初出勤
一郎は魔剣ウンディーネを帯刀すると、玄関まで見送りに来たアリッサに、頬を突き出した。
「イチローさん、いってらしゃい」
「お見送りのちゅーはないの?」
「イチローさん、いってらしゃい」
「ないんだね」
「はい!」
「いってきます」
一郎は今日、クエスト管理者として冒険者ギルドに初出勤である。
アリッサの家は町外れの北側にあり、冒険者ギルドのある中心街まで徒歩で30分ほどだった。
通勤路は食料品市場、クロコのテーラー、一郎が追放された城の門前を通る。
「よおイチロー、今日から冒険者ギルドで働くんだろう。これやるから持っていけ!」
「お、よくあるイベントあざっす!」
「仕事帰りに寄ってくれよ」
果物屋の店主が、一郎にリンゴを投げて寄越した。
一郎が、この世界にきて一ヶ月、城を追放されてから毎日のように通う市場には、顔見知りが増えている。
この世界に冷蔵庫がなければ、生鮮食品は必然、市場に足繁く通うことになるので、市場を経由する職場は有難かった。
「みなさん、今日からお世話になる田中一郎です! 早く仕事を覚えて、お役に立てるように頑張ります! ……って、まだ誰も出勤してないのかよ」
冒険者ギルドの建物二階に駆け上がった一郎は、カウンター越しに挨拶したものの、事務所はもぬけの殻である。
一郎は初日だから早く職場についたのかと、自分の腕時計と柱時計を確認したが、始業時間まで5分前だった。
「この世界では時刻を知る手段が限られているし、腕時計がないから、多少の遅刻も仕方ないのかな」
しかし一郎の教育係リエリッタは、始業時間を知らせる教会の鐘が、町に響き渡っても現れない。
この世界と地球は、魔法、モンスター、人族以外の種族の有無を除けば、一日は24時間、月は一つ、食べ物から建築物の概念、ほとんど同じである。
一郎は以前、ここが地球以外の星ではないかと、地球人のテレパシーを辿ってテレポートでの帰還を試みたが、テレパシーの索敵範囲、少なくとも同じ銀河系内に地球は存在しなかった。
一郎の結論としては、この世界が並行宇宙の地球であり、だから彼の腕時計と、この世界の時計が同期している。
「リエリッタさんが来ないと、やる事が解らんし、掃除でもしておくか」
一郎は事務所の角に置かれたロッカーから、箒と塵取りを出して床を掃除することにした。
しばらくすると、髪が乱れたまま出勤してきた女性スタッフが、カウンターに座り髪を梳かしている。
彼女は二十代前半、耳の形や体型からすると人族であり、座った席を見れば、どうやら冒険者にクエスト報酬を支払うスタッフのようだ。
「ちょっと、あんた人の顔をジロジロ見ないでよ」
「すいません。僕は今日から、ここでお世話になる田中一郎です」
「清掃員じゃないんだ。私はマイネ・カリアナ、主に経理担当ね。主にって、他にも業務全般やらされているってこと」
カリアナはショートボブの外ハネを撫でつけて、不機嫌そうに自己紹介する。
始業時間から遅れること10分、スタッフ用の制服に袖を通しながらリエリッタが、事務所のドアを開けた。
「イチロー、もう来ていたの?」
「はい。ルイズさんから無能者は、遅刻欠勤が多いと釘を差されているので、始業時間前には出勤しようかと思いました」
椅子を回したカリアナは、一郎の顔をしげしげ見る。
「新人くんは、無能者なの? 働き者の無能者なんて珍しいわね」
「カリアナ、イチローはこの世界に召喚されたばかりで、怠けていたから魔力がないわけじゃないのよ」
「じゃあ、あんたがアリッサさんの家に居候している無能者なんだ。高い費用を掛けて召喚されたのに、クエスト監理しか出来ないなんて、税金泥棒もいいところよね」
「カリアナっ、イチローはアリッサのヒモでもないし、今日からはヒキニートでもないのよ!」
「私は、そこまで言ってませーん」
リエリッタは口を手で覆った。
「は、はは……、悪魔、無能者、バカ勇者の弟子、税金泥棒、ヒモ、ヒキニートが、僕の得た称号なのかよ」
一郎が自虐的な笑みを浮かべると、リエリッタがペコペコと頭を下げる。
「イチロー、今日は私とカリアナを見て、業務内容だけ覚えれば良いからね」
「え、僕ら三人だけなの? 昨日は五人くらいスタッフいたよね」
「事務スタッフは、あと三人いるんだけど、他のスタッフは今日、シフト休なのよ。でもスタッフが三人いれば良い方で、普段はクエスト監理、報酬支払い業務の二人だけで仕事を回さないといけないわ。だからギルドの事務職は、慢性的な人手不足だって言ったでしょう」
「冒険者ギルドは、ブラック企業なのでしょうか?」
一郎がリエリッタに問うと、ギルド長室から出てきたルイズが、彼の背後に立って尻を撫でた。
「ルイズさん、なぜ僕の尻を?」
「イチロー、これはスキンシップだから気にするな。今日から頑張りたまえ」
ルイズの見た目は、清楚で可憐な巨乳の姫騎士のようだが、下半身と中身はセクハラオヤジである。
「過剰業務に加えて、ルイズさんのパワハラとセクハラで、ここの女の子はすぐに辞めちゃうのよね。新人くん、この職場はブラックじゃなくて超ブラックよ。貴方も、早く次の職場を見つけた方が良いわ」
カリアナは苦々しい顔で、ルイズが手を振りながら1階に下りるのを確認して答えた。
「イチローは、辞めませんよね」
「まあ初日ですから」
「逃げるなら、私も連れて行ってください。この際、貴方で我慢しますから」
「我慢って、リエリッタさん−−」
「エルフは老けませんし、あっちの方も、けっこう良い仕事しますよ」
リエリッタが一郎の手を握ると、横目に見ていたカリアナは、肩を竦めて化粧を始めた。
一郎は女ばかりの職場に、少し夢を見ていたのかもしれない。
夢と希望を持って出勤した一郎の同僚は、やたらと寿退社を口にするエルフと、新人イジメが好きなOLで、上司は、すれ違いざまに尻を撫でるセクハラオヤジだった。