闇を抱えた会計担当
一郎は朝食の食器を片付けると、洗面所で顔を洗って学ランに袖を通した。
「ギルドお仕事は、もう慣れましたか?」
「来週からは、一人で業務を任されそうだね。リエリッタさんの教育が良いのか、それともクエスト管理が僕の適職だったのか」
「それは良かったです」
「それよりアリッサ〜、いってらっしゃいのちゅーは?」
「イチローさん、いってらっしゃい」
「ちゅーは、してくれないんだね」
「はい!」
アリッサは一郎の鞄を玄関まで運ぶと、頬を突き出す彼の顔を押し返すのが、日課になっている。
「あ〜あ〜、ここが日本なら、いってらっしゃいのちゅーしてくれるのにな〜」
「どういう事ですか?」
「日本では同居人を仕事に送り出すとき、ちゅーするのは風習なんだよね」
「えーっ、お見送りのキスは、日本の風習なのですか? ではイチローさんが毎日、あたしにキスを要求するのは、日本の風習だったのですね」
「うん、そうなんだよ。僕はアリッサに召喚されてからも、日本の風習が忘れられないんだ」
「そうでしたか……、風習では仕方ないですね」
困惑した様子のアリッサは、顔を真っ赤にして一郎の頬に唇を寄せた。
アリッサが目を閉じているので、一郎は顔を横にして彼女の唇を奪おうとしている。
「はよ、プリーズキスミー」
「あ、そうでしたわ」
「なに?」
「イチローさんを疑うつもりはないのですが、日本人のトウヤに真偽を確かめてからでも良いですよね? 本当に風習なら、確認しても問題ありませんよね?」
「ちッ」
トウヤはバカなので、一郎の意図を汲み取れないだろう。
舌打ちした一郎は、アリッサから鞄を受け取って出勤する。
一郎が始業時間ギリギリにギルド二階に向かうと、タイプライターを打つ音がしていた。
「おはようございます……って、ベラトリアさんも始業前に出勤ですか?」
「始業前の出勤は、社会人なら常識です」
「この世界の人は、遅刻が常態化してるのかと思っていたから、ベラトリアさんみたいに、時間に正確な人が珍しいと言うか」
「私は、皆みたいに融通が効かないだけ」
「そんなことはないよ。僕も時間には正確な方だけど、こういうのって習慣だと思うよ」
一郎が冒険者ギルドのクエスト管理者になって一週間、主にクエスト監理を担当するのが、彼とリエリッタの他に二人いて、会計担当がカリアナと、人族のメガネ女子ラジカ・ベラトリアだと解った。
一郎は、同じクエスト管理者と入れ違いに出勤しているので、まだクエスト管理者の二人と会ったことがないものの、カリアナと交代で出勤してきたベラトリアと仕事するのは、今日で二日目である。
「イチロー、ここの数字が間違っているので再提出してください」
「わかりました」
「ここで待っていますので、すぐに書き直してくれますか」
ベラトリアはメガネのノッチを指で押し上げると、後頭部を掻き揚げて、書類を受け取った一郎を見下している。
彼女はカリアナから一郎の悪い噂を聞かされているのか、初対面から険のある態度で接していた。
「ベラトリアさん、お茶にしませんか?」
一郎は残していた事務仕事を終えると、受付開始までの休憩時間に、お茶を注いでベラトリアに話しかける。
リエリッタは案の定、遅刻していており、事務所には、一郎とベラトリアの二人だけだった。
一郎は、この機会にベラトリアと親睦を深めたいと考えている。
「お茶、ありがとう」
「いえいえ」
ベラトリアは一郎の誘いを素直に受けると、椅子を彼に向かい合わせて、ティーカップを手にした。
彼女は肩が凝っている様子で、首を回している。
会計担当の彼女たちの教務は、クエスト管理者より多岐にわたるらしく、カリアナもベラトリアも、いつも時間に追われていた。
「僕も会計処理を手伝えれば良いんだけど、さすがに難しくて」
「ギルドが会計処理に使う水晶端末は、魔力ゼロのイチローに扱えません」
「カードの入出金は魔道具だから、僕にも使えるんじゃないの?」
「ATM(Automatic Teller magic)を使えば魔力を使わずに入出金できるけれど、会計処理の水晶端末は、魔力がなければ操作できないです」
一郎は『そうだったのか』と、また一つ、この世界の仕組みを理解する。
「会計処理には魔力を消費するので、魔力勝負で疲れますが、クエスト管理のように対人スキルがいらないから、接客業に向かない私にぴったりの仕事なのです」
「ベラトリアさんは、接客が苦手なの?」
「ええ、だから新人さんには、冷たい人とか、ときには怖がられることも多いのです」
ベラトリアの険のある態度は、もしかすると単なる人見知りかもしれないと、一郎は勘繰った。
「なるほど、ベラトリアさんは誤解されやすいんだ。僕も前いたところでは、人付合いが苦手だったから、ベラトリアさんの気持ちが解るよ」
一郎は幼少期を過ごした施設で、幼馴染の美春にだけしか心を開かなかったし、学校でも超能力バレを気にして、積極的に友人を作ろうとしなかった。
ベラトリアが人見知りであり、それを気にしているのならば、一郎は彼女が克服できるように、励ましてやろうと思う。
「こんな性格だから、この歳になっても恋人が出来なくて……。イチローは、私のことをどう思いますか?」
長い髪を耳に掛けたベラトリアは、カリアナより少し歳上に見えるが、まだ二十代なら、恋人が出来ないことを悲観する年頃でもなかった。
彼女は上目遣いに、一郎の反応を窺っている。
「僕は日本人だから、ベラトリアさんのように真面目な人には、好感が持てるよ」
「イチローは、私が好きってことですか?」
「有り体に言えば、そうなるね」
「そうですか……、ありがとうございます。私もイチローが−−」
受付開始の鐘が鳴る直前に、リエリッタがトーストを咥えて事務所に飛び込んできた。
「遅れちゃってごめんね! ギルドの前に、お婆ちゃんが倒れてて、病院まで運んでいて遅刻したのよ」
「リエリッタさん、ベタな言い訳はどうでも良いから、ベラトリアさんを見習って、ちゃんと始業前に出勤してくださいよ」
「本当なんだって、お婆ちゃんが百人も倒れてたんだから、運ぶのが大変だったのよ」
「それが本当なら大惨事だ」
「でしょう?」
「でしょうじゃねーよ。はよ、働け」
「はーい」
ベラトリアは親指の爪を噛むと、一郎がリエリッタと受付の準備を始めたので、前を向いて、何かを呟きながらタイプライターを打ち始めた。
「イチローは私が好き、イチローは私が好き、イチローは私が好き、イチローは私が好き、イチローは私が好き、イチローは私が好き、イチローは私が好き、イチローは私が好き……、ふふふ、私もイチローが好き」
ベラトリアの異変に気が付いたリエリッタは、一郎を手招きしている。
「リエリッタさん、開店準備で忙しいのになんなんですか」
「イチロー、もしかしてベラトリアに何か言ったりした?」
「いえ、とくには」
「なら良いんだけど、あの子も行き遅れて相当な闇を抱えてるからさ。言動に気を付けないと、イチローも闇に取り込まれるよ」
「剣と魔法の世界で、闇に取り込まれるとか冗談に聞こえません」
「ベラトリアは呪術師だし、目を付けられたら媚薬をもられて既成事実を作られちゃうから、口にする物に気を付けてね」
「呪術師は、裏稼業と繋がりがあるんじゃないですか? どうして真っ当なギルドで、デスクワークしてんだよ」
リエリッタの説明では、ベラトリアは、その筋に顔が効く呪術師の一人娘なのだが、両親とルイズが昵懇の仲で、彼女を預かっているらしい。
呪術師が裏社会との繋がりが深ければ、ベラトリアの家業が人を遠ざけてしまうので、ギルドの事務員に雇ってもらって婿探ししている。
その日は退勤時間まで、とくに大きなトラブルもなく、ベラトリアもリエリッタと一階で夕食を済ませて帰宅した。
「リエリッタさんが、変なこと言うから緊張しちゃって、一日生きた心地がしなかった。ベラトリアさんもあれから、真面目に仕事していたし、視線を感じたのは、きっと僕の自意識過剰だな」
一郎は独り言ちると、詰め襟を指で抜いて、アリッサの待っている家のドアを開ける。
「おかえりなさい」
「ただいま。アリッサ〜、ちょっと話を聞いてよお」
「お疲れの様子ですが、どうかしました?」
「いや、やっぱり何でもない。仕事は、いたって順調だ」
一郎は愚痴を飲み込んで、アリッサに鞄を渡すと、用意してあった夕食の席についた。
アリッサは毎日、一郎が出掛けた後に王立図書館や大学で魔法学科の教授を訪ねて、召喚者を日本に帰す方法を探している。
一郎は、そんなアリッサに心配事を増やす気になれなかった。
事件は翌朝、いつものように玄関まで、一郎を見送りにきたアリッサの一言で幕を開ける。
「伝え忘れていましたが、トウヤがイチローさんに剣の稽古をつけると訪ねてきたので、勤務表を渡したのですが、余計なことでしたか?」
「トウヤは面倒な奴だけど、魔剣の扱い方を教えてくれると言うから構わないよ」
「良かったです。トウヤは、次の休日に来るそうですよ。ところで例の件、彼に確認したのですが」
「例の件? ……あっ」
一郎は、お見送りのキスが日本の風習だと、アリッサを騙したことを思い出した。
「いや〜、トウヤは群馬県民みたいだしぃ、都民の風習を知らないかもしれないなぁ〜。あのバカ勇者が、アリッサに何を言ったか知らないけど、群馬県は地球の裏側にあるんだよねぇ〜、すげぇ東京と距離が離れてて、たぶん言語も違うんじゃないかな」
「そうなのですか?」
一郎はアリッサとキスしたさに、騙したことがバレたと思って慌てている。
「まあ僕も、この世界の風習を受け入れなきゃいけないし……、仕事に遅刻するから、もう行くよ」
「はい」
一郎がアリッサから奪うように鞄を取ると、彼女は顔を寄せて、彼の頬にキスをした。
「え?」
「トウヤも、いってらっしゃいのキスが日本の風習だと言ってました……、恥ずかしいので毎日できませんが、たまには故郷を思い出してください」
「トウヤが、そんな気の利いた真似を?」
「いってらっしゃい」
「いってきます! ひゃほー! トウヤはバカだけど、バカじゃなかった!」
一郎はスキップしながら、バカだけどバカじゃない♪ バカだけどバカじゃない♪ バカだけどバカじゃない♪ と、ジブリ感たっぷりの節回して出勤していく。
唇に指先を当てて微笑んだアリッサは、いつにも増して元気よく、ギルドに向かう一郎の背中を見送った。




