アレから始まる恋物語 第一話
ほとんどの部活動が終了し、帰宅ラッシュの過ぎた時間。藍色の空のもと、生徒の影はまばらになっている。運動部のかけ声も、ブラスバンド部の演奏も、聞こえない。
新聞記事の仕上げに手間取った僕は、一人、靴を履き替え昇降口を出た。街路灯に沿って歩き、学園の端っこにある公園に差し掛かった。
ふと周囲を見渡す。
静寂に包まれ、薄闇が広がっている。誰もいないし何もない。
そう思った矢先、トイレの横を、何かが動く。
一瞬、驚いて足を止めるが、見知った姿に安心する。藤咲雅、クラスメイトがそこにいた。黒髪ショートヘアのツーサイドアップを揺らす。
咄嗟に声をかけるが、届かなかったらしい。彼女は、そのままトイレの向こうへ歩き去る。
公園の隅っこに何の用事があるのだろうか。
無意識のうちに、彼女を、追いかけていた。秘密のにおいが、香ったのかもしれない。
トイレの横を通り抜ける。奥の茂みに彼女の背中を見つけるが、すぐに木の陰に隔てたれた。
好奇心に押され、後に続く。
少し歩き、街路灯の光も心許なくなったところで、彼女を見つけた。
目を細めて遠くを見つめ、「んんっ」、と情欲をそそる声とともに半端な笑みを見せる。
「藤咲、何やってんの?」
声をかけた直後、しゃがんでいた彼女はこちらを見上げ、目を見開いた。
「ふぁあ、え? ゆ、唯川くん!? ちょ、ちょっと待って!」
手をひらひらとはためかせる。
思考がまとまっていないのか、言葉が詰まった様子で、おどおどとしている。
こんなところで、いきなり声をかけられれば、驚いて当然か。
「驚かせてごめん。こんなところに入って、何してんのさ」
「こ、これには訳があるんだよっ。も、もう少しで終わるから!」
「終わる? 終わるって、何が?」
「いやっ、そのっ。今日は月がキレイですね……」
「何故話をそらすんだ?」
ゆっくりと近づき全身を捉える。
捉えると同時に、世界が止まった。そう思えるほど長い3秒が訪れる。
僕から逃げるように、彼女はしりもちをついた。
――1秒。
その少女から放たれる放物線が、水面を作る。
――2秒。
潤んだ瞳と視線がぶつかり、状況を理解し、一歩後ずさる。
――3秒、
「おしっこだああああ!!」
「見られたあああああ!!」
僕たちは叫んだ。
何やってんだよとツッコむ余裕はなかった。とっさに叫んだが、次の行動が思い浮かばない。こういう時、一体どうすればいいんだ? 疑問は膨らみ、鼓動は加速する。
藤咲は立ち上がる。いや、立ち上がろうとしたが、下ろしていたパンツに足を取られ、宙を舞う。落ち着け! そのまま抗う暇もなく、考え得る最悪の場所に突っ伏した。水しぶきが上がる。
おしっこにまみれの彼女は、すぐ立ち上がった。体をはたく。パンツを脱ぐ。そして僕に微笑みかける。右手のグーが頭を叩き、片目を閉じて、舌を出す。
「てへっ」
「いや、パンツは履けよ!」
星が飛んできそうだ。
ともあれ、何だか落ち着いた。
***
翌朝、昇降口で、藤咲とばったり会う。
彼女は中学からの知り合いだ。背は低く、一五〇センチメートルくらいか。加えて幼げな輪郭の彼女はショートカットにツーサイドアップという髪型が相まって、傍から見てとても可愛らしい。
偶然にも、中学三年間と高校に入ってからの一年ちょっと、ずっとクラスが一緒だということもあり、何気なく話せる間柄になっている。
でも、ただそれだけ。
普通に話すことはあっても、藤咲って可愛いよなぁと思っても、それ以上、特別に意識することは無い。
そのはずだった。
「や、やあ藤咲」
「お、おはよう唯川くん」
彼女は頬をわずかに紅潮させ、目をそらす。
昨日の出来事を思い返し、胸が高鳴る。今日に限っては、彼女の身振り手振り、すべてに注目してしまう。
今、会えてドキッとした。
挨拶を返してくれて嬉しかった。
目を合わせられないさまが可愛かった。
もしかして、これって、恋?
いや待て、そうすると始まりはおしっこだ。
おしっこから始まる恋なんてあってたまるか!
藤咲が話し出すと同時に、僕は冷静さを取り戻した。
「これ、返す。昨日はありがとう。ちゃんと洗ったけど、気持ち悪いかな」
紙袋を突き出す。
あの後、スカートもブレザーも汚れていて、さらにはノーパンの彼女をそのまま帰すわけにもいかず、僕ので良ければとジャージを渡していたのだ。
紙袋を受け取ってから話す。
「あれは悪い夢だった。もう忘れよう。ホームルーム始まるぞ」
きょとんとする彼女を尻目に、僕は歩き出す。
「待ってよ」、左手の裾をつままれる。「話があるから、ちょっと来て」
引っ張られて、バランスを崩しながらも振り返り、彼女に従う。
屋上に着いたところで、再び口を開いた。
「唯川は何も言わないんだね」
「そのほうが、お互いに楽じゃないか?」
「女の子の恥ずかしい弱みを握っておいて、何にもなしで忘れようとはお人好し過ぎるよ。これじゃあ私が、すごく可哀想な人になっちゃうじゃないか」
全くもってその通りだと思っているが、僕の返事を待たずに話し続ける。
「唯川は何も要求しないの? アレを振りかざされたら私、何でもするよ?」
何でもって……。
一瞬、桃色めいた想像、空想が脳裏をよぎる。
もしかして藤咲は、僕にあんなことやこんなことをされるのを望んでいるのか?
だからあんなところでそんなことをしていたのか?
「本当に、何でもするんだな」
「やっぱり、そういう気持ちはあるんだね。好きにしていいよ」
彼女はわずかに足を開き、目を閉じた。
僕はその小さく華奢な彼女の肩に触れる。
好きにしろといった割にはびくっと震え、頬を染めながら唇を噛む。
そして僕は言った。
「野外でおしっこ禁止!」
目を見開く藤咲の肩をポンポンと叩いてもう一度言う。
「あれは悪い夢だった。もう忘れよう。ホームルーム始まるぞ」