動物園でバトル
月の明かりが灯らない夜闇に紛れ、街中を二つの人影が疾走していた。
前を走る人影は左目に眼帯を付けた、幼さが残る端正な面立ちの少女。赤毛のボブを振り乱し、お世辞にもお洒落とはいえないスス汚れ、擦り切れたボロボロの服を風にはためかせながら、息も切れ切れに追撃の手から距離を取ろうとしていた。
汗で髪が張り付いた顔をしきりに背後に向け、追跡者の様子を気にする。
少女の後を息を乱すこと無く距離を詰めてくる相手は、黒ずくめの服を纏い視界を遮るはずのサングラスをかけた長身の男。その腕が動き、小気味よい音と共に光が瞬く。
「――チッ!」
少女は舌打ちをしながら、横に飛び退く。
アスファルトに響く悲鳴を、男の足が蹴散らしながら駆け去っていく。
(――流石にしぶとい)
少女は全力で走っているにも関わらず距離を詰めてくる相手に内心悪態を吐く。
相手の素性は情報のみではあるが知っている。かつて少女が属していた『組織』が作り上げた「イレイザー」と呼ばれている最強の戦闘サイボーグだ。
組織から抜け出した少女を亡きものにしようと放たれた追手を、幾度となく返り討ちにしてきたが、ここにきて組織も本気で潰しにかかってきたらしい。
それでも最強の追撃者から逃れるために爆薬を仕掛けた部屋に呼び込んで吹き飛ばしたり、トラックで轢き潰したりしたものの、活動を止めるには至っていない。
対して少女側は身体的には普通の人間と変わらない。圧倒的はパワーと耐久力を有するイレイザーの前では、生半可な技のみでは無力に等しい。
追い詰められれば殺されるのも時間の問題だった。だが、むざむざ殺される気もなかった。
だからこそ、唯一残された勝機に全てを賭け、必死である場所へ向かっていた。
イレイザーの銃撃を躱しながら、視界の先に映った目的の場所に口角を釣り上げる。
逃走で疲れが蓄積した体を鼓舞し、足に力を込める。有刺鉄線が張り巡らされた高い壁を器用に登り、あっと言う間に中へ飛び込む。
施設の案内板へ一直線に駆け寄ると必要な情報を拾い上げ、頭の中で勝利へのプロセスを組み上げる。
「……よし、後は奴を誘い出すだけか」
肩で息をしながら、眼帯を外す。
隠されていた左目は不自然に右目よりも大きく、金色の光を瞳の奥に宿していた。
少女の後を追って壁の内側に侵入したイレイザーは、サブマシンガンのマガジンを再装填しながら周囲に目を配らせていた。
人気のない敷地には広い道の脇に幾つもの区画に檻が区切られていて、その奥では様々な動物が招かれざる訪問者を警戒して息を潜めている。
何故、動物園に入ったのか?
イレイザーは抹消対象の意図が測れずいつも以上に慎重な足取りで周囲を探っていた。わざわざこんな所に侵入した以上、必ず何かを仕掛けてくるはずだ。
暗視装置が組み込まれたイレイザーの視界に一人の人影が映る。イレイザーは銃口を相手に向けて、距離を狭めていく。
少女は佇んだまま動く気配がない。間合いが二メートルに差し掛かった所で、イレイザーは足を止めた。
夜闇の中に佇む少女は一糸まとわぬ姿で、通常は封印しているはずの左目を開放していた。
「さて、どういう事だね、ミズ・ジェーン・ドゥ」
銃口をジェーン・ドゥと呼ばれた少女の胸に向けたまま、イレイザーが問いかける。
「こんな所に入った理由は? そして、何故裸体で立っている?」
イレイザーの質問にジェーン・ドゥは答えない。
「気が触れたのか、命乞いのつもりなのか。まさか、この私に色仕掛けをするつもりか?」
イレイザーの言葉に、ジェーン・ドゥは吹き出した。クスクスと肩を揺すりながらも、不敵な笑みを浮かべた顔はイレイザーから外さない。
「随分と饒舌ね。そんなんじゃ最強の称号の名が泣くわよ。――そうね、わたしを追いかけているなら、わたしのデータも入っているでしょ?」
「当然だ。お前は暗殺を仕事としていた。左目から人間の遺伝子構造を読み取り、擬態することによって殺害対象を油断させて近寄り抹殺する。それがどうした?」
「……ふ、ふふふ。そうね、正解よ。半分はね。そう、組織もわたしをそうとしか認識していないのね。だからこそ、わたしの名が『名称不明』な訳だものね」
ジェーン・ドゥの能力はスキャンした相手の遺伝子構造を読み取ることによって、その相手に完全になりきるものである。顔や体格、筋力、性別までも同等になる。コピー対象の相手と遺伝子レベルで全く同じ人間へ変身してしまう。
称号通り誰でもない誰かという存在だ。組織に入った際に過去の記憶を一切消されているため自分が何者であるか、どういう経緯で属したのかも知らない。それ故に身元不明の遺体に付けられる名前は、社会的存在を抹消された生ける死人に相応しい。
ただ、与えられた能力から名付けられたのだとしたら、組織の目は節穴だ。
「――そう、半分は正解。でも、完全な答えとは違う。見せてあげるわ、わたしの真の能力を。それがあなたの質問への答え。そして、これが地獄への手土産よ!」
〈オブジェクトコード・エグゼキュージョン――コンプリート〉
ジェーン・ドゥの左目の奥に、全ての工程の完了を告げる文字が並ぶ。
イレイザーとの会話も全ての準備を終えるための時間稼ぎでしか無かった。
「――トランスフォーム・ブーストアップ」
ジェーン・ドゥの口から、最後の引き金が引かれる。
イレイザーの前でジェーン・ドゥの体が異質な変化を遂げていく。
全身の筋肉が盛り上がりながら肥大化し、白い皮膚が黒色に変質していく。腕の長さが伸び、脚が縮みながら、全身を黒い体毛が覆っていく。
イレイザーは目の前に佇む別物と化した黒い獣に呆気に取られていた。
左目に金色の光がジェーン・ドゥであった事を示しているが、眼前の相手は人間の姿をしていない。
目の前にいる獣はどう見ても成獣のチンパンジーだった。
一体何が起こった? ジェーン・ドゥがチンパンジーに変身した?
思考が混乱状態のイレイザーの隙を付き、左目に金色の光を灯した獣が一気に跳びかかる。
二メートルの間合いを軽々と一息で潰し、イレイザーの肩に組み付く。振り上げた腕の拳を握ると、全力で顔面へ拳を振り落とす。四百キロを超える握力を生み出す腕から放たれた打撃が、イレイザーの脳を激しく揺さぶる。
大道芸のマスコットのイメージがあるチンパンジーだが、成獣の凶暴さは凄まじい。チンパンジーに襲われた人間が、顔面を毟り取られて食い殺される事件があるぐらいだ。
金属で強化されているイレイザーの顔面も、素手でフロントガラスを粉砕する腕力による執拗な攻撃で半壊していた。
イレイザーもチンパンジーを振り払おうとするものの、掴み掛かる腕を組み付かれた状態から器用に躱されている。
〈変身解除秒読――十、九……〉
ジェーン・ドゥの頭の中に時限切れを差し迫る合図が響く。いかなる変身時間も三十秒に設定されていて、それを超えると自動で解除される。その際にコピー対象の遺伝子情報も消滅する。
ジェーン・ドゥはサブマシンガンを持つイレイザーの腕にぶら下がると、強引に毟り取る。奪い取ったサブマシンガンをイレイザーに放ちながら、姿を闇の中へ眩ませた。
「……っ!」
イレイザーは顔面を片手で押さえながら、自身の損傷チェックと目の前で起こった出来事の整理を同時に行なっていた。
彼女はイレイザーの答えに半分は正解だと答えた。
完全なる正解に欠けた残りの答えとは――。
「……そうか」
ジェーン・ドゥの言葉と先ほどの出来事から、全てが頭の中で繋がった。
遺伝子をコピーし対象と同じ生物に変身する能力。それを組織は人間限定で作用するつもりで彼女に与えていた。その機能が人間の範疇を越えて可能だとしたら、全て辻褄が合う。
(胴体への銃弾による攻撃被害は軽微。頭部の損傷は暗視装置使用不能と若干の意識の混濁。戦闘続行は可能。身体能力のリミッター解除を許可する)
サイボーグとして強化されているとはいえ、ベースの肉体は人間である。頭部へのダメージからくる体の痺れを補うために、自身の身体能力を完全開放した。
(そろそろ奴も気づいているはずだ)
ジェーン・ドゥは次のコピー対象がいる檻へ駆けていた。
人間限定だと思われていたコピー能力が、その他の動物にも適応される。偶然彼女が発見した、組織が見落としていた事実だ。
ただし、その能力にも限界がある。
能力が適合する範囲は哺乳類に限られているようで、鳥類や爬虫類などの生物に対しては適合化の際にエラーが出てしまう。
哺乳類に限定されていたとしても、動物の持つパワーは人間の持つ力とは比較にならないぐらい強力だ。その力を存分に使える環境が、今目の前にある。
頭の中に叩き込んだ園内の地図を頼りに最短距離で目標へ向かう。
檻の向こうにいるソレを左目で見る。ソレと目があった瞬間、左目の奥でカチリと小さな音がする。
〈構造遺伝子走査……完了〉
コピーを終えると、即座に踵を返してイレイザーの元へ走る。
〈適合処理……完了〉
変身が可能になるまで多少のロスが生じるが、それも夜である事が幸いしている。
〈変換構造遺伝子構成置換……完了〉
適合化された遺伝子情報の設置を終える合図が告げられる。
気配を忍ばせてイレイザーと戦っていた場所へ戻ると、その場で周囲を見渡しながら襲撃に備えているターゲットが佇んでいた。
「トランスフォーム――ブーストアップ!」
ジェーン・ドゥの放つトリガーを合図に、全身の塩基配列が書き換えられる。それと同時に体力が吸い取られるように体内から失われていく。
人間から人間への変身ではさほど感じる事のない体力の消耗が、はっきりと知覚出来るほど強い。新たな体へ体力が奪い取られていく気持ち悪さに、思わず顔をしかめる。
だが、そんなものに構っている猶予はない。
近くにあった金属製のベンチを無造作に持ち上げて、イレイザーに襲いかかる。
棒立ちだったイレイザーと目が合うと、その顔が薄ら笑いを作る。
待ち構えていたのか、とジェーン・ドゥは内心動揺したが、ここにきて小細工は無用だと思い直す。その為に今の姿を選んだのだから。
「……今度はゴリラか。成る程、その力なら私に勝てると思ったのか?」
イレイザーは巨体の黒い獣が振り落とす金属の塊に向かい、拳を打ち出す。
二つの力が夜闇の中で激突し、金属の歪む悲鳴と共に大気を震わせる。
ジェーン・ドゥは目を見開く。 渾身の力で叩き付けたはずの一撃を、イレイザーのストレートが相殺していたからだ。
お互いの手の間で捻じれ曲がったベンチが、震えながら空間の一点に留まっている。
先のチンパンジーよりも腕力が高く、人間の腕や首を引き千切る程のパワーを兼ね備えているゴリラの筋力。それと今のイレイザーの腕力が同等と言う事を、均衡が保たれた状態が示している。
このまま力比べをしている時間はない。変身可能な時間は刻一刻と減っている。
即座にベンチから手を離すと、黒い豪腕を叩きつける。
イレイザーはジェーン・ドゥの反撃を冷静に対応する。腕で攻撃を流しながら、懐に潜り込む。腕に仕込まれた圧力駆動システムを起動させ、ジェー ン・ドゥの腹部を狙い撃つ。リミッターを解除されたパワーに、アクチュエーターで更なる力が付加されたストレートが至近距離で炸裂する。
鈍い音が響き、ゴリラの巨体が僅かに浮き上がる。その足はすぐに地面へ着くものの、巨体を支える力が篭っていなかった。
苦しげな吐息を漏らしながら、ジェーン・ドゥの体が崩れ落ちる。イレイザーの打撃力はゴリラの分厚い筋肉を貫いて、内蔵まで届いていた。
〈変身解除秒読―― 十……〉
ジェーン・ドゥの頭の中にカウントダウンが始まる。
イレイザーの反撃力はジェーン・ドゥの予想を遥かに上回る程強力だった。だが、作戦は彼女の手の内からはみ出していない。
元よりイレイザーと殴り合いをする腹は微塵も無かった。
ジェーン・ドゥは可能な限りの速さで腕を伸ばす。その手が当初の目標だったイレイザーの足を掴む。
咆哮と共に一気に立ち上がると、勢いに任せてイレイザーを宙へ振り上げる。
〈……七、六……〉
そして、振り絞れる力を腕に込めてイレイザーを地面に叩き付ける。レンガを敷き詰めた園内の地面に打ち付けられた体がめり込み、砕けた破片が舞い上がる。
〈……四……〉
時間が許す限り、レンガを砂へ変える気で何度も何度も叩き付ける。
例え強化された体であっても、ゴリラの腕力で地面に叩き続けられたならば、その体には相当な衝撃とダメージが蓄積されるはずだ。
〈……三、ニ……〉
己の考えを信じ、ひたすらイレイザーを無茶苦茶に振り回しながら、レンガの床を粉砕させていく。
〈……一、零―― 変身解除〉
カウントゼロの瞬間、ジェーン・ドゥはイレイザーを地面に投げ捨て、夜闇の奥へ姿をくらませる。
再び静寂が訪れた園内の中で、イレイザーは体を縮こまらせながら、震える手足を引き寄せてゆっくりと身を起こす。
脳と内蔵が激しく揺さぶられたため、視界が水面のように歪み、嘔吐感と虚脱感が体を支配していた。
こうもあっさりと相手の思惑に嵌められた不甲斐なさと、己の体のダメージに舌打ちをする。 (不味い。状況が不利だ。ここは一旦撤退し、態勢を整えるか?)
ジェーン・ドゥ抹殺作戦の続行か、一時撤退か。
状況分析をしながら、どちらに天秤を傾けたらいいのか決めかねていた。
イレイザーから少し離れた場所で、ジェーン・ドゥは腹部を押さえて蹲っていた。
反撃の一手で食らったボディブローは体の芯にダメージを残し、じわじわと体力を蝕んでいた。額に汗玉が浮き上がった顔を歪めながら、荒くなる息を整えるために深呼吸を繰り返す。
もし人間の状態で食らっていたなら、内臓がバラバラにされて即死していただろう。
ただでさえ変身に大量の体力を奪われるのに、腹に爆弾を抱えた状態だとなおさらその減りが早くなる。
既に次の対象動物の走査は終えている。自動で変身準備が進んでいる時間を利用し、少しでも体力の温存に努める。
〈変換構造遺伝子、構成置換……完了〉
ジェーン・ドゥにはあっと言う間の時間で、全ての準備を終えた合図が告げられた。
適合済みの遺伝子情報を見て、気が滅入りそうになる。今まで変身してきた動物の塩基配列に比べ、人間のそれから一気に遠ざかっている。これだけかけ離れれば、どれだけの体力消耗に繋がるか。予定では後一回の変身が残っているのに、今の状態で体が耐えられるのだろうか。
尽きることのない不安を振り払うように、笑いの治まらない膝に力を込めて、勢い良く立ち上がる。
ウジウジと悩んでいてもどうにもならない。
イレイザーの退却を許し、態勢の立て直しをされれば勝機は完全に無くなる。そんな後がない状態で、先の事を悩んで一体何になるのか。
己の弱気な心に言い聞かせ、トリガーの言葉を口から発する。
同刻、イレイザーは撤退を選択していた。
今の状況下で現状の態勢のまま反撃出来る可能性が薄いと判断したからだ。
次の行動が決まった以上、即座にこの場から立ち去る必要がある。悠長にしていれば、すぐにジェーン・ドゥが新たな攻撃を加えてくる。
重い足を前に進めていたイレイザーの背後から、何かが猛スピードで迫って来る。振り向いた先には、全身真っ白な毛皮に覆われた巨大な動物が、凄まじい速度で突っ込んでこようとしていた。
全長が三メートルを超える大型のホッキョクグマ。その巨体が時速五十キロの速さで間合いを詰めて来ている。
万全の態勢であってもイレイザーの足では逃げ切れない。
足に仕込まれているアクチェエーターを使用可能にし、俊足の大型獣の突撃を爆発的な瞬発力でかわす。熊の死角に回り込もうとするが、巨体からは想像も出来ない勢いで方向転換をして、イレイザーの狙いを阻む。
咆哮と共に後ろ足で立ち上がったホッキョクグマは、研ぎ澄まされた巨大な掌を振り落す。空気を引き裂く発破音が尾を引きながら、鋭く研ぎ澄まされた太い爪がイレイザーに迫る。
圧倒的な圧力を纏った掌を、アクチェエーターで加速しながら懐へ潜り込もうとする。
だが、ホッキョクグマは機敏な動きでイレイザーの移動先を追い、返す手で隙間のない攻撃を続ける。
ホッキョクグマより一回り小さいヒグマの攻撃力は、牛や馬の首を一撃で圧し折って殺す事が出来る。それ以上の攻撃力を秘めた掌が暴風のごとく渦巻き、イレイザーに圧力をかけ続けている。
イレイザーもただ逃げの一手に努めている訳ではなかった。
両手両足の圧力駆動システムと、腰と背筋の強化筋肉のオーバーブーストの準備を完了させていた。暖気状態を維持しながら、ホッキョクグマに変身しているジェーン・ドゥの攻撃パターンを読んでいる。
幾度かの回避でジェーン・ドゥの攻撃の綻びを捉える。そのタイミングを狙い、イレイザーは一気に勝負を仕掛けた。
両足のアクチェエーター、腰と背筋の強化筋肉、右腕のアクチェエーターの駆動力を連結させる。腕だけの力でゴリラの筋力と同等な攻撃力がある。そこに全身から生み出した力を一つに束ねた攻撃ならば、相手がどれほどのものでもタダでは済まない。
必殺のストレートがホッキョクグマの腹部へ撃ち出される。
弾丸の如き勢いで迫りくるイレイザーの拳を捉えたジェーン・ドゥの目が光る。
(――そう来ると、思った!)
イレイザーの腕目掛けて、ジェーン・ドゥは掌を救い上げる。
どれだけ強力な威力を秘めたストレートであろうと、それはベクトルの延長線上のみに限定される。それ以外は威力を殺さないために余計な力が一切加わっていない。
直進のベクトルに横から違うベクトルを加えると、合成されたベクトルは方向を変える。つまり、ジェーン・ドゥの攻撃でイレイザーの攻撃は容易に逸れ、なおかつ必殺の威力を殺せないままイレイザーを引っ張り、体勢を崩させる。
ホッキョクグマの掌がイレイザーの腕に激突して跳ね上げる。
その掌の威力はイレイザーの腕の骨と仕込まれた圧力駆動装置を粉砕し、強烈な圧力で筋肉が破裂するように引き千切れて肉片と化し、血煙と共に宙に舞う。 更なる威力を上乗せさせたストレートに、イレイザーの体が大きく泳ぐ。
重心が激しくぶれた敵めがけて、ジェーン・ドゥは被せる一撃を頭部へ叩きつける。
その手に確かな手応えと、重く鈍い音と衝撃が響いてくる。
イレイザーの体が数メートル近くマネキンのように勢いよく吹き飛び、レンガの床を数度バウンドしながら転がっていく。
(――やったか?)
ジェーン・ドゥは頭の中で響き始めたカウントダウンをよそに、倒れ伏したイレイザーの様子を窺う。
止めを刺そうと動こうとして、足を止める。
既にカウントは半分を切っていた。相手がどう出るか不明確な以上、下手に打って出れば相手に隙を与えかねない。
次の変身で確実に止めを刺せばいい。
そう思い直したジェーン・ドゥはカウントを残した状態で、イレイザーの元から素早く遠ざかる。 その気配が消えてから少しの間を置き、イレイザーの指先が動いた。視界に激しくノイズが走り、頭の中で警告音が波打ちながら反響していた。
(……生きて、いたのか?)
頭が丸ごと消し飛んだかと思うほどの衝撃の後、意識が途切れていた。
引き寄せた手で顔に手を触れると、頬があるはずの部分を指先が通り抜けていく。
どれだけの被害かは見当もつかないが、顔の肉が幾らか吹き飛んでいるらしい。痛みはほとんど感じないものの、顔の中を吹き抜けていく夜風の感覚が自身の状態を朧げに伝えてくる。
力があまり籠らない体をなんとか起こして立ち上がるものの、足元が定まらずに体が大きく揺れる。
メディカルチェックの結果が最悪な値を示している。
今の状態では撤退すらままならない。反撃をしようにも、視界が鮮明に定まらず、右腕は使い物にならない。
イレイザーはここにきて腹を括った
。 退路がない以上、一矢報いる奥の手を使うしかないと決意する。
身体の奥に仕込まれている爆弾の使用制限を解除。イレイザーの命令で五カウント後に起爆する。その威力はイレイザーのみに止まらず、半径数メートルを確実に木端微塵に吹き飛ばす。
(……さあ、来い。貴様が来た時が、最後の時だと思え)
イレイザーから少し離れた場所で変身準備が終わるのを待っていたジェーン・ドゥも、立っている事すらままならないほど衰弱していた。
異種族への変身に次ぐ変身に、体力はとっくに底を尽きている。
カラカラに乾いた口を大きく開いて、空気をほとんど受け付けてくれない肺へ僅かな酸素を引きずり込ませるために喘いでいる。
視界は白濁し波打ち、頭の中に耳鳴りが木霊している。嘔吐感と虚脱感に苛まれ、何度もこのまま倒れてしまいたいという誘惑に心が挫かれそうになる。
手先と足先の感覚はほとんどない。まっすぐ立っている事すら怪しいほど、平衡感覚がなくなっている。
そんな中で変身準備を告げるアナウンスが淡々と流れていく。
変換構造遺伝子が配置されたのを見た瞬間、体の芯が凍りつくほどの怖気に襲われた。
何百回と繰り返してきた変身からくる勘が訴えてくる。
今まで類を見ないほど遺伝子がかけ離れた異種族への変身。それがどれほどの負担を体に強いるのかを、直観で理解していた。
バイタルエナジーをも吸い出さなければ可能にならない程、変身に消費されるエネルギーが体に残っていない。
最悪、変身をし終えた後に、生命維持が危ぶまれる状態に陥るだろう。
それが分かっていても、死への恐怖心に押し潰れされそうになりながらも、それでも生への執着を捨てきれない。
撤退が出来れば楽にはなるだろう。だが、それはイレイザーへの撤退を許す事となる。 その事実もまたジェーン・ドゥにとって死を意味する。
死への覚悟は、組織を抜け出す時にしていた。最初から退路がないのは承知していた。
それが分かっていても、体を苛む苦痛は己の決めた覚悟をたやすく揺らがせる。
生きたいからこそ弱気になる。体の訴える苦痛もこれ以上死に近づきたくないからこそ、必死で警告を発している。
だからこそ、前に進まなければならない。 どちらの道を選んでも死があるというなら、万に一つの可能性でも生への希望が見出せる道を選ぶ。
ジェーン・ドゥは覚束ない足を踏み出す。声すらほとんど発せなくなった喉に、かき集めた僅かな唾を流し込む。
これで決着が付かなければ、どのみち死が待っている。
(――これが……最後の、変身……)
「……トランス、フォーム……ブースト……アップ――」
息も切れ切れに発したトリガーを合図に、全身の遺伝子情報が書き換えられていく。
同時に体力が蒸発するように消費され、体から一気に熱が消えていく。
視界が真っ白に染まり、平衡感覚が消滅する。
生命が削り取られていく感覚に、無意識に呻き声を漏らした。
視界の白みが消えていき、ぼやけていた映像の焦点が合ってくる。
遥か高さから見渡せる景色。前足と後ろ足の裏へ伝わってくる地面の振動。人間の可聴域よりも下の低周波を拾い取る耳。
それらの情報が、光彩豊かな人間の視界とは違う、『視界』を作り上げている。
人間とは見え方が違うが、世界を見るには十分すぎる。暗闇の中での戦いでも不自由はない。
足裏と耳から拾い上げた情報がイレイザーの位置を捉える。
(行くぞ。耐えろよ、わたしの体よ)
ジェーン・ドゥは足に力を込めて地面を蹴る。
最初は重かった体も、加速されていくにつれて軽くなっていく。風が悲鳴を上げながら耳元と身体を吹き抜けていく。
ジェーン・ドゥの目にイレイザーの姿が映った。
更に足に力を込めて、標的に向かって加速する。
陸上哺乳類中最強の動物、アフリカゾウの全力の体当たりを食らえば、無傷では済まされない。
勢いを殺さないまま、体長が七メートルある巨体がイレイザーに突っ込んだ。
イレイザーは迫り来る像の巨体を注視しながら、両足のアクチェエーターを暖気状態にし、使い物にならない右腕を服の袖を噛んで持ち上げる。
少しでも衝撃に耐えるための苦し紛れの行動だ。
目的はジェーン・ドゥを確実に爆発に巻き込み殺す事。
左手の指の感覚がしっかりあるのかを、指を複雑に蠢かしながら確かめる。
眼前にアフリカゾウの巨体が迫る。その光景は大型トラックの車体が突っ込んでくるかのような、同じ動物とは思えないほどの威圧感。
すぅ、と大きく息を吸い込んだイレイザーは、アフリカゾウが激突した衝撃を体に受けた刹那、両足のアクチェエーターを作動させる。
地面から浮き上がりそうになった足が、地面に縫い付けられる。
全身がばらばらになりそうな衝撃が体を貫き、イレイザーの意識が粉砕されそうになる。意識が濁流の向こう側へ押し流れそうな感覚の中で、左手をもがきながら伸ばす。
象の硬い皮膚の凹凸に指先をかける。
衝撃を受けきり対象を捉えたと確信した瞬間、イレイザーは起爆スイッチをオンにした。
像の巨体から生み出す力と体重を乗せた必殺の体当たりが止められたジェーン・ドゥは思わず息を呑んだ。
それと同時に砂で撫でられたかの様な違和感を覚えた。
だが、その違和感を変身解除のカウントダウンが掻き消した。
ジェーン・ドゥは奥歯をきつく噛み締める。
(――殺す。何としてでも殺す。体力などいくらでもくれてやる。だから、お前の命をよこせ!)
追い詰められた恐怖と焦燥感に突き動かされ、体の奥底から無理矢理体力を搾り出す。
筋肉が裂けるような感触に襲われ、心臓が大きく跳ね上がり強烈な痛みを伴って軋む。
だが、そんなものに構っている余裕は、今のジェーン・ドゥにはなかった。
肺の奥から息を吐き出しながら鼻の付け根にしがみ付くイレーザーごと頭を持ち上げて、近くの建物へ全力疾走する。
体に衝撃の反動が返ってくることなど考えずに、渾身の力でコンクリートの建物に突っ込む。
分厚い壁が凄まじい重低音と共に、砂埃を巻き上げながら崩れ落ちる。
イレイザーの手が緩み、ずるりと象の皮膚を滑って地面に落下する。
口から血泡を溢れさせながら、痙攣する身体を引きずり起こそうとしている。
(いい加減――くたばれ!)
ジェーン・ドゥは前足を振り上げて、身体を支えようとするイレイザーの左腕と胸めがけて一気に振り落とそうとした。
ざわり、と再び違和感が心臓を撫でる。
違和感の正体は分からないが、駆け抜けた強烈な嫌な予感に従った。
振り落とした前足はイレイザーを狙わず地面に着き、鼻でイレイザーを絡め取ると勢いよく振り飛ばす。
一瞬の間の後、空中に巨大な閃光が炸裂し、爆炎と轟音がジェーン・ドゥに襲い掛かった。
黒くぼやけた視界が像を結んでくる。
ジェーン・ドゥはわずかな間意識を失っていた事に気づき、跳ね上がるように起き上がる。
目の前には黒い煙が舞い上がる幾つもの小さな炎が散見していた。
(……終わった、の?)
動く人影が見えない事に安堵した途端、息が止まり全身から力が抜ける。
「……がっ……かはっ……!」
呼吸困難にもがきながら、必死でささぐれ立つ喉の奥へ僅かな空気を送り続ける。白くぼやけた視界と意識の中で、溶け出していく生命を少しでも留めるために足掻く。
(死んで……たまるか! こんな所で、死ぬものか……!)
空気に喰らい付き酸素を貪りながら、激痛を発する心臓に冷たい汗で濡れた顔を歪めながら、痺れて感覚が希薄になった身体を引き摺って闇の中へ消えていった。
動物園でバトル。
お題に沿って書いてみましたが、少し盛り上がりにかけるかもしれません。
もっとドキドキハラハラする内容が書けるように精進していきます。