傷つけないよう傷つかないよう
2.1
薄暗い窓の外から、小さく雨音がする。肌寒さに小さくなる僕の前でニグリカさんは無表情にナイフを磨いていた。ニグリカさんのナイフの刀身は照り返しも無く真っ黒で、端からはまるでプラスチックかのように見えた。しかし、刃先だけは何度も磨いたせいなのか、ぎらりとした白色の金属光沢を放っていて、それがどうにもミスマッチに感じられた。
「それ、」
「ん?」
ニグリカさんが顔を上げ、僕を見る。
「本当に切れるんですか?」
彼女は呆れたような表情を作ってみせた。
「切れないなら、俺はどうやってシゴトしてる思うん?」
「それは、確かに、そうなんですが……」
萎縮する僕に対して、彼女はいかにも適当な感じの笑みを作った。
「切ってみたいんか?」
目の前で、ひらひらと、おもちゃのようなナイフが揺れる。僕は手を伸ばした。
「危ないな、」
触れる前に、ナイフが逃げた。彼女と目が合う。僕は、自分が今何を考えていたかを忘れた。
2.2
「ん!」
近くの渓流で水を汲んでいると、見知った顔が手を振っていた。その手は真っ赤でゴツい、怪獣のようなアーマーで覆われている。
「笹子さん」
彼女の名前は、毒嶋笹子。
「おー」
笹子さんがひと際大きく手を振る。ぶすじま、という名字を呼ぶのがなんとなく語感的に抵抗があって、僕は彼女を笹子さんと呼ぶ。以前誰かに、名前で呼んでいることを、仲がいいなとからかわれたこともあったけど、笹子さんは知ってか知らずか、無邪気に、おー、と言って笑っていた。
彼女の振った手が近くの枯れ枝に触れ、小さな火の粉が舞い砕ける。彼女の手に触れると遅効性の大火傷を負うらしい。以前、ニグリカさんが、手をグローブみたいに腫らしたくないんなら彼女には近付かんとき、と忠告してくれた。笹子さんは無邪気だ。触れてからすぐは、相手に火傷の症状は出ない。数日経って、水面下で体を蝕んだ毒が痛み出す。だからこそ、笹子さん本人は自分が他者を傷つける可能性に気付かない。けれどもそれは、彼女の無邪気さのみによるものだ。もし僕がそれによって彼女を怖れ、避けたとしても、きっと僕の姿を見つければ、今と同じく笑顔で手を振ることだろう。彼女は自分が傷つけられる可能性にも気付かない。そんな彼女に対して、呼び方だとか、避けているのがわからないように避ける方法だとかを考えている僕は、恐らくひどく滑稽で、しかしその滑稽さもまた、彼女の思うところではない。
「ではまた」
水を汲み終えた僕が小さく手を振り返すと、やはり笹子さんは無邪気に笑った。