あくまさま
高校時代の習作です。
あれを見たのは小学生の頃だっただろうか。
幼い私には大人には見えていないものが見えていた。大人たちにそれを伝えても「子供の妄想」とあしらわれた。今はもう見えなくなってしまったのはきっとその時のことをもう「子供の妄想」だと自分が思い始めてしまったからだろう。
けれども、私はあの時見た優しい悪魔のことを忘れたりはしない。そう、私が幼いころ見たものは正真正銘の悪魔なのだ。
牛の頭、筋骨隆々とした肉体、黒光りするコウモリの翼、禍々しい爪、その姿はまさしく“悪しき魔”であった。それはある時私が交通事故で入院しているときに見た。悪魔は隣のベッドにいる男と話していた。隣のベッドで寝ている男の人は酷いけがを工事現場で負ってしまったらしく、生きているのが精一杯なほど衰弱していたが、新しい医療技術で手術が成功して退院が決まるほどに元気になっていた。そんな彼の前に悪魔は現れた。彼にも悪魔は見えていたのだろう。なぜなら私はその悪魔と目を合わせて会話しているのを見たからだ。
悪魔は聞くだけで身の毛もよだつような恐ろし気な声で、彼に語り掛けていた。
「君は不幸だ。君は同僚の失敗で事故に合い、下半身の神経は切断され、歩くことすら叶わなくなった。君は命を失わずに済んだが、君が願っているであろう、君の娘と共にその足で散歩をすることは二度と叶わない上に、そんなからだではもう今の仕事も出来ないだろう。あまりに不幸だ。私はそんな人間と契約がしたい。君の願いを聞き入れる代わりにほんの少しの寿命を貰いたいんだ。なに、私が貰う寿命は一年どころか一か月もない。せいぜい数日だ。どうだ、乗ってみるか?」
悪魔は語り掛けに、男は静かに涙を流していた。悪魔であっても彼にとっては天使に見えたのだろう。藁にもすがるような思いで男は悪魔に願いを告げた。
あくる日、私の隣にいた男は退院し、動かないはずの足で歩いていた。医者は目を丸くして驚き、ざわついていた。同じ部屋に入院していた人たちも慌てふためくなか、私だけはあの悪魔に願いを叶えて貰ったのだなと理解した。
しかし、その男は次の日、亡くなった。
またある時の話である。
学校から帰るときのことだった。私の小学校は決して治安のいい場所にあるとは言えず、ガード下にはホームレスが蔓延っていた。段ボールで家を作り、時折ほかのホームレスと会話をしつつ、人らしくない酷い生活を続ける彼ら。そんなホームレスたちが知らぬ間に減っていることも珍しくはなかった。当時の私は「住む家が見つかったんだ」と思っていたが、今考えてみれば死んでしまったか、ヤクザかなにかにも使われてしまったのだろう。そんな現世の地獄に本物の地獄からやってきたであろう悪魔が姿を現した。
悪魔が語り掛けたのは髭と髪は伸びきり、服は汚れきってボロボロで、ぐしゃぐしゃの白髪にはシラミだらけ、まともに食事も出来ていないのか体がやせ細った老人だった。きっと身寄りもいない年寄りがお金も財産もなくしてこう成り果ててしまったのだろう。
悪魔は老人に語り掛ける。笑っているとも怒っているとも悲しんでいるとも取れるような声音で語り掛ける。
「君は不幸だ。いつまでも結婚することも出来ず、親も死んでしまい、仕事も会社が潰れてアテがなくなってしまった。身寄りもいない。仕事もない。借金で家や財産も失った。だからこんな地獄よりも地獄な場所に君は暮らしている。あまりにも不幸だ。私はそんな人間と契約がしたい。君の願いを聞き入れる代わりにほんの少し、寿命を貰いたいんだ。そう、ほんの少しだ。そう沢山は貰わないよ。君もこんなところでカラスにつままれるゴミのような生き方はしたくないだろう?乗ってみないか?」
男は二つ返事で悪魔の提案に乗った。高らかに笑いながら大声で巨万の富を願った。
あくる日、学校に向かうと交差点にここいらではあまり見ない真っ黒な高級車が止まっていた。よくその運転手を見てみると、それは昨日の老人だった。髪や髭を整えてはいたが、間違いなくその顔はあの老人だった。老人は高笑いしながら助手席に若い女性を乗せ、煙草をふかしている。自分は成功者である、と全身で表現しているともいえる風貌に変わり果てていたのだ。私は本当に彼が巨万の富を手に入れたのだなと昨日見た光景を思い出し、理解した。
そして交差点が青に変わる。老人は勢いよく車を発進させたその時、左からかなり速度超過しているであろう白い大衆車に勢いよく激突され、耳を劈く爆音と共に高級車は炎に包まれた。
悪魔はそれを見ていた。笑ってもいない。悲しんでもいない。その表情は入院していた男や、ホームレスの老人に語り掛けた時に似ていた。私は悪魔が去ってしまう前に、あなたはこうなることがわかっているのかと聞いた。悪魔はこちらに振り向き、巨躯を小さな私に合わせる形で屈め、猛々しい牛の頭を私の顔にぐっと近づけて答えた。
「悪魔に自分から話しかけるだなんて随分と縁起の悪いことをするお嬢さんだ。来世まで呪われてしまっても私は何もできないよ?でも聞かれたことだから答えよう、知っていたとも。私は最初からこうするつもりで人と契約したんだ。悪魔は人の命を食らうものだからね。」
男や老人に語り掛けた声よりも優しい声音で語り掛けた悪魔に私は今話している私から寿命はもらわないのかと聞いた。すると悪魔はほんの少しだけ笑みを浮かべた後に答えた。
「悪魔だって無作為に人から命を奪っているわけじゃない。奪う頃合いの人間とそうでない人間がいるんだ。君はまだ命を奪う人間ではないよ。質問はここまでかい?なら、悪魔と会話なんてしてないでお家に帰るんだ。」
悪魔はそう言って屈めていた体を元に戻し、黒光る翼を向けて私の前から去ろうとした。でも私は肝心なことが聞けていなかった。悪魔から感じていた嘘。いや、嘘はついていなかった。でもその言葉のイントネーションには感情についた嘘が絶対にある。童心ながらそんなことを思った私は悪魔に契約した人間は皆、もう寿命が尽きる寸前だったんじゃないかと前よりも大きく、強気な声で聞いた。
悪魔は振り向き、牛の頭を少しだけしかめ、落ち着いた声音で私に語り掛けた。
「私は悪魔だ。人間に少しだけ命を奪うと嘘をついて何十年も奪っているかもしれないだろう?悪魔は残酷で凶暴で自分のためならどんな卑劣な嘘もつける悪の化身だ。私はそういう存在なのだ。」
悪魔はぶっきらぼうに言葉を吐き、再び私に背を向けた。嘘だ。そんなはずはない。悪魔は嘘をついている。だって本当に卑劣な存在ならば願いを叶えてあげる必要もなかったのだ。私は叫んだ。悪魔の嘘を。自分の良心に向き合えない嘘を。
「・・・全く、子供はやかましくて世話ない。そうだ。私が契約した人間は皆寿命が一週間にも満たなかったものたちだ。そして彼らは皆、どこまでも深く絶望した人間たちだった。私はそんな人間を見ていられなくて助けたかった。でも悪魔は一方的に人に“与える”ことは出来ない。なにか対価が必要になる。悪魔でありながら私は自己の中に良心が生まれてしまったのだ。だから死の間際にいる人間に最高の幸せを与えてから死を与えられるようにしようと考えたのだよ。笑いたまえ、悪魔の癖に人に憐みの感情を抱いてしまったのだ。」
私は笑わなかった。こんなにも優しい悪魔を笑うことなんて出来なかった。悲しそうな顔をしながら背を向け、今度こそ去っていく悪魔に私は私の死の間際にも来てくれるかどうか問いを投げた。
悪魔は黒い翼を広げ、飛び去りながら天使のように優しい声音でこう言ったのだった。
「それはお嬢さんが私の見た本物の地獄よりも酷い光景を見ている時だろうね。」
幼いころの記憶だ。本当に優しい悪魔を見たのかも知れない、これは全て童心が生んだ妄想の産物なのかも知れない。けれども私は“人を憐れむ”という立派な悪の下で己の義を通した優しい悪魔を絶対に忘れることはない。神様や天使よりも人に一時の幸せを与え、出会った人間には救世主であるともいえる優しい悪魔に深い敬意を込めて『あくまさま』と私は呼びたい。