逮捕男逃亡事件
ゴトッ ゴトッ病室に妙な靴音が聞こえて来る。とてもくたびれたような歩き方だ。
しかし何処となく愛嬌が感じられる靴音に聞こえるのが不思議だ。女が言った
「来たわ、あの人……今日で四度目だもの靴音で分るわ」
今では楽しみにしているようだ。やがてその靴音は病室のドアの前で止まった。
コンコンと遠慮がちなノックの音が聞こえる。妻とその夫は、男と顔を見合わせニコッと笑った。
あれは数ヶ月前に起こった事件が切っ掛けだった。今ではかけがえのない友人の登場だ。
その事件とは数ヶ月前に溯る。その時刻は十月十日午後一時五十八分
某県某市の国道添えで引ったくり事件発生が発生。
犯人と思われる三十代後半と思われる男が、若い女性を襲いバイクで逃走したと云う一報が北沢警察署に入った。
パトカーが五分後に現場に到着。被害者女性、松坂文江二十九才。売上金三百万を銀行に預ける途中に襲われ大怪我をし病院に搬送されたと言う。
「幸いまだ明るい、非常線を張ればすぐにとっ捕まえられる。犯人の足跡を追え!」
この署に着任して最初の事件であった一課の課長は張り切っていた。
まもなく非常線を張った警戒網の中に、犯人と思われるバイクに乗った男が取り押さえられた。
その男は屈強な感じで、その男と目が合ったらつい視線を逸らしてしまいたくなるような凄みがあった。
非常線を張っていたか刑事が三人がかりで連れて来た。
「だから俺は何も知らないと言っているでしょう!! 妻が交通事故で救急車で運ばれたので急いでいるんだ」
「ほう、威勢がいいなあ。誰でも最初はそう云う」
「本当だ。妻が心配なんだ。事情聴取なら後にしてくれ。頼む」
「ふざけんな適当な嘘を並べやがって! 服装やバイクが目撃情報とそっくりだ。文句があるんだったら署で聞く」
男は百八十五センチ以上ありそうな大柄だ。三人に取り囲まれているが、それ振りほどこうとした。
「ああ~逃げようとしたな公務執行妨害で逮捕する」
宮本警部は口実が出来たとばかりニヤリと笑みを浮かべ、喚く男を殴りつけ強引に手錠を掛ける。
宮本はキャリア組で二十七歳ながら警部であった。同じ警官でも国家公務員で格が違う。ノンキャリアは地方公務員と別けられる。
国家公務員Ⅰ種試験合格者を、キャリア警察官のことをいう。
試験の合格率は極めて低い。そけだけにエリート集団であり警察に配属され、いきなり警部補の階級が与えられる。
しかし宮本は焦っていた。同期のキャリア組は既に警視になった者もいる。
それだけに宮本は手柄を立てたく焦っていたのである。
この署に配属された宮本はこれが初捕り物で、部下を引き連れて現場に意気揚々と向かっての初手柄であった。
「課長、容疑者の所持品から獲られたバックと三百万円が見当たりませんが」
この現場では一番年配刑事である秋山が言った。
宮本はこの秋山が苦手だった。自分の部下ではあるが、ベテラン刑事で叩き上げの為か時々意見が合わずぶつかる。
だが今回は自分の意志を押し通した。内心こいつの為に俺の出世が遅れていると思っている。
「……そんなはずがあるか、ならば何処かに隠したかも知れん。ともかく署に連行しろ」
四人は課長である宮本警部と、吉井刑事に酒井刑事共に二十四歳とベテランであるが巡査部長の秋山刑事であった。
「課長、ほんの数分で逃走しながら現金を隠しのは無理でしょう」
案の定、秋山は因縁をつけて来た。
「秋山さん、じゃあ他に犯人が居て逃走したとでも? いい加減にして欲しいなぁ」
核心がもてない秋山巡査部長であるが警察は縦社会、若くても上司には逆らえない。北沢署に連行されることになった。
「連行するなら四人も要らんでしょう。俺はもう少し単独捜査してみますよ」
「ああ、勝手にやってくれ」
腑に落ちない秋山はその周辺をパトロールすると言って別行動に出た。
宮本は犯人に手錠を掛けたまま覆面パトカーの後部座席に犯人を真ん中に座らせ酒井刑事は後部右座席に座った。
運転するのは吉井刑事であった。
だが車が走り出した瞬間、容疑者は宮本警部に頭突きを喰らわせ更に掛けられた手錠を酒井刑事の顔面に叩きつけた。
二人が一瞬うずくまっている隙をつき宮本警部の脇腹から拳銃を取り出しとすかさず頭に拳銃のグリップで叩きつけた。
更に酒井刑事に向かって安全装置を外した拳銃を頭に当て手錠を外せと命令した。
運転していた吉井刑事は一瞬の出来事で対応が遅れた。慌てて運転する車を止めようとするが。
「動くな! 動いたらこの刑事の頭を吹き飛ばすぞ。〇〇病院に行け」
そう命じた。どうやら拳銃の扱いには慣れているらしい。
酒井刑事は渋々ながら手錠を外した。すると逆に酒井に手錠を掛け後部座席の上にある手すりに繋いだ。
続いて気絶している宮本警部からも手錠を取り出し同じように手すりに繋ぐ。
更に助手席に素早く乗り移り、外から見えないように拳銃を突きつける。この間一分足らずの出来事であった。
手錠に繋がれた酒井が後ろの席で叫ぶ。
「おい! こんな事をしてただで済むと思っているのか! 早く手錠を外せ」
「何もしていない一般市民に手錠を掛けて殴り、俺の事情も聞かず逮捕する方が悪い」
「そうかも知れないが警察官としては……」
「なんだと? 事情を聞くだけならその場でも出来る筈だ。殴ったうえ手錠を掛け犯人扱いしたじゃないか」
「それは……悪いと思っている。しかし上司には逆らえない」
「飛んだ上司だな、まさか新米のキャリアとか?」
「まぁ、私にはなんとも」
「妻が死ぬかも知れないんだ。一刻も早く病院に駆けつけたい。騒ぎを起した原因はお前たちだ」
やがてパトカーは病院に到着した。その間パトカーに異変が起こった事を知らせる術がなかった。
「悪いが。あんたにも手錠を掛けさせて貰う」
そう言うと運転している刑事から手錠を奪いハンドルに繋いだ。
男は急いで病院の中へ走って行った。
運転席の吉井刑事が手錠を掛けられたまま無線で本部に知らせた。
「なっなに!! 逆に三人とも反撃され手錠を掛けられ動けないだと? バカモノ~~恥を知れ!」
数分後、県警本部や近くの警察署から二十数台のバトカーと機動隊員数十名が病院を取り囲んだ。
「油断するな。犯人は拳銃を持っているぞ」
およそ百名近い警官で病院周辺を取り囲んだ。
その頃、引ったくり犯の操作を続けていた秋山刑事から北沢署に一方が入った。
「引ったくり犯逮捕! 三百万も無事に回収。以上」
「なっなんだって……それじゃあ宮本警部が逮捕した男は無実……か」
「あの何かあったのか?」
「その誤認逮捕した事になる男が、乗せられたパトカーを襲い宮本警部以下二名に手錠を掛け病院内に逃走。現在、県警本部長及び機動隊員を含め総勢百名前後が病院を包囲中」
「なっなんだって馬鹿な!」
秋山刑事は逮捕した真犯人を部下に引渡し現場に向かう途中、毒ついた。
『なにがキャリアだ若造が。こっちは叩き上げのデカだ。足跡を追えだとその前に手前の足元を見ろってんだ。奴は大怪我をした妻に会いに行くと言っていたな。不味いぞ、誤認逮捕で逃走したとしても間違って射殺でもしたら大変だ』
秋山は学生時代の友人がテレビ局のディレクターをしているを思い出し、そのディレクターに頼み込んだ。
「なっ悪いが、ニュース速報で流せないか」
事情を聞いたディレクターは独占スクープと喜び承諾した。
「こっちこそトク種ありがとう。分かった早速テロップを流すよ」
テレビの情報は早かった。ニュースを聞きつけ賭けつけた報道陣や野次馬で病院前は騒然となった。
現場で指揮を取っている本部長に報道陣が一斉にマイクを向けた。
「県警本部長、誤認逮捕の男が暴走したって本当ですか? 原因を作ったのは警察の方だって?」
テレビでは次々と速報が入りテレビの生中継まで始まった。こうなると警察も迂闊に逮捕に踏み込めない。
秋山刑事は説得させてくれと名乗りでた。機動隊を病院に突っ込ませる訳にも行かず、それに応じた。
早速、秋山は暴走男の説得に当たった。
「頼む聞いてくれ。悪いのはこっちだ。謝罪する。これ以上暴走しないでくれ」
「暴走? 俺はただ妻が心配なだけだ。緊急手術が行われている最中だ。もし妻が死んだら俺を逮捕した刑事は許さん」
「分かった。ならば病室の鍵を開けて人質を解放してくれ」
「なにを言う? 病室のテレビでは俺が拳銃を持って人質をとって立て篭もっていると言っている」
{そうじゃないのか?」
「違う! 拳銃はパトカーに置いて来た。人質なんて居ない」
秋山刑事は覆面パトカーの中を調べるように依頼した。七分ほどして助手席の下から拳銃が発見された。
またしても失態を犯した。誤認逮捕に怒り拳銃を奪い人質まで取ったと全て誤報であった。
やがて秋山刑事の説得により投降したが、警察の失態が招いた事件として連日報道された。
危篤状態の妻の下へ駆けつける人間を、有無を言わさず誤認逮捕したキャリア刑事の行動は非難された。
ただ誤認とはいえ警察官を暴行し手錠を掛けて逃走が問題となった。
しかし元を正せば警察がミスを犯した。危篤状態の妻が心配で仕方なく起した行為である。
警察も、この男の処遇に困った。これだけ警察が手玉に取られ無罪放免では立ち背がない。
逮捕されパトカーに乗せられたが警察官三名に手錠を掛ける離れ業はいったい何者か。
みっともなくて、こんな失態は公表されていない。
正体が分かり驚いたのは警察と陸上自衛隊の幹部達であった。
警察は暴走男の処遇に困った。そこで自衛隊幹部と警察幹部の話し合いがもたれた。
警視総監と幕僚長のトップ会談である。
「どうです警視総監。うちの隊員が起した事件が公になれば、そちらの現職刑事三人が手錠を掛けたにも関わらず逆に手錠を掛けられ尚、拳銃まで奪われたとなると警官の質が疑われませんか? どうでしょう世間は誤認逮捕までしか知りません。こちらも優秀な特殊部隊員を失いたくありませんが、痛み分けとしませんか?」
暴走男は自衛隊特殊部隊に所属していたという。謎の男の身分は世間に隠され暴走男は無罪放免で釈放された。
後に暴走男の消息は誰も知らない、但し一人を除き。
手柄が欲しい為に誤認逮捕し世間を騒がせた罪は重い。宮本警部は依願退職に追い込まれた。
それから数ヶ月が過ぎた。
この事件で二人の男との間に友情が生まれた事は確かである。
ドアを開けるとその足音の主がニヤッと笑った。お世辞にも綺麗とは言えないタバコのヤニが付いた歯に愛嬌が伺える。
その足音の主に妻と二人で選んだ靴を用意していた。歩いても疲れにくい靴をプレゼントするつもりだ。
秋山刑事は柄に似合わない花束を持って病室に入る。それを音羽一尉は笑顔で出向かえ手を差し伸べた。
「秋山さんが俺を信じて説得はてくれたから丸く収まった。本当に感謝してます」
「とんでもない。それより私がパトカーに乗っていなくて良かった」
「もうそれは云わないで下さいよ。家内にもきつく叱れてますよ」
「音羽一尉、奥さんの調子はどう」
「お陰さまで来週には退院出来そうです。秋山さんその時は盛大に退院祝いしますので来て下さいよ」
了