優しさに甘え
1.1
「ただいま……」
僕がそっとダイニングの扉を開けると、ニグリカさんはソファに座ったまま、ちらと真っ赤に輝く視線を寄越し、また手元の書籍に目を落とした。ニグリカさんの本名は、ルッスラ・S・ニグリカ。全身をグレーでキメた男装の麗人だ。僕は、彼女の家に居候させてもらっている。
「何読んでるんですか……?」
正面からそっと近付き、本を覗く。背後から近付かないのは、彼女が殺し屋だからだ。まぁ、特に彼女の口から俺の背後に立つなと言われたわけではないのだけれど。
「何もなにも、昨日と同じや。化学。」
僕はその本に載っていた三角形ではなく、彼女の手元を見つめていた。爪の黒いマニキュアは、たぶん今日にも塗り直されたのか、つやつやと輝いていた。
「なんや、銀、腹減ってもう待てんのか?」
ふふ、と笑い声が耳をくすぐる。僕は彼女の口元に目をやった。色の薄い、しかしつややかな唇が弧を描いている。
「よっしゃ、俺が今作ってやるから、待っとき」
ニグリカさんが本を置いて立ち上がる。僕はと言えば、彼女を手伝うでもなく、彼女の座っていたソファに座った。暖かい。苦しくなる。
僕の名前は、竜崎銀平。名前だけは無駄にかっこいいけれど、色素が薄く、筋肉も無い。ニグリカさんは僕の銀髪を褒めてくれたけれど、僕からすれば彼女のような褐色の髪に憧れる。僕の透明度は、そのまま存在、価値の透明度に等しいのではないか。しかし何もできずにいる僕を、ニグリカさんは見捨てない。そして僕の彼女への憧憬は、彼女の優しさによって、ただそこに滞留する想いでしかなくなる。僕はただただ優しさに寄生し生きている。自分が本当に生きているのか、自分は実は幽霊ではないのかという愚かな疑念すら抱きながら。
1.2
木々の合間に真っ白な曇り空を見ながら何ともなしに歩く。彼女はシゴトに出るときは必ず僕を追い出す。僕が帰っても良いのは、彼女が帰宅した後だ。アパートの明かりが付いているのを確認してから、中に入る。信用されていないわけではないはずだ。なぜなら、合鍵は持っているからだ。一度も使った事がないけれど。彼女がシゴト中に僕を追い出すのは、もしかしたら都合の良い推測にすぎないかもしれないけれど、きっと自分に”何か”があったとき、僕がいつまでも待ち続ける事がないように、なのではないだろうか。
「……あら」
掛けられた声に、はっとして顔を上げると、そこに居たのはお初さんだった。お初さんは、本名は松林初といって、ニグリカさんの遠い親戚らしい。緑と橙のオッドアイ、人好きのする優しい表情と橙色の髪。同色の和装風ドレスを優雅に纏う姿は、ニグリカさんとは対照的に見えるが、それでもなんとなく、確かにお初さんとニグリカさんは顔つきが似ているような気がしなくもなかった。
「ニグリカは、お仕事?」
こくりと無言で頷くと、お初さんは困ったように、でも優しく笑った。
「そう……。せっかくだから、お茶でも飲んで行く?」
お初さんは古くから続く名家の娘で、神殿のような緑青の吹いた立派な屋敷に住んでいる。何度もこうしてお邪魔しているが、やはりなんとなく緊張してしまう。ぎしぎしと音を立てる廊下に、お前は場違いだと責められているような感覚をどうしても拭いきれない。
畳に正座し、お初さんのお抹茶を頂きながらとりとめのない話を流していく。
「あら、もう日が暮れるの……」
お互いの顔が見えにくくなったあたりで、お初さんが外を見た。
「秋分は過ぎましたからね。もうこれからは寒くなるだけかと思うと少し気が重いです」
ふっと息を吐く音がする。
「……そろそろ御暇します。長居してしまいすみません。お茶、おいしかったです」
腰を上げると、あ、とお初さんが思い出したように言った。
「お菓子作ったの。良かったら持って行って? 甘いの、あの子好きだから……」
「恐れ入ります……」
包みを受け取り、礼をする。
アパートに戻ると、電気が点いていた。無意識に僕はほっと肩の力が抜けるのを感じた。いつものことではあったとしても、やはり自分は不安に思っていたのだ。しかしそれは彼女がシゴトで怪我をしないか、等という具体的な不安というよりも、どこか漠然とした、もっと根源的な何かだった。でも、今日も彼女は僕をこうして家で待っていてくれる。
「どしたん?」
ソファに座る彼女の前に包みを置く。彼女のきらきらと光る赤い瞳が僕を映す。
「お初さんに会って、お菓子をもらいました」
包みをあけると、大きくてやわらかそうな饅頭が二つ入っていた。一つは黒い胡麻生地に塩桜が乗ったもの、一つは真っ白な酒饅頭。
「はは、俺たちみたいやな」
ニグリカさんは笑って、白い方を取った。僕は残った黒い方を両手で持って、そっと齧った。
甘い。