
止まない泣き声にギルベルトが再び大きなため息を落とした。
「お前ほんとにグレッグのこと大好きなのな」
そうだよ、大好きなの、本当に!
私とグレッグが出会ったのは十年ほど前。
婚約者として引き合わされた幼い私たちは、緊張故のぎこちなさをまといながらも会話を交わし、打ち解けていったことを覚えている。
グレッグは昔からは冗談が通じないほどの生真面目で、他人からは面白みのない男だとからかわれてはいたが、私にとっては実直すぎるほどのその性格が大変好ましく思えていた。
それに、グレッグはとても優しい人だった。
子爵家の嫡男として色々と忙しいであろうに、定期的に一緒にいたいという私の我儘を聞いて二人だけのお茶会を提案してくれたのは彼だ。
そして、それを欠かさず行ってくれた。
恋人に送るような甘い囁きなどは一切なかったが、いつも私を気遣い思ってくれている彼なりの不器用な優しさにいつしか私は彼のことを大好きになっていた。
ロマンス小説で描かれているような燃え上がるような激しく鮮烈な恋じゃない。
さざなみのように静かに穏やかで、それでも確かに私は彼に恋をしていた。
だから。だからこそ。
彼が私と同じような気持ちを抱いていないこともなんとなく分かっていた。
私を見つめる彼の目は優しい。優しいが、それだけだ。
まるで幼い妹を見守る兄のような穏やかさに満ちている彼の瞳に気付いたとき、私は酷くショックを受けた。
まだ私は彼に妹のようにしか思われていないのかもしれない。それは、嫌だ。
そう強く感じ、私は彼への恋を自覚した。
それでも、私たちはいずれ結婚するのだから、とあまり焦ってもいなかった。
彼にまだその気が無くても今まで通り絆を深めていけばいいと。
結果的に、いつまでたっても彼は私に恋をするような気配を見せなかった。
婚約者としては、とても大切にしてくれていたのだけど。
結婚すれば。夫婦になれば。
いつしかグレッグの気持ちも変わってくれることだろう。
そう、思っていたのに。
「私、私、本当は婚約解消するの嫌だったの! グレッグと結婚したかったの! 夫婦になりたかったの!」
「へーへー」
「でも父様から聞かされたことなんて決定事項なんだし受け入れるしかないじゃない! みっともなく縋ってグレッグに嫌われるのも嫌だったの!」
「ほーほー」
「グレッグもグレッグよ! 申し訳なく思ってわざわざ謝るぐらいなら私を選んでくれればいいのに! あんな風に謝罪を受けるなんてより惨めじゃない! 生真面目! 誠実! そこが好き!!」
「それもう四回ぐらい聞いてんだがあと何回言やぁ気が済むんだ?」
「少なくとも三十回くらい」
「……まじかぁ」
ぐすぐすひくひく言いながら繰り返される嘆きを聞き飽きたらしいギルベルトはがっくりとテーブルに突っ伏した。
婚約者が他の男についてあれこれと言っているのに、怒って帰らず適当な返事で呆れながらも聞いていてくれているギルベルト。
彼も中々に優しい人だと思う。
そもそも、私がグレッグを大好きなことを知っているからというのもあるだろうけど。
私とギルベルトは元々友人だった。
正確に言えばギルベルトと友人だったグレッグに紹介され、友人になった。
伯爵令息でありながらあまり高位の貴族めいた価値観を持っておらず、平民の私にすら対等に扱って気さくに接してくれた彼とはすぐに仲良くなった。
本人いわく末っ子でそこそこ放任されつつ甘やかされてわりと自由に生きてきたため、平民だの貴族だのとそう言ったことが気にならない、とのことで。
確かに、貴族らしからぬ平民の様な粗野な言動を見せるところがあるギルベルトはとても自由な人だった。
そしてやたらと人の機微に聡かった。
私がグレッグに恋をしていることも、反対にグレッグにはそんな気が微塵もないことも早々に勘付いたらしいギルベルトにこう囁かれたことがある。
「一方通行」
その言葉は正しくその通りで、うるさいわね! なんて苛立ち半分、気恥ずかしさ半分で何が楽しいのか笑っているギルベルトに怒ったのを覚えている。
その時は、たとえまだグレッグが私を愛していなくとも、夫婦になりすごしていくうちに愛情が生まれるに違いないと、信じていたのだ。
愛情が生まれるどころか、夫婦にすらなれなかったのだけど。
そんなこともありギルベルトにはまだグレッグに未練たらたらなことがバレバレなので、ある意味安心しながら泣き言を言えるのである。
言われている本人はいい迷惑だろうけれども、今だけだから聞いてほしい。
私の心情は別として、円満に終わった婚約なのだ。
悔恨を残さないためにも悲しさも悔しさも愛しさすらも全てぶちまけてまっさらになって、改めてこの新しい婚約と向き合いたかった。
「グレッグのことが好きってもっとちゃんといっぱい伝えていれば良かったのかなぁ? そしたらグレッグも私のこと好きになってくれてたのかなぁ?」
「あいつのことだから微妙な反応しそうだけどな」
「そうなの! 一回だけ言ったことがあるんだけどめちゃくちゃ困ってて、反応に困らせるぐらいならもう言うの止めておこうってなっちゃって……。うわーん! こんなことならちゃんと言えば良かったー! 好きって! 大好きって!」
「うんうん、次からはそうしような」
「そうする! 今度はちゃんと好きって伝えるようにする!」
「おう、待ってる」
勢いのまま喋っていたがギルベルトの返事ではっと我にかえる。
今度からは伝えるようにするって、その今度の相手はギルベルトだ。
会話の流れのまま当人にいずれ好きだと伝えると宣言したのも同然で、かっと顔が熱くなった。
ギルベルトはそんな私を見てにやにやと笑っている。
なんとも言えない恥ずかしさを誤魔化すために咳払いを一つして、冷めきった紅茶に口をつけた。
「それにしても、あなたも難儀なことね、ギルベルト」
「は? 何がだ?」
冷たくなった紅茶で幾分か頭も冷めた。
色々と情けなくぶちまけたおかげで、もやもやとしていたものがスッキリとなくなっているのを感じる。
こんなことに付き合わせた申し訳無さと付き合ってくれたことに対する感謝を抱きながら、私の言葉に首を傾げているギルベルトに苦笑してみせた。
「だって、私なんかと婚約することになるなんて」
自由人なあなたが。
その言葉は再び口をつけた紅茶とともに飲み込んだ。
ギルベルトはモテる。たいそうモテる。
家督を継ぐのが難しい伯爵家の四男という立場であっても、目鼻立ちの整った顔立ちと気さくな性格は世の婦女子たちを虜にするには十分らしいもののようで。
下町の娘たちから、貴族のご令嬢、果ては未亡人のマダムにまで幅広く彼に焦がれるものは少なくない。
やれどこそこのお嬢さんと付き合っているだの某貴婦人の若いツバメになっただのとあちらこちらから入ってくる噂話が尽きないぐらいだ。
噂話の真偽を聞くたびに本人は笑って否定していたけれど、一つや二つは本当なのではと睨んでいる。
邪推でしかないけれど。
ギルベルトが今の今まで婚約者を作らなかったのも、気ままに浮名を流したかったからに違いないと思っている。
これも下衆の勘繰りでしかないけれど。
そんな自由人ギルベルトにとうとう私という婚約者ができてしまったのだ。
まだまだ遊び足りないだろうに、とため息を禁じ得ない。
それに、我が家と同様伯爵家と繋がりを持ちたい者やギルベルト自身に魅力を感じていた者から引く手数多であろうによりにもよって婚約者になったのはこの私だ。
特別美人でもなく分かりやすい魅力があるわけでもなく秀でた才能があるわけでもない言ってしまえばただ裕福な家の娘であるだけのつまらない女でしかない私が相手だなんて本当に勿体無いと思う。
そんな女が婚約者になったのは、家同士の利害の一致からだろう。
貴族と縁を結びたかった我がヴァンツ家は言わずもがな、リーベルス家も諸事情で手広く商売をしている家と繋がりが欲しかったらしく。
我が家に白羽の矢が立ったのだと鼻高々と話す父に気の無い相槌を打ったものだった。
つまるところ、下町の娘から貴族の令嬢、マダムまでよりどりみどりだったギルベルトは、伯爵家の者として義務的に私と婚約しなくちゃならなくなったわけで。
お互い家の事情で振り回されて大変よね。
なんて、憐憫の情を覚えてしまうものである。
そんな哀れな伯爵家四男様は、私の言葉にたいして何か思うことがあるのかしかめっ面を作っていた。
「……お前さぁ」
「な、なに?」
じとりとした視線は何やら恨みがましいように感じる。
そんな目で見られる意味が分からず困惑しながら首を傾げると、ギルベルトは盛大にため息を吐いた。
「お前、父親から聞いてねぇのか」
「だ、だから何が?」
聞いてねぇみたいだな、と苦虫を噛み潰したような顔をしてギルベルトは呟く。
「この婚約、俺が申し込んだんだ」
改めて念を押すように言われたのは分かりきったことで。
この婚約はリーベルス家が打診したからこそ結ばれたものだ。
だからこうして未婚の男女二人きりのお茶会もできているというのに。
何を当たり前のことを言っているんだろうか。
「? 分かってるわよ?」
「……分かってねぇな」
疑問符を浮かべる私にわざとらしく思いっきり脱力しながらギルベルトは嘆息する。
だーかーらー何がよ、と声をかける前に俯けていた顔を持ち上げ姿勢を正したギルベルトは妙に真面目くさった顔を作った。
「あのな、ナタリー」
普段へらへらとしていることの多いギルベルトの珍しい真剣な表情。
真紅の瞳が真っ直ぐに私を見つめている。
なんだか普段と違うギャップに一瞬どきりとしてしまった。
少しだけ緊張が見て取れる声で名前を呼ばれて、思わずすっと背筋が伸びる。
これまた珍しいことに頬に微かな赤みをさして、ギルベルトはこほんと一つ咳をした。
「この婚約は俺の意思で申し込んだんだ」
「……え?」
「どーせお前のことだからこの婚約も家の都合だとか義務がどうこうとか思ってたんだろ。違ぇよ。俺がお前と結婚したくて親に伝えたんだよ、お前と婚約したいってな。家の都合もそりゃあ多少あるっちゃあるが、お前を婚約者として選んだのは親でもなんでもねぇ、この俺だ」
「……」
照れ隠しなのかなんなのか。
まくし立てるように続けられた言葉に絶句した。
最初は意味が飲み込めずに。
次は理解して、だけど理由が分からずに。
最後は色々と考えてもしかしてなんて思い至って。
無言の私をギルベルトが見つめる。その頬は更に赤くなっていた。
そらすことなくそそがれる視線がむず痒くて、なんだか急に恥ずかしくなってきてしまって、私まで顔が赤くなってきた。
そんな私の変化に気付いたらしい。
ギルベルトは緊張した面持ちを僅かに崩し、淡く笑みをもらした。
ギルベルトの笑顔なんてたくさん見慣れているはずなのに、見たことのない顔だった。
どきり、とまた大きく胸が鳴る。
「なんか、ギルベルトが私のこと、好きみたいに聞こえるんだけど」
「みたい、じゃねぇよ」
ギルベルトの意思で婚約したいだなんて、遊びを続けるのに私が丁度いい存在だったのかもだとかなんだとか失礼なことも色々と含めて考えていたのだけど。
思わず茶化して言ってしまったことを否定され、結果的に核心をついてしまった。
流石にここまではっきりしてしまえば私でも分かる。
とどのつまり、そういうことで。
「好きでもねぇ女の他の男の愚痴なんていつまでも聞いてられるか」なんて言葉まで聞こえてきて、私の話に付き合ってくれていたのを単純に優しいからだなぁとか思ってた自分の鈍さかげんやギルベルトの想いに恥ずかしいやら何やらで更に顔が熱くなった。
「……いつから?」
「結構昔から。まあ、グレッグの婚約者だから端から諦めてたけどな。ナタリーには申し訳ないが、婚約解消してくれたのは俺にとっては僥倖だった」
「……私、まだグレッグに未練たらたらなのよ」
「知ってる。知ってるし、別にいいよ。グレッグのことを一途に想ってるお前を好きになったんだから」
お前の愚痴だってなんだっていくらでも聞いてやる、とギルベルトは笑う。
「今すぐじゃなくていい。俺のことをグレッグを想うみたいに、好きになってくれないか」
その笑みは優しい。
でもどこか影を落としてそんなことを言うものだから、少しだけ胸がきゅっとしめつけられた。
私の心にはまだグレッグがいる。
きっとこれは簡単に今すぐに捨ててしまえる恋心ではない。
けれど。
「お前のことを愛してる。いつか、いつかでいいから、俺のことだけを見て欲しい」
臆することなく愛を告げるギルベルト。
そんな彼が側にいてくれるのならば。
そう遠くない未来でその願いを叶えてあげることが出来そうだ。
なんて予感に包まれながら、赤くなった顔を両手で隠して、私は「……はい」と頷いた。
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