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殺人ベースボール ー怒りのホームランー

作者: 土井留ポウ

【田茂マサオまたまた規格外のホームラン】


【ユニバーサル甲子園準決勝またあの男がやっくてくれた。優勝候補パーフェクト・フリーダム学園の四番打者田茂マサオは初回から場外ホームラン、続いての打席でも同じく場外ホームラン、最後の打席は敬遠されたがチームは四回面でコールド勝ちとなった。これで田茂マサオの四球を除いて打席に立った際のホームラン確率はこの一年間を集計して96パーセントという驚異的な数字。史上類例を見ないホームランバッターだ】


【明日のユニバーサル甲子園決勝は日本野球界関係者だけでなくメジャーリーグのスカウト陣も訪れる中、いよいよ高校通算500本目のホームランが達成されるであろうことは想像に難くない】











             *











 瀟洒なビルディングが建ち並ぶユニバーサル神戸シティ。最先端の材質と工法で作られた目を見張る建築物と対比をなす、洗練された緑豊かな緑地公園。日中のうだるような暑さは鳴りを潜めて、幾分生温かいが、まだ心地の良い風が木々の間をゆっくりと通り過ぎる宵の頃。ベンチに腰掛けささめき合う二人。男の方が冗談を言っては女がそれに相槌を打ったり時にたしなめたりと楽しそうな気配。噴水広場の前に腰掛けた二人の周囲に人影はなく、まさに都会の喧騒から離れた秘密の睦び場といったところ。恋人同士の顔はほんのりと紅らんで、恋の魔法は二人の存在を柔らかい愛の衣で包んでいた。

 

 取るに足らない話題で盛り上がっていた二人だったが、不意に男は女の肩を掴んで、神妙な顔つきになった。女は男に肩を掴まれながらその真剣な眼差しにどきっとし、胸が熱くなって鼓動が高鳴った。

「……ところで、俺は明日の試合、予告ホームランを宣言する。君のためにだぜ。通算500本目のホームランを君にプレゼントするんだ。絶対に……」

 ここで男はごくっと唾を飲み込んだ。

「……そしたらさ……俺と……俺と……俺と…結婚して欲しい」

 その一瞬、全ての時間が止まったような沈黙があった。


 彼女の裡に秘されていた遥か遠くの愛の願望、恋の終着駅が眼前に迫ったことの戸惑いが、彼女をしばし放心状態にした。そして燃えるような瞳で男を見た。男の目に嘘偽りのない真実と真心以外に不純物がない、と判断を下すと、

「……卒業してからよ」

 女は男の耳元で囁きこの申し出を受け入れた。男は嬉しそうに女を強く抱きしめた。強く、強く……

 この愛の巣作りの始まりを唯一見下ろしていたのは、夜空を周回する月のみであったが、それは執念深いヘビのような赤い三日月であったのは象徴的と言えよう。


 轟かす爆音。無数の奇声が次々と上がる。何事であろうか。木々の間からライトが明滅しこちらへ近付いて来るのが感じられる。モーターバイク……?まさか……ここはモーターバイクの乗り入れは禁止されているはず。それにあんな爆音を放つバイクなど歴史の授業で習う類のものだ。男がベンチから立ち上がると、猛スピードでバイクが男の前から走って来る。男は持ち前の反射神経でそれを避けたが、またもう一台、今度は横から、さっと前に飛んで男は躱した。

「何だ!お前たちは一体……」

 モーターバイクは続々と集まり、二人の間に円陣を敷いた。薄ら笑いを浮かべながら二人の様子を窺う不良たち。誰も何も発せずただ二人を眺めているだけなのが不気味である。

「俺たちに何の用なんだ!」

 男がこう叫んだ時、バイクの列の間から一人の男が現れた。


 額から頭頂部まで剃り上げているのか、あるいは若年性の脱毛症であろうか、その奇抜な髪型は後ろ髪だけ背中まで長い。上半身を覆うポンチョみたいなマントは、肩パッドでも入っているのか肩が非常に盛り上がり、顔は死人のように蒼白、病的で、薄気味の悪い男である。

「久しぶりだな!田茂マサオ!」


 田茂マサオと呼ばれ男は驚愕していた。俺はこの男を知っている。しかし思い出の中の男とこの男は似ても似つかない。別人ではないか。

「お前は……まさか…」

「誰?知り合い?」

 不審そうに薄気味の悪い男を見遣る女。

「フフフ……つれない人だなァ絵里香さんは……僕ですよ…細川ススムですよ、フフフ……中学の同窓ではありませんか」

 細川ススムの顔に笑みが張り付いた。

「そして、そこにいる田茂マサオとはチームメイトだった…」

「あら、そうだったわね…」

 絵里香はこう相槌を打ったが、あまり記憶になかった。ベンチで暗い顔で試合を見ていた男の子、そんな印象が微かに思い出された。


 田茂マサオはこの旧友との突然の再開を頭脳で処理できずにいた。不良たちを引き連れ、この不穏な状況下、感情の揺さぶりに耐えきれず、叫んだ。

「そうだ!ススム!お前は中二の夏突然姿を消したんだ!一体お前に何があったのだ!義務教育の途中でお前は一体何処で何を……?」

 そしてマサオは周囲を見渡し、

「そして今、ここに何の目的があって再び現れたのだ?」

「フフフ……理由は二つ…」

 生温かい風が木々の間を吹き過ぎた。ススムの長い後ろ髪が風に靡いている。

「一つは…」

 ススムはチラッと絵里香の方に視線を向けた。その目はとてもいやらしかった。病的な顔に比べ、その目は異常にギラついていて、恐るべき執念と情念がその視線に宿っていた。

「う…」

 絵里香の顔に露骨な嫌悪の相が表れた。

「貴様ァああ!」

 マサオは本能的に飛びかかる。一瞬、不敵な笑みを見せたススム。そして、

「もう一つとは!?」

 マントを翻し、目にも留まらぬ速さでススムの手がマサオの首に食いついた。

「テメェだよ!田茂ォォ!」


「ぐうううう!」

 マサオは白目をむいて喘いでいる。

「フフ…何たる快感……俺は何度お前の首を締めてやりたいと思ったことか!フハハハハハハ!」

「乱暴はやめて!」

 二人の間に止めに入る絵里香。

「おっと、大人しくしてな」

 彼女は屈強なススムの子分たちに抑え込まれた。

「きゃっ、触んないで!」

 どうしてこの人たちはこんな酷いことをするの、絵里香は不意に泣きたくなった。

 一方マサオはススムの強靭な腕力に驚愕していた。

「なんてパワーだ……!これが、あのもやしっ子だったススムなのか!?この四年間…こいつは一体何処で何をォ……!」

「思えば俺はいつもお前の背中を追いかけていた。手の届かない大きな壁だった。お前は幼い時からエースでホームランバッターだったよな。かたや俺は万年拾い。同じ時期に同じチームで野球を始めたにも関わらずだ!そう……俺はお前の全てに劣っていた!分かるかお前に!あの気持ちを!あの悲しみを!あの歯がゆさをォォ!」

 マサオの首を絞めるススムの手に益々力が込められる。

「そしてお前は……俺が生涯最も愛した初恋の人……そう、絵里香さんのハートまで俺から奪おうとするのか!」


 暫時の沈黙。

「はあ!?」

 と咄嗟に声を上げたのは絵里香。

「何言ってんのよ!あんたなんか知らないわ!あんたなんか絶対嫌よ!もうやめてこんなこと…馬鹿じゃないの!」

 ススムの興奮は一気に冷えて固まり、凍てついた視線が彼女を捉えた。子分にマサオを押さえ付けておくよう命じたススムは絵里香の方に歩み寄った。

「な…何よ…」

 パンッという破裂音とともにススムの張り手が絵里香の頰を打擲。

「貴様ァァ!血迷ったかススムゥゥ!」

 抑え込まれ身動きの取れないマサオは怒りを放射するが如く叫んだ。

「絵里香さん、君はこれから僕の生涯の伴侶となるべき人だ。言葉は慎むべきだよ」

 頰を押さえ頭を垂れる絵里香にススムは厳然とこう言う。

「いい加減にしやがれ!ススムゥゥ!生涯の伴侶だと!?よくもぬけぬけと…!生憎だが、絵里香は今夜、俺のフィアンセになったんだよ!」

 マサオは昂然と言い放った。

 すると、ススムはその言葉を聞いて失恋を悟り、全く誤解していたようだ、ごめん、と詫びを入れ潔く去っていった。


 と言う訳ではないのは勿論のこと。益々、ススムは横暴を極め、先程凍結したかに見えた興奮が再び滾り、愉悦の笑みが顔いっぱいに広がる。

「フハハハハハハハハハハ!」

 ススムの高笑い、更に、

「へへへ」「むひひ」「ぶへへ」「くははは」

 と子分たちも続いて哄笑を上げる。

「絵里香さんあなたの美しさは罪そのものだな。だからマサオのような自惚れ屋が後を絶たない。あのストーカー男は君のことをフィアンセだとほざいているよ。可哀想な男だ」

「へへへ」「むひひ」「ぶへへ」「くははは」

「さあ、絵里香さん……僕があの男に証明して差し上げましょうか。僕こそが君のフィアンセだということを……僕こそが君を幸せにしてやれる強い男なのだということを!フハハハハハハハハ!」

 その時マサオを抑えていた子分たちの束縛の手から解放された。

「ヒロ彦出番だ!」


 バイクの列の間から子分に手を引かれ現れた男は、一見して完全に精神が崩壊していると思われた。この猪首の小男は青いブルースーツに半ズボン、蝶ネクタイという出で立ちで、絶えず意味のなさない譫言を口走りながら、何かを口に含ませている。それは光に集まった蛾であるらしかった。顔は中心に凝集されたようにエネルギーの密度が感じられ、充血した瞳は攻撃的にも見えるが、しかしまたそれは内部に拘泥し抑圧された苦悶にも感じられた。


「何だ?どういうつもりだ」

 マサオはバットを手渡された。高校野球に使用される金属バットではなく、木製のバット。それは何の変哲もない普通のバットである。

「これだ!」

 そう言ってススムがマントの中から取り出したのは白球であった。

「いいか!マサオ!つまりお前が俺の投げるボールを打ち返すことが出来たならば、絵里香さんを諦め、ここから去ろう……だかもし、打ち返すことが出来なければ……フフフ…分かるよな?」

「ふん、そういうことか。ススム、その言葉に二言はないだろうな。いいだろう!受けてやるぜ!貴様の球など彼方まで打ち返してやる!」

「へへへ」「むひひ」「ぶへへ」「くははは」

 子分たちの不敵な哄笑。

「キャッチャー!」

 ススムの呼び声に応じてヒロ彦がフラフラと歩いて来ると、マサオの斜め後ろでどっこいと腰を落とした。素手のまま手を前に突き出して構えのような格好をしている。

 夜は深みを増し、赤い不吉な三日月が頭上に鎌首を擡げている。張り詰めた沈黙が周囲を包んでいたが、ヒロ彦の発する譫言だけが浮き上がり場の中を漂っていた。


 ススムはマントを引っ掴み空中に放り投げた。

 マサオは驚愕した。露わになったススムの上半身は、鍛え抜かれた鋼の肉体、白さの際立ったその肉体はもはや肉体と言うより、硬いセラミックのようであった。

「あのもやしっ子のススムが……?」

 絵里香は不安に駆られた。

 先程までは野球の対決となればマサオが勝つと信じて疑わなかった。高一からエースで四番、名門パーフェクト・フリーダム学園を一昨年、昨年と春夏ともに優勝に導いた立役者、プロ野球更に大リーグからも引っ切りなしにスカウトが訪れる超ウルトラ高校級の田茂マサオが、こんな不良どもの思いつきのような野球勝負に負ける訳がない、そう思っていたのだが……

 この不敵さは何であろうか。あの細川ススムの落ち着いた物腰、人間離れしたあの肉体、子分たちのニヤついた顔。彼女は言いようのない胸騒ぎに襲われた。

「もうやめて!マー君!あたし何か嫌な予感がするの!」


 しかし、彼女のこの悲痛な叫びはすでに細川ススムとの対決モードの田茂マサオには届かなかった。

 張り詰めた空気、微動だにせず対峙する二人の男、子分たちもしかつめらしく二人を見詰めている。厳かなる神事の目前、呪師が神の降誕を待つ数十秒間、空気さえ静止する沈黙。

 その中でただ一つ空気の中に自由にたゆたうヒロ彦の譫言。

「うー」「まー」「ひっ」「いばしたら」「ひっ」「むーん」「げどろ」「ひー」「まー」

 ヒロ彦の意味のなさない言葉が不安を増長させ、絵里香はもう気が狂いそうであった。

「もうやめて!」

 彼女が叫んだその時。


「きゅおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

 ススムが奇声を発した。

 いきんだその肉体から蒸気が噴出している。セラミックのように白い肉体が今では赤みを帯びている。

 握り締めた白球が彼の強靭な握力で変形していた。

「いくぞ!」

 ススムの肉体が獣の如く伸び上がった。筋肉が一つの流れに、激しくも正確に流動する。

「ハイパーマッスルボール!」

 きゅううううん。閃光迸り白球は放たれる。白球がまるで筋肉の塊の如く膨張、巨大な肉塊となってマサオに迫り来る。

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

 マサオがバットを振る。

 ぼごおおおおおお。バットを爆裂させハイパーマッスルボールはヒロ彦の両手に受け止められた。

「きゃあああ!」

 絵里香の悲鳴。

 マサオは砕けたバットの柄だけ掴んだまま両手両足から夥しい地を噴出させていた。猛烈な衝撃を受けたために四肢の筋肉が断裂されたのだ。

「ぐあああああああ……!」


 白球はヒロ彦の両手に覆われた空間に静止し、浮かんでいる。

 ヒロ彦だけがススムの強力なハイパーマッスルボールを受け止めることが出来るのだ。

 ススムの異能な肉体改造から編み出されたハイパーマッスルボールを放つことが出来るのは、人格が崩壊しただ強力なパワーのみに反応するだけの形骸、同じくこの異能なキャッチャーがいるからこそである。


 絵里香は子分どもの手を振り解きマサオのもとに駆け寄る。

「マー君!マー君!大丈夫!?」

「ぐううう……」

 マサオは苦痛と悔しさで呻く。

「フハハハハハハハハハハハハ!見たか!?俺のハイパーマッスルボールを!」

 ススムは高揚し、愉悦すること甚しく息巻く。

「何てザマだ!ええ!?さっきまでの威勢はどうした!ええ!?分かるか!これが貴様らの甘ちゃん野球との違いだ!高校球界の英雄だか知らんが俺に比べれば貴様なぞスウィーツだ!分かるか!ええ!?」

 ススムは益々高揚し白球を再び握り締める。

「きゅおおおおおおおおおおおおおおおおお!もう一度喰らってみるか!」


「やめて!」

 絵里香が泣き叫びながらススムの前に立ちはだかる。

「もう止めて……あなたの勝ちよ……だから…お願いだから」

 ススムが絵里香の顔をギラついた眼差しで窺う。

「これからは……あたしは……あなただけを愛していくわ……あなたと共に地の果てだってお供させていただきますわ…だからお願いだから……もうこれ以上は……」

「やめろ…絵里香!」

「フハハハハハハハハハハ!聞いたか?田茂ォォ!俺だけを愛していくんだってよ!ええ!?フハハハハハハ!俺の屈辱はキッチリお前に返してやったぞ!田茂ォ!その体では二度と野球は出来まい、晴れ晴れしい過去を抱いて無様に生きていくんだな!」

 言い終えるとススムは絵里香の腰に手を回し、くるりと背を向けた。頰を涙で濡らす絵里香が振り返る。

「絵里香!」

 それぞれ各々のバイクに跨る。ヒロ彦もフラフラと立ち上がり、習慣的に記憶されている自己の所定の位置、ススムの運転するサイドカーに乗り込もうとする。その時ヒロ彦に体をぶつけられマサオは木偶の如く地に転がった。

 甲高い駆動音が公園を悪に彩り駆け抜けていく。ススムの運転するサイドカーの後ろから振り返る絵里香。その顔はどんどんと遠ざかっていく。

「絵里香!」「絵里香!」「絵里香…」

 地に伏しながら叫び続けるマサオの意識も遠ざかっていく。

「絵里香……」

































             ・

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 生活基盤の向上、犯罪率の激減、文明利器のハイテク化、近未来の世界は豊かで明るい。

 その中でも商都ユニバーサル大阪シティの近未来的建築群は訪れる観光客を瞠目させ、そして羨みの深いため息を吐かせる。クリスタルの都市の空中を縦横に繋ぐ透明な阪神高速。環境に優しいハイテクカー。ハイパーループ環状線。そして再整備された御堂筋は至る所に緑があって夏でも涼しさが感じられる。

 市民は優雅でスタイリッシュで思いやりがあって親切だ。幸福度は驚異の120パーセント。歴史的に人間に従属し、いくら振り切ろうとしても追いすがったあの貧困という言葉も使われなくなって久しい。太陽は鮮やかにそして爽やかに人々を遍く照らす。

 カフェテリアで貴婦人がティータイムを嗜む昼過ぎ、時折降って湧いたように変わり者が襤褸を纏って公共の施設などで説法を唱えたりするが、そんな彼らも何処かへ消えてしまう。一体何処へ行ったのだろうか。


 田茂マサオは役所勤めの父と専業主婦の母を持つ、このユニバーサル大阪シティにおいてごく中流の家庭に育った。


 幼少の頃より野球を始め、爾来日を追うごとに目覚ましい才能を開花させた。弱小チームであった市立第四区中学校でエースとして孤軍奮闘し、それが認められ名門パーフェクト・フリーダム学園に推薦入学、それを機に彼の才能は飛翔し、ユニバーサル甲子園で一年生ながらも四番打者として打席に立ちチームの優勝に大きく貢献した。


 それは社会現象を巻き起こし、彼は一躍市民の熱狂の的となった。中学校時代からの交際相手クリスチオーネ・絵里香の存在が明らかになると、マスコミは野球界のプリンスとプリンセスなどと称して祝福した。

 全てが順調だった。未来は夢で溢れていたしそれが世界の真実の姿だと田茂マサオは信じて疑わなかった。彼はマスコミの寵児となったが、浮ついた気持ちも抱かず一心に野球に専念し、そして一人の女性を愛した。マナーを守り、節操を保ち、チームメイトを大切にし、ファンも同じく大切にする教養のある常識人であった。しかし、彼の人生は狂ってしまった。


 あの日、赤い三日月の晩、突然その身に起こった出来事。絵里香に婚約を申し込んだそのすぐ後、唐突なる旧友細川ススムとの邂逅。嫉妬と狂気の渦巻く細川ススムの尋常ならざる野球対決によって彼は再起不能にされてしまった。

 そして、愛する絵里香までも奪われてしまったのである。


 目覚めた彼は何処か分からない施設のベッドに寝かされていた。

 そして彼の目は廃人同様であった。看護されるべき両親の姿も見当たらず、冷徹な顔をした看護婦だけが彼の世話をしていた。

 傷は順調に治癒されていったが、彼の中の喪失感は治癒されるべきものではなかった。あれほど自分を追い回していたマスコミの姿が何故見えないのだろう、また何故父さんや母さんが見舞いに訪れないのだろう、と田茂マサオはふと思ったが、すぐに精神の奥底へと沈み込んでいった。

 そんなある日、冷徹な看護婦が意地悪な笑みを浮かべながら一枚の新聞記事を彼に手渡した。







【パーフェクト・フリーダム学園田茂マサオ酒に酔ってヘッドスライディング。二十二日午後九時頃田茂マサオ(18)はユニバーサル神戸シティ緑地公園にて酒を飲み、付近を徘徊しながら道路に飛び込み車と衝突事故を起こしていた。運転手及び車は無事であったが、事故を起こした田茂マサオは重体。翌日はユニバーサル甲子園決勝であったが、所属チームが起こした事故なだけにチームは連盟から謹慎を申し渡され、急遽出場を取り止める事態となった。「高校生にあるまじき飲酒行為を行い、あろうことか事故まで起こすとは」監督は悔しそうに記者に語った。「良いやつだったのに何でだよ」チームメイトも残念がった。この事故によって田茂マサオは肉体的にも社会的にも選手生命を絶たれたといっても過言ではないだろう。将来を嘱望された選手なだけに周囲の落胆も大きいようだ。】








 虚ろな田茂マサオの眼差しに何の反応が示されないのが面白くないのか、看護婦は忌々しそうに鼻を鳴らし、ぞんざいに朝食を置くと、部屋から出ていった。


 部屋は病院というより隔離施設のようであった。あれから三ヶ月経ち傷はほぼ癒えたが、彼の内部の傷は癒えることがなかった。夏はすでに終わり、秋空が大きな窓ガラスの向こうに広がっていた。外界から閉ざされた部屋は、その大きな窓から見える木々の幹と空だけが景色の全てであった。ここにはテレビはおろか雑誌もなく、この白い空間で顔を会わすのは看護婦だけである。もっとも田茂マサオはもしそんなものがこの部屋にあっても興味を示すことなどなかったであろう。彼の心はがらんどうであった。ただ、しかしながら、その深奥において燻り続ける熾火を彼は見詰めていた。














 それは様々に色を変え、ある時は怒りに油を注ぐ真っ赤な炎であると同時執念の赤い三日月であった。またある時は凍てつき凝集していく青い炎であると同時に復讐の白刃であった。













 そして何か大きな力が精神の深淵から彼を引き上げた。それは彼と一体となり、途方もない怒りを放出させながら彼を覚醒させた。

「うおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

 野獣のような叫びが施設内に響き渡った。廃人同様のこの若者の顔に落書きをして暇を持て余していた看護婦が驚いて腰を抜かした。田茂マサオはベッドから起き上がった。三ヶ月寝たきりであった人物とは思えないほどのしっかりとした足取りで立ち、看護婦のもとに歩み寄る。

「ひいいい!」

 看護婦は鬼のような形相の田茂マサオに肝を潰し、ぱたぱたと手だけで逃げようとするが、窓まで追い詰められてしまった。田茂マサオは獣のように飛び上がった。

 看護婦の悲鳴がこだました。

 施設職員が駆け付けた時にはそこにはもはや田茂マサオの姿はなった。割られた窓ガラスの破片が外に散らばり、その大きな窓ガラスの前で震えながら泡を吹いて失神している看護婦だけが残されていた。


 田茂マサオはあてどなく森の中を走った。

 燃え上がる眼底には細川ススムの薄ら笑いが焼き付いていた。

 憎しみだけが彼を駆り立てた。


 森を抜け街に姿を現した田茂マサオに注意を払う者は誰もいなかった。

 白い病衣を纏ったこの裸足の若者がつい先日まで高校球界の英雄ともてはやされた人間であると知らないみたいだ。あるいは気付かないのだろうか。示し合わせたように誰もが彼を見遣ることもなく、存在しないかのように通り過ぎていく。

 カフェテリアの貴婦人は彼に気付いた風に一瞥したが、何事もなかったようにコーヒーを啜ると友人たちとの話の続きに戻った。

 虚飾の都市であった。

 そこは良い部分だけを絶えず表に見せ、そして何かを隠していた。その核心に近付こうとした者は排除される。そういった不穏な空気感は、田茂マサオもつい先日まで共有していたものであった。それは無意識的なものであったが、ここにきて、田茂マサオが意識的にそれを感じたかといえばそうでもなかった。

 田茂マサオの意識にあったのは細川ススムのこと以外にはなかったからだ。

 田茂マサオはまさに異常者の顔をして街を徘徊した。

 このガラスの街の何処かで息を潜めているに違いない細川ススムの幻影を追って。


「アンタ、田茂マサオだろ?」

 と、突然声を掛けられた時、もう西の空に太陽が傾かんとしていた。

 その男は隻眼でベースボールキャップを被っており、染みやヤニで汚れたスーツを着た胡乱な風采をしていた。その男から漂う臭気は何日も風呂に入っていないことを如実に表していた。失業率0パーセント、したがって浮浪者は0であるはずであった。例え、何らかの手違いでそういった状況下にあっても、それは一過性のものに過ぎず、何処かへ速やかに移動せられ、そして新しい技術を身に付け、身なりも整えられて戻ってくるはず、であった。

 向かい合う二人。

 しばらく互いに沈黙し合っていたが、男の口から発せられた予期せぬ言葉にマサオは耳を疑った。

「細川ススム……」

 男はポソリとこう言った。


「おい!今何て言った?」

 マサオは男に掴み掛かった。

「アンタ、細川ススムに用があるんだろ?俺知ってるぜやつの居場所」

「貴様!何故そのことを知っているんだ!一体何者だ!」

 男はマサオの手を振り解くと、

「へへへ…まあ、俺に付いて来いよ」

 こう言って男はくるりと背を向け歩き出した。

 マサオは驚愕のあまり呆気に取られ男の姿を呆然と眺めていた。


 マサオはただ内心に燃え上がる細川ススムの憎しみの感情によって突き動かされていたに過ぎなかった。だが、この男から細川ススムという言葉を聞いた途端、頭の奥で漂白していた不安定な疑念も、にわかに実像を帯び始めるのであった。

 今まで、自分には知る由もなかった未知なるもの、あるいは秘されているものの存在がこの男の後ろ姿から醸し出されているのである。

 マサオは錯綜する感情の蠢きに動揺しながらも、後ろを顧みずにずんずんと先へ進んでいく男を追いかけた。

 男はマサオが付いてきたと思うやその歩調が急激に速くなり、市民の波をすり抜け赤信号を横断し(官憲に見つかればただでは済まない)、突然煙草に火をつけ吸い出し(これは禁錮二年の刑だ)、地下鉄ハイパーループの駅へと降りていった。

「兄ちゃん、ギャンブルとかすんの?」

 男は切符売り場で切符を買いながら振り返り、マサオにこう聞いた。

「ギャンブル?ギャンブルなんて禁止されてるだろ!ふざけんなよ!それよりススムは……」

 マサオがこう言いかけると、すぐに男の顔は曇りその眼から精彩が失われると、まあまあ、と虚ろな表情でこう言い、さっさと地下鉄ハイパーループのプラットフォームへと降りていった。


 比較的混雑しているハイパーループ内の一つ空いた席を見つけるや否や、男は乗客を押し退け目にも留まらぬ速さでそこに座った。そして腕を組み、満足したように目を瞑った。マサオは男の座席の前に立った。

 優雅な女性アナウンスが発射を告げると、扉が閉まりループは静かに空間移動を始めた。

 マサオはすでに寝息を立てている男を視界の端に捉えながら、窓外の暗黒を見詰めた。

『これはもしかすると罠かもしれない。だが、今の俺はこの男に付いていく他に選択肢はないのだ……』

 そして再び細川ススムへの憤激が沸き上がり、吊り革を握り締めた。ススムによって連れ去られたクリスチオーネ・絵里香。そう、絵里香は連れ去られたのだ。

「絵里香……」

 マサオは苦しそうに呻いた。

 座席から、そんなマサオを隻眼の男は薄眼を開けて窺っていた。


 ハイパーループから地上に出ると、そこは人気のない開けた場所であった。ここで降りる乗客はマサオと男以外一人もいなかった。

 風に乗って海の匂いがする。

 右手の三車線の道路には一台の車も通らない。向かいに建ち並ぶコンクリート建築のビル群が、朽ちゆくまま、まるで墓標のようだ。左手一面は原っぱで雑草が生い茂る彼方に壁がある。

 ここは夢洲という人工島だった。

 百年ほど前まではここにはテレビ局やカジノ、リゾートホテルが建ち並び、相当に栄えたというが、今は見る影もない。

 そしてあの壁の向こうには『新都』があるとまことしやかに囁かれていた。

 百年前に建設中の不慮の事故によって頓挫し、そのままになっているという人工島というが、それにまつわる記録もなく、街の老婆が子供を懲らしめるために仄めかされる類の、口にするのも憚られる不吉なものとされていた。


 マサオがその殺伐とした光景に呆然としていると、男は雑草を掻き分け、壁の方へ足早に歩いていく。遅れまいとマサオも男に続くと、壁の前に官憲が三人いた。彼らが守護するのはこの壁の向こうに抜けるゲートであった。

 男はそのままの歩調で特に臆することもなく彼らに歩み寄った。胸のポケットから見たこともない綺麗な宝石を三つ取り出すと、彼らに分け与えた。

 官憲三人は顔色も変えずにそれを受け取ると、一人が門の横の操作パネルに何かを打ち込んだ。

 するとゲートは開けられ、男は振り返った。

「こっち」

 こう手招きして、男はゲートを潜っていった。


 壁の向こうは砂浜であった。

 その索漠とした砂浜の向こうに海が広がり、背後は海岸線に沿って延々と壁が続いている。南は夢洲を突端として沈み込みながら人工島が点在しそのどれもに高い壁が築かれている。北は神戸の海岸線に沿って同じく壁が物々しく聳えていた。

「何故……」

 マサオは圧倒され思わず呟いた。

「お前さんは何も知らねえんだな……アレだよ…」

 そう言って男は少し南の海上を指差した。

「まさか…」

「そう、そのまさかだよ。アレが『新都』さ」

 洋上に浮かぶ人工島。真偽さえ定かならぬ都市伝説の類に過ぎなかった『新都』が現実に存在したことにマサオは絶句した。そして、それとそれを覆うただならぬ光景に戦慄を禁じ得なかった。

 夕日が逆光になったその異様な黒い陰影をマサオはしばし見詰めていた。


 男は放心したマサオの様子を窺いながら、

「へへへ…本当にあったのかって顔をしていやがるな。まあ、無理もないわな。みんな知らないことになっているからな。タブーってやつさ。百年前に金持ち連中の楽園として建造されたが…」

「……あそこにいるのか?」

「え?」

「あそこにススムが……絵里香が…いるのか!」

 執念の眼差しがマサオの瞳の奥で煌めいた。

「おおう、そうよ…へへへ…まあ、そうこなくっちゃ……あんたには負けたよ。付いてきな」

 そう言うと男は砂浜を歩き出し、しばらくして波に打ち上げられたような奇妙な物体の前で立ち止まった。それは鉄とゴムでできているらしいマサオが見たこともない物体であった。

「乗れ」

 男は乗り込みながらマサオにこう言った。

「何だ?これは」

「ホバークラフトだよ。前時代の遺物さ。『新都』にはこんなんがいっぱい転がってるぜ。まるでおもちゃ箱さ」

 男がエンジンを始動させると、二酸化炭素を排出させ、ホバークラフトは浮き上がった。



























 そこは街と果たして呼べるものであろうか。『新都』、それは内部的に拘泥し深く沈潜する底なしの沼のようであり、世界に放射的に発せられる真実の啓示のようでもあった。

 偶然がそこを生み出したのか、または必然の結果であろうか。

 あるいは、全ては意志によって方向付けられたものか。

 それを完全に結論できるものはこの世にいないであろう。

 われわれはそこにおいて等しく感応するだけの魂ではないか?















 ホバークラフトが人工の砂浜に乗り上げると、男はエンジンを切った。

 マサオは『新都』に降り立った。

 海を隔てた向こうに壁に覆われたユニバーサル大阪シティの光が浮かび上がっている。

 すでに太陽は沈みかけ、赤と紫の溶け合った景色の中に松並木が黒く陰になっている。

 砂浜には夥しくゴミが散乱し、時代物の重厚な四角いテレビや、古くは二層式と呼ばれた洗濯機、スマートフォンと呼ばれた携帯端末、石油を原料にしたコップやお椀など、ペットボトルと呼ばれ世界中の海にばらまかれた透明な液体容器が、一部砂に埋もれ捨て置かれている。

 どれもこれもマサオが初めてお目にかかる代物だ。

 ふと振り返ると、向こうに素肌にスーツという出で立ちの男がリヤカーにそれら遺物を運び込んでいる姿があった。

 この男は砂浜から一つを拾い上げリヤカーに運ぶと、リヤカーから別の一つを持ち上げそれを砂浜に投げ捨てていた。


「一体、何をしているのだろう……」

 マサオは不審に思いながら見ていたが、隻眼の男が足早に歩き出したので、それに続いた。

 砂浜を横切りコンクリートの歪みの激しい堤防を超えると、そこは街であった。

 百年前、新しい都、『新都』はこの大阪湾上に建設されたが、不慮の事故により頓挫し、それから人目にさらされることなく、なかばタブーとされたこの『新都』が、街として存在しているとは?

 しかし、果たしてそれが街と言えるものだろうか。

 それは街の形骸と言った方が正しいのでは?

 朽ちたその街並みに蝟集する人々の姿はほとんどが、目は虚ろ、始終涎を垂らして、太陽の沈む方角に顔を向けている。精気の宿った人間もいるにはいたが、何のためか穴を掘り、そこらに開けられた穴の中に数人が落ちて、その中で、目を虚ろに、涎を垂らして、太陽を追いかけていた。


 道の真ん中で卓を囲んだ身なりを整えた数人は、卓に置かれた泥団子を見詰めながら、

「これが開発チームの答えというわけだな……」

「うむ、これは我が社の社運を賭けた戦いであるぜよ……」

「喜ぶユーザーの顔が目に浮かぶでごわす……」

「各々、万事抜かりなく、手筈が整い次第、攻勢を仕掛けるきに……」

 すると、先程砂浜にいたリヤカーの男がやってきて、今度は街中を物色し始めた。古タイヤを見つけると持ち上げリヤカーに入れる、代わりにリヤカーの中にあった古くはラジカセと呼称されたものを投げ捨てた。

 投げ捨てられたラジカセは放物線を描いて、卓に落ち、泥団子が潰された。

 泥団子を潰された彼らは、目が虚ろになり、涎を垂らし始めた。それから、ゆっくりと顔の向きを変え、太陽の方角で止まり、動かなくなった。


 これが街と言えるであろうか。

 彼らの精神は一見崩壊しているようにも見える。しかし、それは大きな思念の大河がこの街の住人に共有されているようにも感じられた。大河のより大きな流れにいるものはよく動き、その渦中に飲まれていないものは鈍重に感じられるだけなのでは。脈動する精神の中で意思が隆起し、感応が薄らげば、群に還るといった具合に。

 マサオはこの街を覆う特殊なパワーを感じた。これは、この三ヶ月の間病院のベッドでも感じられた大きな流動であり、暗黒から奔流し、そしてマサオの精神を目覚めさせた強い力の正体ではないだろうか。

 われわれは生産性や社会という常識によって一体を保っていると認識しているが、もっと深い領域に踏み込めば、そこはもう崩壊しているように表層的に見えるだけなのでは?

 マサオは柄にもない哲学的な思索を行なっていた。


「着いたぞ」

 隻眼の男が立ち止まった。

 それはクリスタルタワーであった。ユニバーサル大阪シティにも見られるものであったが、年代はかなり古いものだ。恐らくここが建造された年代と同じくして建てられたプロトタイプではなかろうか。しかし、さすがはクリスタルタワーである。百年の風雨に耐えるばかりか、今建てられたとばかりに輝きを放っていた。

 タワーの中は広いホールになっていて、清潔な廊下には塵一つ落ちていない。

 クリスタルタワーは微細な振動によって細かい微粒子や塵を自ら排出するのである。

 歩くとクリスタル同士が触れ合い微かで美しい音色を聞くことが出来た。

「さあ、乗れ」

 男はホールを横切って奥のエレベーターにマサオを誘導した。


『罠かもしれないぞ……』

 マサオは男を睨みつけた。

 男はそんなマサオの様子に気付いて、エレベーターに乗り込みながら、

「取り敢えずは乗るんだな……話は上に行ってからだ」

「なんでもお見通しってわけかい」

 マサオは男の動向を窺いながら慎重にエレベーターに乗った。もはや、元の社会には居場所はない。社会的に抹殺されているのだ、恐れるものなどなかった。

 細川ススムに一矢報いる、それだけが彼の心を突き動かすのだ。

 そして、愛する絵里香にもう一度会いたい、この想いが彼に力を与えるのだった。

 エレベーターは静かに上昇を始めた。


 エレベーターはタワーの頂上に着いた。

 最上階は一転して暗く、それは全体がダーククリスタルを用いて作られていたからだった。

 暗い通路の両脇に仄かに灯る蝋燭の光。

 物音一つしない、奇妙なほど静かで、厳しいほどスピリチュアルであった。

 先を行く隻眼の男の向こうで、柔らかい大きな光が揺らいでいる。

 柔らかい光の中でぬうっと人影が伸びた。

 近付いて見ると、こちらを向いて椅子と机が配置され(光はその机の上に置かれた燭台の光らしかった)、そこに座っていた何者かが来客に気付いて立ち上がったようだ、とマサオには分かった。

 妙に神々しい光の中で、人影は両手を広げ、来客が側まで来るまで待っていた。


「田茂マサオ、連れてきたよ」

 隻眼の男は机の前で止まり、机の向こうの人物にこう言った。

「うん、ご苦労様」

 穏やかな口調でこの人物は応じた。ゆったりとしたローブを着た禿頭の男であった。黒縁の眼鏡を掛けた生真面目な顔、潔癖そうな印象が感じられる。この男は両手を広げた格好のまま田茂マサオに語りかけた。

「とんでもない災難にあったようだね。知っているよ、田茂マサオ君。私がこの街を管理している者だ。皆からは総理と呼ばれている。でも、私はこの呼ばれ方を好まない。気さくに運部と呼んでくれ。それが私の名前だ」

「おい!ススムは何処なんだよ!お前らススムを知ってるんだろ!」

 マサオはいきり立った。

「まあ、そう激昂しないでくれたまえ。君、話は最後まで聞くものだ。先ず、この街について話そう。この街は日本国には属してはいないのは勿論、世界中の何処の国にも属してはいない。この『新都』は百年前にあった大異変によってその存在を放棄され隠匿されたのだ」

 運部はここで一息置くと、再び話し始めた。

「政府は決してわれわれを人目にさらすようなことはしない。この『新都』の周囲を覆うあの高い壁を見ただろう?

マスコミュニケィションはわれわれに関する一切を葬る。この『新都』は世界中のあらゆる地図にも載っていない。戸籍も存在しない(ちなみに君の戸籍もすでに抹消されていることだろう、運部はこう付け加えた)。にも関わらず、国家の中枢の人々はわれわれを黙認し続けなければならない」


 運部は話し続けた。

「理由があるんだ。君にはわれわれ、この『新都』の住人を狂人のようだ、と思わなかったかね?われわれはそれぞれに異能な存在なのだ。一見、形骸のように見えるかもしれないが、それぞれに力が脈動している。百年前から突如として異能児、または後天的な異能者の出現率が異常なまでに増え始めたのだ。そして、そのことを彼らは、中枢にいる人々は恐れている。彼らは為す術もなく手をこまねいているだけに過ぎないのだよ」

 運部は深く憂慮するような眼差しで床を見詰め、首を振った。

「異変を来したものは私の脳が感知し、そして使いを出す。四年前、私は一人の少年の力を感知した。異変を来したものはこれまでの世界への思いはほとんどなくなるか、忘れ去るものだ。しかし、彼は違った。彼は尚も変わらぬ、いやむしろ膨張する感情を……執念を持ち続けていた。それは君への怨讐と一人の女性への情愛だ!田茂マサオ君、その少年こそ細川ススム!彼はこの街にいる!」


「そういうことか!やつは何処にいるんだ!早く俺をそこに案内してくれ!」

 マサオは拳を握り締め、天井に向かって突き上げた。

「だからそう息巻くなと言っているだろう?それに今の君が挑みに行っても万に一つにも勝ち目がないと断言しておこう。まだ力に目覚めたばかりの君では犬死にをしにいくだけのことだ」

「おい…?今何て言った?チカラ?チカラだって?俺もその異能者だって言うのかい?はっはっはっ!これは大笑いだぜ」

「その通りだ田茂マサオ君。私は君の力を感知した。びんびんにね。だから使いを寄越したのだ。数日だ。数日あれば君の潜在的な力をマキシマムまで高めることが出来る。そうすれば勝てる見込みがある。無駄死には嫌だろう?君にはまだ愛すべき人がいる!」


 マサオはハッとした。

「そうだ……絵里香!絵里香は無事なのか!?」

「彼女は絶えず細川ススムの傍に付き従わされている。相当に生気を喪失した様子だが、今のところ無事ではある」

「絵里香……」

 暫時の沈黙。

「…俺にはまだ絵里香がいるんだ。勝てる見込みがあるなら俺はそれに賭けてみる!運部さん、あんた俺のチカラを引き出せると言ったな、どうすればいい?」

 運部の広角が吊り上がりニヤリと笑うと、

「では、青柳さんをここへ……」


 隻眼の男が引き下がり、しばらくして戻ってきた。

 ダーククリスタルの暗い廊下から小動物の爪の音が聞こえる。机の上の柔らかい照明に照らされたその姿は犬、豆柴ほどの犬であった。

 犬であったが、顔は人間のそれであった。その顔は中年男性のもので黄ばんだ歯が二本しかない。それも下の歯、口中の両端で左右対称に一本づつ残っているといった具合であった。

「よっ。田茂やん、聞いたでススムの餓鬼いわしたんねんやろ?わいにまかせとけって」

 この人面犬はそう言うと、尻尾を嬉しそうに振った。

 マサオはどう解釈すればいいのか、複雑な表情でこの犬を見詰めていた。

「青柳さんは意識内で起こるはずの異能な変化が、肉体において如実に表れた特殊な例なんだ。あまり気にしないでやってくれたまえ。そのコーチングは折り紙付きだよ」

「犬もどきじゃないか……」

 マサオは立ちくらみを起こしそうであった。その足元で青柳がマサオのズボンの裾に噛み付いた。

「犬もどき言うな!呆けぇ!」


「青柳さんは向こうの世界では一流のバット職人だったんだ。彼の指導の下、君は先ずバットを作ることから始めるのだ」

 運部はマサオにこう言った。

「何だって?バットを作る?ふざけてんのかよ!運部さんよ!」

 マサオは運部の言葉に耳を疑い、攻撃的な口調で応じた。

「ほんまのことやで」

 マサオの足元で青柳が、あの犬独特の何かをねだる時に見られる切ない顔で彼を見上げた。

「勿論、普通のバットのことではないよ。そのバットとは君の力によって鍛錬された謂わば超能力バットとでも言おうか。そのバットでなければ細川ススムの強力なハイパーマッスルボールに耐えることが出来ない。君もそれは分かっているだろう?バットが粉々になったのだったよね」

「……確かに、あの時、バットは砕け散った」

「バットだけでなく君自身も計り知れないダメージを負った。そう、だからバットと君自身を鍛えなければならない。そしてバットを作るという営みは君自身の中に眠る潜在的なパワーを呼び起こすことにもなる。強力なバットを作ることを通して強力な君自身をも鍛え上げる、謂わば両方から成果を得ようという素敵な方法だろう?」


 マサオは運部を凝視した。

「その言葉信じていいんだろうな」

 運部もマサオを凝視する。

「事態は君だけのものではないのだよ。これはわれわれにとっても深刻な問題なのだ。細川ススムの異常なパワーは止むことを知らず、益々強大になっている。世界に対する攻撃的なエネルギーがこの街の住人をも巻き込み、今にも外の世界に戦争を仕掛ける勢いなのだ。このままでは手遅れになるかもしれない。そうなる前に君の真の力を発揮して、細川ススムの暴走を食い止めてもらいたい。そう言った意味でもわれわれは切実に君の勝利を願っている立場なのだよ」

「……そういうことか……俺にまかせろ、なんて今の状態では言えないけどな……」

「まあ、どっちにしてもあのススムの餓鬼だけはいわしたらなあかん。田茂やん、わいがあんたをみっちり鍛えてやるさかい、安心し、勝てるって。田茂やんのフルパワー見せたら負ける訳ないねん。ほな、田茂やん、行くで」

 くるりと青柳は反転し、ダーククリスタルの廊下を歩いていく。蝋燭の仄かな光に照らされた犬の尻が左右に揺れていた。

 マサオも反転しこの犬に続こうとしたが、二三歩歩いたところで立ち止まり振り返って運部を見た。

 運部は唇を引き結び、うむ、と頷いた。

 マサオもそれに頷き返すと、犬の後を追った。












 マサオたちが去った後も、そのダーククリスタルの廊下の先を、運部と隻眼の男は見詰めていた。

「細川ススムのその執念に唯一対抗できるもの、それはまた君の執念なんだ……田茂マサオ君……」

 運部は呟いた。ダーククリスタルの彼方に向かって。















 クリスタルタワーから出ると、外はすっかり闇に包まれていた。

 星屑散りばめた夜空の下、マサオは手渡された斧で大木を切り倒していた。

 葉々の間から下弦の弓形月が覗かれた。それは蒼白く凝集され白刃のように研ぎ澄まされていた。三ヶ月前の赤い燃えるような三日月でなくて、いわゆる逆三日月であった。

 心なしか木を打つ田茂マサオの体から青いオーラのようなものが立ち上っている。

 丘の上からマサオを見下ろす人面犬は思わず言葉を漏らした。

「……素晴らしい」


 夜は深まり、リヤカーの男が海辺の街を往復し運んでは捨て、捨てては運んでの作業を止め、とうとう眠りに就いた頃、シュッシュッと木を削る音が聞こえる。

 暗闇の中から時に怒声が上がり、時に叱咤が飛び、また時に慰めの声が聞こえてくる。

「あかん、あかん、何でそうなんねや!もっと立体的に想像してやらんと…一点ばかり見てるからそんな不細工なバットなんねん!」

「ええか田茂やん、このバットはいずれ田茂やんの体の一部みたいになんねんやで、もっと気持ち良う作ったらんと……」

 穴の中で数人の住人が折り重なり眠るその頭上に諭すような言葉が通り過ぎていく。

「憎しみだけではあかんねや。なあ、田茂やん。絵里香ちゃんに対する愛、その真心ももっとバットに反映したらんと……」

「あかん!何べん言わせんねや!憎しみだけではあかんねや!それではこのバットが暗黒の死のバットになってまうやろ!それじゃ、ススムの餓鬼と一緒や!」

「そうや!そうや!そこを掴むんや!その意気やで、田茂やん!」




 日が昇り、そして日が沈んだ。




 運部の計らいで用意されたクリスタルタワーの六十三階の部屋は失敗作のバットで埋め尽くされていた。








 日が昇り、そして日が沈んだ。そしてまた日が昇り、日がまた沈む。それから幾日過ぎた頃であろうか。







 クリスタルタワーの六十三階の部屋は張り詰めた空気で満たされていた。簡素な机の上で人面犬が座り、バットを削る手つきを厳かにも見詰めている。

 バットを削るその手から神秘的な光が浮かんでいた。いや、手だけではない、田茂マサオの体全体から、蒼白い神秘的な光が発散されているのだ。

 それは柔らかい愛の衣であると同時に、頑なで凛とした力強い鎧のようにも見えた。マサオの顔から流れる滝のような汗。

 青柳は息を呑んだ。

 マサオの手に握られた白いバット。

 汚れを知らない幼児の柔肌の如き神秘的なバット。無限の可能性がそこに秘められていることが一瞬で察知される神聖なるバットであった。

 マサオは試しに振ってみた。すると、忘れかけていたホームランの感触が手に伝わった。懐かしく、それでいて新しい予感が感じられた。

「それだ!」

 青柳は勝負師の目付きでこう言った。

「出来た……」

 マサオはその場に崩れ落ちた。



































 スタジアムは異様な熱気に包まれていた。


 ゾンビの如くに街の住人がその力に誘発されスタジアムの周囲に群がっていた。皆一様に顔面の中心にエネルギーが凝集された感があり、その顔はススムのキャッチャー、ヒロ彦にそっくりであった。彼らは石ころやゴミを浮遊させたり、破裂させたり、異能な力を顕現させている。それは殺気すらも感じられ、危険な兆候が表れていた。


 スタジアムは百年前の『新都』建造と同じくしてオリンピック誘致の案があり、並行して建てられたものである。異変と同時に八割方優勢であったオリンピック誘致も廃案となり、『新都』と同じく隠蔽された負の歴史であった。細川ススムはそこを根城とし、日に日にパワーを増大させながら、その内部的な支配力を高め、一つの大きな流れを形成しながら住人を洗脳し、刻一刻と外の世界への野心を募らせている。もはや一刻の猶予もない、と運部は最後にそう言った。


 朝霧の煙る中、田茂マサオと人面犬青柳はスタジアムへと続く道を歩いていた。その手には昨晩完成した真新しいバット、そして真新しいユニフォームを身に纏って。

 ユニフォームはオリンピック誘致の際、試作されていたらしい代表のユニフォームであった。その胸には英語でJAPANのロゴマーク。試作段階のためか背番号は記されていない。クリスタルタワー内の以前スポーツメーカーのオフィスであった場所から見つかったものだ。


 スタジアムの半ば崩れたコンクリートの通路からも、狂気の演説は聞こえてくるのであった。

 荒れ果て枯死した芝生の上、廃品を集めて作られた玉座から立ち上がり声を張り上げる細川ススムの姿。そしてその傍ら、もう一つの玉座に感情の喪失したかのような虚ろな絵里香の姿があった。

「皆、よく聞けぇい!俺たちの怒りは頂点に達した。俺たちを排斥し、隔離し、虐げる外の世界の連中をどう思うか!然り、許せん!もはや絶対に許せん!俺たちがこんな小さな島であってはならない!俺たちこそがこの地球上の何処であっても住処とすべきなんだ!俺たちこそが新しい支配者なんだ!そうだろうお前たち!俺たちの怒りはもう誰にも止められん!」

「おおおおおおおおおおおお!」

 細川ススムの檄に子分どもは興奮し声を合わせ同調する。三ヶ月前よりも子分どもの数は膨張していた。彼らは比較的精神の明確な自我を保った連中である。以前はこの街で運部の力の作用で平穏な生活を送っていたが、ススムの意思の力がそれを超え始めたことにより感化されてしまい、そしてススムの執念が伝播されてしまったのである。いずれにせよ、自我の保った異能者、自我のない異能者諸共、ススムの強力な力に引き寄せられつつあるのであった。

 そう、今スタジアムは異様な熱気に包まれていたのである。


「感じるだろう!この力を!これは先人の怒りでもあるのだ!百年前、この『新都』に突如として現れた男の怒りだ!お前たちも知っているだろう!あの伝説の男を!たった一人でこの『新都』を壊滅させ、少なくとも百年間、俺たちの居場所を築いた男の意思だ!彼もまた狂おしい怒りによって力に目覚めた!しかしたった一人だった……」

 細川ススムの演説は憑き物に憑かれた様に激しく、身振り手振りを大仰に、時に神妙に繰り返された。

「彼の怒りは俺のものでもある!彼の怒りはお前たちのものでもある!そうだ!俺たちは選ばれた民なのだ!破壊、そして混沌の後、俺たちがこの世界の支配者となる!先ずは政府の手先の如き運部一味を血祭りに上げることから始めようではないか!」

「おおおおおおおおおおおお!」


 その時である。立ち並ぶ群衆の中を何かが一閃もの凄い速さで突き抜けた。

 それは細川ススムの顔面を捉えたかに見えたが、察知したススムによって間一髪のところで掴み取られた。

 それは白球であった。

「誰だ!」

 動揺する群衆の中から声が上がった。

「お山の大将気取りだな!ええ!ススムよ!」

 その声を聞いた途端、絵里香の虚ろな眼差しににわかに生気が宿ると同時に立ち上がり、声の主を探した。

「お前は…!」

 田茂マサオが群衆を掻き分け、颯爽と前に躍り出る。

「田茂ォオォ!貴様何故ここに……!」


 クリスチオーネ・絵里香は田茂マサオに再び相見えた感動に手を口に当て、目に大粒の涙を溜めていた。

『……あの時、やはり殺しておくべきだったんだ……』

 それを見た細川ススムは何もかも崩落した、途方もない失望の表情を浮かべ、心にそう念じた。

 ススムの手に力が込められる。握られた白球が彼の強力な握力で歪んでいる。

 ススムの体から強烈な勢いで赤黒い不気味なオーラが立ち上っている。

「ケリをつけようぜ!ススムゥゥゥ!」

 マサオの体からも迸る蒼白いオーラが立ち上っていた。


 太陽が東の空を黄金に染めていた。

 静まり返ったスタジアムは、中断された熱狂が縹渺とし、内部的な奔流が停滞したことで、ゾンビの如き群衆の動きがピタッと止まっていた。

 自我の保った一部の子分が固唾を呑んで対峙する二人を見詰めていた。

 沈黙した中にヒロ彦の譫言だけが泳ぐように漂っている。マサオの後ろで腰を落とし、来るべきハイパーマッスルボールの到来を待っていた。

「ああ……マー君どうして?これじゃあの時と一緒じゃないの……あたしはあなたが生きていたことだけでよかったのに……」

「田茂やんを信じたってや、絵里香ちゃん!今の田茂やんはなあん時の田茂やんとちゃうねんで!」

「あなたは……!」

「わいは青柳や!わいは田茂やんの師匠みたいなもんや!犬みたいななりしてるけどあんたらの味方やで!ススムの餓鬼があんたに横恋慕したのが過ちの始まりや!田茂やんはな、深く傷つきながらもわいとの猛特訓で本来の力に目覚めたんや!見とってみ!絶対勝つって断言したるわ」

 絵里香は青柳を見、それから再び二人に視線を戻した。そして、

「マー君、頑張って…」

 と小さく呟いた。


 ススムの顔中の血管が浮き立ち、憤激で鬼のような形相をしている。

 マサオもバットを構え、投球のタイミングを計りながら凝視している。

 蒼白いオーラと赤黒いオーラがうねりながらスタジアムの上空に巻き上がる。


 スタジアムの観覧席に一人運部の姿があった。

 哀しそうな顔で二人を見下ろしていた。


 ススムは片足を大きく上げ、振りかぶった。

「きゅおおおおおおおおおおおおおおおおお!喰らえい!ハイパーマッスルボールゥゥゥ!」

 ススムの手からボールが放たれた。

 ど真ん中。ボールを捉えるのは簡単だ。しかし、白球がまるで筋肉の塊の如くに膨張、巨大な肉塊となり、赤黒い血の涙を流しながらマサオに迫り来る。

 マサオがバットを振る。

 赤黒いオーラと蒼白いオーラが衝突し合う。二つの力は拮抗し、もの凄い波動が群衆を吹き飛ばす。

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおお!飛べぇぇぇ!」

 そして、せめぎ合う二つの力が極点を超えた時、時空が爆ぜた。




































『あれ?お前、この前引っ越して来たやつだろう?』


『え?』


『何で泣いてんだよ?いじめられたのか?』


『……』


『お前、何て名前だよ?』


『僕……僕は細川ススム……』


『そうかススムか。俺はマサオ、田茂マサオってんだ』


『マサオ……』


『そうだマサオ。おいススム、野球やるから来いよ。今メンバー足らねえんだ』


『え?野球?いいの?』


『いいに決まってんだろ!友達なんだからよ』


『え?トモ……』


『そうだ。友達……』


『トモダチ……』




















「ぐはぁああああ!」

 白球がススムの胸にめり込んでいた。

 血反吐を吐いてススムは倒れた。

 子分たちは蒼然としている。

 絵里香、青柳もショックで動けなかった。

「ススム!」

 マサオはススムのもとに駆け寄った。マサオも動揺を隠せなかった。拮抗した二つの力だったがわずかにマサオの力が上回っていた。このわずかな力の差がマサオのバットにボールの芯を捉えさせたのだ。そして、ボールが大きく伸び上がろうとした時、ススムの体が宙に浮いた。まさに鳥のように羽ばたいたのだ。

「フフフ……俺の負けだ…マサオ……お前がホームランを打とうとしていたのは分かっていた……フフフ……このボールを見ろ」

 そう言ってススムは胸にめり込んだボールを掴み出した。

「ぐふ…!……ボールは俺の手の中にある。お前はアウトだ……フフフ……俺は勝負には負けたが試合には勝ったのさ……」

「ススム…」

「マサオ……俺はこの数年間、狂気の中にいた……憎しみと怒りで張り裂けそうだったんだ……一体、何が俺に狂気を見せていたのか……世界?いや、もっと真のものだ……言うなれば俺にこんな力を目覚めさせたその裏側と言うべきか……」

 ススムの赤黒い涙が透明なものへと変わっていた。

「俺は絵里香さんの想い出が忘れられなかった……お前たちには本当に悪いことをしたと思っている……俺は今日再びお前と相見えた時すでに負けを悟っていたんだ……」

「ススム…?」

「……嬉しかったんだぜ……俺は…あの時…野球に誘ってもらえたこと……が……」


 ススムの死に顔はまるで眠るように安らかであった。

 絵里香も青柳も言葉が出なかった。

 子分たちも項垂れていた。

 一匹の蝶がひらひらと舞っている。ヒロ彦は立ち上がるとフラフラとそれを追いかけ始めた。

 スタジアムに蝟集した群衆も、ススムの束縛から解かれた今、再び内部的に安定し、奔流であったものが、せせらぎになり、思い思いのことをし始める。恐るべきパワーの内在した住人たちは今や散開し、元のゆったりとし且つエキセントリックな生活に戻っていくのであった。


 マサオはススムの亡骸を抱えると、スタジアムから歩いて出て行く。絵里香、青柳、またススムの子分であった者たちもまた後に続いた。誰も言葉を発する者はいなかったが、一つになったせせらぎが彼らの内部には流れていた。街の住人も行く先々でその集団に加わっていった。

 マサオは『新都』の突端にある岬で穴を掘り始めた。街の住人でひたすら穴を掘ることに喜びを見出す者が嬉々としてその作業に加わった。



















「百年前…」

 運部は芝生の上に残された廃品で出来た玉座をぼんやりと見下ろしていた。

「百年前……憤怒の権化たる男が一切を破壊し尽くそうとした。彼は私の兄だった。私は兄と戦った。そして私が勝利した。それから異能な力に目覚める者が激増していった。細川ススムもまた、兄と同じ怒りを抱いた。狂気の渦中でその身諸共一切を滅ぼそうとしたのだ……いや、もしかすると彼らは卵の殻を割ろうとしたのか?それとも何らかの意思が彼らに卵の殻を割らせようとしているのか?……いずれにしろ、われわれはひよこに過ぎない……ああ、私は長く生きすぎた……」

 運部は誰もいなくなったスタジアムの観覧席に一人座り、風に当たっていた。

















 マサオは穴の中にススムを横たえると、土を被せ、穴を埋めていった。

 最後に土を盛られたススムの墓に神秘のバットを突き立てた。

 皆、太陽の光が降り注ぐ空の下、俯いて、彼の死を悼んでいた。

「俺は勝負には勝ったが、試合には負けたのだ……」

 マサオの手にはススムが最後に自らの体で受け止めた白球が握り締められていた。

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