326(ミツル)
逢魔が時。あるいは、真夏の陽炎のつくった幻。
車から降りると、夏が身体を包んだ。
頬が焦げるように熱い。汗が、またたく間に全身から噴き出す。
耳鳴りのような、セミの合唱。
もう夕方だってのに、今年の夏はやけに暑い。
「それにしても…懐かしいな、ここ。」
ミツルは、秋の教育実習に備えて、母校に挨拶するため帰省している。その気まぐれに、昔住んでいたボロ団地に立ち寄ったのだ。
郷愁。
寂れた小麦色のコンクリートに、夕焼け色に成り果てたベランダの柵。
芝生…ではなく、雑草の原っぱが青く薫る。寝転がったり、バッタを捕ったりして遊んだなぁ。
あの広場のナタマメ、かじって、不味い目に遭ったっけ。
あそこのスーパーには、初めてのおつかいで食パンを買いに行ったな。
ウルトラマンみたいな色のでっかいタワーが、団地に混じって生えている。給水塔なのだと、大人になってから知った。
せっかくだから、学校までの道も確認しておこう。
通学路になっている大きな道ではなく、子どもの頃にこっそり見つけた近道。裏山の農道を目指す。
雑木林を、涼しい風が鳴らす。
傾いた太陽が、ナスやキュウリの畑の傍に、たくさんの木陰をつくる。
そこに、小さな影があった。
よく見ると、低学年くらいの少年が、しゃがみこんでいるのだ。
「きみ、大丈夫か?」
迷子や熱中症だったら大変だ。
ミツルは近づいて声をかけた。
振り向いた少年は、顔を涙で腫らしていた。
警戒されないよう、笑顔をつくって、近くに座り込む。
「どうしたんだ?どこか具合が悪いのか?」
少年が首を横に振る。
「じゃ、泣きたくなることがあったのか?」
今度は、動きを止めて固まる。
図星みたいだ。
「そうだよな、泣きたくなる日もあるよな。そうだ、お兄さんがいい物をあげよう。」
ミツルはリュックから折り紙を出すと、慣れた手つきで何かを折り始めた。ひし形の先端をハサミで切り取り、コーンアイスのような形にする。
「さぁ問題。このコーンアイスは、花に変身します。さて、何の花になるでしょうか?」
小学生なら、ほとんどみんな知ってる折り紙のはず。
だけど、少年は首をかしげるだけ。
最近の子は、折り紙なんてしないのかもしれない。
「正解は、アサガオです!」
コーンアイスのアイス部分を広げると、青い花が咲いた。
少年の表情が、和らぐ。
「おれ、アサガオ大好き!夏休みになるとさ、みんながたくさんのアサガオを見せてくれるんだ!」
「そうか。このアサガオはきみにあげよう。そのかわり、出来れば泣いてた理由を教えてくれると嬉しいな。」
「うん…」
警戒を解いた少年が、ミツルに耳打ちするように近づいた。
「最近、弟たちが出来たんだ。みんな、弟たちに夢中で、おれのこと、もう、要らなくなったみたいで……」
声に涙が混じる。ズズ、と、鼻をすする音。
「ダメだって分かってるのに、つい弟たちのこといじめて、みんなに怒られて…おれ、もっと嫌われたよな……」
「そうか、悔しいな。寂しくて悲しいよな。昔の俺みたいだ。」
えっ、と、少年がミツルの顔を覗き込む。
「懐かしいな。俺もきみくらいの歳のとき、双子の弟が出来てさ。親たちはそっちに夢中。そりゃそうさ、双子だし、赤ん坊って手がかかって大変だし、可愛いし。今なら親たちの気持ちも分かるけど、あの頃は辛かったなぁ。」
そう。ただただ、辛かった。
今なら、その感情が寂しさ、悲しさ、嫉妬、憎しみ、悔しさ…自己分析も出来る。でも、あの頃の自分は、わけのわからないフラストレーションで、常にムシャクシャしていた。
弟たちに意地悪をしては、よく怒られて、裏山で日が暮れるまで泣いてたっけ。
「…っ?」
ふと、気がついて、
「きみ、そういえば名前は?」
そう、尋ねると、
「おれ、ミツルっていうんだ。」
不思議と、驚かなかった。どちらかというと、「やっぱりな」という印象だった。
「…そっか。ミツルくん、大丈夫だよ。辛いのは、今だけだから。しばらくしたら、きみは家族より夢中になれるものをたくさん見つけるだろう。もっと大きくなって、家族に親孝行したくなる頃には、弟たちは立派になってるよ。でかくなっても、おにーさん、なんて懐いてくれてさ。ちょっとキモいくらいさ。」
「なにそれ、笑っちゃう!」
ミツルは、小さなミツルに折り紙のアサガオを手渡して、背中を叩いた。
「おにーさん、ありがとう!おれ、家に帰るよ!」
「ああ、気をつけてな。」
夕日の中、
団地の方に、小さな影が消えていくのを、
見送った。
夕方は、たそがれ時。
語源は、誰そ彼時。別名、逢魔が時。おかしなものに出会っても、おかしくない時間。
団地の郷愁は、
黄昏の故郷は、
夏の陽炎は、
過去の自分という幻を呼び込んだのかもしれない。
そう、
思ってたんだけど。
秋の実習。やっぱり半端なく疲れる。
やっとたどり着いた金曜の放課後は、疲労困憊、神経衰弱。今にも倒れそうだ。
「そうそう、ついにミツルくん解体されちゃうね。」
ざわつく職員室で、先生同士の雑談が耳に入った。
「先生、それ、なんのことですか?」
「ああ、岩田の団地よ。所在地が岩田326だから、みんなミツルくんって呼んでるの。」
あなたのことじゃないわよ、と、指導教官の先生が笑う。
「近くに新しくアパートがたくさん建って、もうミツルくんは無人だったのよ。でもね、怖いことに、アパートの建設工事で度々心霊騒ぎがあってね。ミツルくんの呪いだ!なーんて言われてたの!」
「お盆過ぎたあたりから、騒ぎがパタッとおさまったから、ミツルくん成仏したのかもね。ほら、明日から取り壊しだって。」
学年主任の先生が、プリントを一枚くれる。団地の取り壊しと児童の立ち入り禁止に関する文書だ。そういえば、昨日これ配布してたな。
「ありがとうございます。」
ミツルは、渡されたプリントを見つめた。
穴が空くほど。
疲れで定まらない視線で。
昔住んでいた、その古い団地の住所を。
次の日の朝、ミツルはまた、その団地の前に来ていた。
原っぱに、冷たい朝露。
別れの涙のように、足首をつたう。
その団地の建物にはトラロープが張られ、重機と人が集まっている。
覗き込んで、驚いた。
鈍色の、ざらついた階段の隅、
よく三輪車を違法駐車しては怒られた、あの辺り、そこに、
くしゃくしゃになった、青い、折り紙のアサガオ。
ああ。たしかに、きみは、
団地のミツルだったのだ。
「すいません。お疲れ様です。」
工事を仕切る監督らしきおじさんに、栄養ドリンクのケースを渡す。おじさんが帽子を外して礼をする。
「昔、ここに住んでた者です。見納めにきました。」
「そうか、そうか。ありがとうよ。団地の霊とやらも、喜ぶべ。」
「解体された後のガレキって、そのあとどうなるんですか?」
ミツルの心配を察してか、おじさんは優しく笑う。
「安心しろ、どっかに棄てたりしねーから。コンクリートガラはな、粉々にして、リサイクルされるんだ。新しい建物や、道や、駐車場になるぞ。」
「そうなんですか。ありがとうございます。」
建物が布で覆われる。その中で、重機が轟音を立てる。灼けた埃の匂い。
外からは見えないが、コンクリートが重機に咀嚼されるのを感じた。
ミツルは、祈るように両手を合わせた。
願わくば、リサイクル…生まれ変わった先が、夢中になるくらい楽しい場所になりますように……
あれから7年。
実家近くの学校で教員をしていたミツルは、異動を機に実家を離れた。
一人暮らし先に選んだのは、新しい勤務校から程よく離れた住宅地。家賃の安い新しめのアパートを見つけたのだ。
新しい環境にも慣れ、少々五月病気味の、ある朝。
アパートの駐車場のフェンスが、新緑に染まっているのに気がついた。
「アサガオの…ツル?」
「そうなのよ。このアパートね、建った直後からあちこちにアサガオが生えるのよ。」
管理人らしき婦人が、雑草を抜いている。
「夏休みになると、小学生がアサガオを学校から持ち帰りますから。タネが落ちたんでしょう。」
「なるほどね。この辺、子どもが多いから。」
その通り、あちこちのアパートや一戸建てから、歓声と共に小学生が飛び出してくる。
もう、登校の時間か。
きっと、夏休みには、この辺はアサガオの植木鉢だらけになるだろう。
「おれ、アサガオ大好き!」
「え…?」
どこかから、声が聞こえた気がした。
「そうか。そうだよな。やっぱり、ミツルなんだ!」
だって、このアパート、
「3丁目2-6 モーニンググローリーA棟」っていうんだ!!
住人の1人として、ここを幸せな住宅地にしてやろう。
そして、
俺に家族が出来る頃には、このミツルも、立派なおにーさんになってるだろうな。
そんときゃ、また笑ってくれよな。
フェンスのアサガオの小さな蕾。
朝日を受け、開花を迎える。
青空のような、笑顔が咲いた。