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逃げ水

作者: 北城 十

 夏の暑さ。逃げ水が見える。気が狂いそうなほどの切ない、懐かしき景色。

 緑が瑞瑞しく、道路が白く、影が黒い。

南国に咲く花の赤も美しく、原色の世界は祐一の目を眩ませた。

景色を理解するのも難しかった気もするが、美しさだけは鮮烈に残った。楽園というイメージではなく、むしろ魔に属す景色だったが、だからこそ今でも惹かれるのであろう。今の彼にはもうその世界は見えない。ただその記憶を呼び起こすものはあって、それを見つけるごとに切ない胸苦しさが彼を襲った。ときに見る気がする。でも本物ではない。

 いつからその世界を失ったかといえば、それは明白な境界を持って祐一の脳に存在する。ただ一つの出来事が彼からそれを奪った。

 四年前、中学に入った夏のことだ。例年にない暑さであったが、まだ幼い祐一は気にもせずに遊びまわっていた。自転車を少しこいだ所に川があって、三人以上でないと行ってはいけないと言われていたのに、祐一はよく一人で行っては叱られていた。

 川の上流に林があって、そこは少しだけ川幅が広く、流れがゆるやかで湖のようだった。木々に囲まれ、外界から切り離されたようなその場所が、祐一は好きだった。別世界に来たかのように思えた。そんな風な場所だったから、はじめその少年を見た時水の精か人魚か、はたまた河童かと思った。少年は、枝を大きく広げた木の影にある岩に腰掛け、じっと水面を見つめていた。祐一と同じように、上は白いTシャツ、下は水着姿だった。

 祐一はしばらくその様子を観察していたが、好奇心にかられて泳いで行った。

 何か考え事でもしていたのか、全く自分に気付く様子のない少年に、祐一はさっと水を飛ばした。いきなり水をかけられた少年は、驚いて目を見開き、祐一を見つめた。


「何してんだ?」


 不躾に祐一が聞くと、驚いた表情のまま相手は

「何も」

と言った。夏だというのに白い肌だとか、落ち着いた口調だとかが祐一には新鮮だった。この近くにはそういった者はいない。


「ここら辺のやつじゃないよな」

「母さんの実家が近いんだ、それで」


 ぽつりぽつりと、呟くように話す少年だった。自分からは何も言わない。普通なら煩わしく思うようなやり取りに、祐一は惹かれていた。たわいない話をして、ただ何も話さずに、何時間も二人でいた。そうしてなんとなく、昼になると二人連れだって帰途についた。

 陽射しがきつい。柔そうな少年の肌を焼くのではないかと、心配する。白く乾いた道路に黒く二人の足跡が続いていた。昼間なのに、人通りがない。


「そうだ、名前。俺は祐一。お前は?」

「湊」


 『湊』という名を心に刻み、その日は眠った。

 そして、その週はほとんど川で過ごした。湊が川にいたからだ。はじめて会った次の日、同じ時間に行くと、湊はまた同じ所で同じように水面を見つめていた。その次の日も、また次の日も。だから祐一は川に行った。

 そして帰りは二人隣り合って歩いて帰った。

 祐一は湊に惹かれていた。傍にいると少し苦しいほどに鼓動が高まり、触れたいと思った。その体にも、心にも。


「いつ帰るんだ?」


 帰り道になっていつも大切なことを思い出す。川にいる間の記憶が曖昧になるほど祐一は溺れていたのだと思う。動揺もしていた。帰る、別れると意識してはじめて、重要なものが分かった。


「分からない。明日かもしれないし、休みが終わるまでずっといるかもしれない」


 答えに不安になった。明日はいないかもしれないという事実が、さらに祐一を動揺させた。

 恐くなって、祐一は湊の手を握った。湊は一度祐一の顔をちらりと見つめたが、何も言わず歩き続けた。

 もう住宅街に入っていた。民家の庭の真っ赤なハイビスカス、濃い緑の陰で蝉が鳴いていた。細い道の向こう、逃げ水が見える。

 祐一が急に足を止め、手を繋がれた湊も足を止めることになった。不思議そうな顔で湊が祐一を見つめる。祐一はさっと湊に口付けた。握ったままの湊の手がぴくりと震えた。

 煩いぐらいに蝉が鳴いていた。祐一は自分がしたことに驚いて、何も言わずに走って帰ってしまった。

 自分の軽率な行動を悔やみ、そして湊の反応の薄さに困惑して、その夜祐一はなかなか寝付けなかった。そのために翌日起きたのはすでに昼で、いつも川に向かう時間はとうに過ぎていた。寝過ごしたことと、昨日の出来事のために、祐一は川に行けなかった。そしてその夕方、湊が川で溺れたと知った。

 恐ろしかった。自分が川に行かなかったがために湊は死ぬかもしれない。祐一は自分はもう会えなくても構わないから湊を助けてくれと祈った。

 何も出来ず動揺して外に出た祐一は、逃げ水を見た。どうしてか近付きたいと思い、駆けた。

 その逃げ水は走ると近づき、踏み込んだ途端湖を見た。

 次の日は土砂降りの雨だった。湊は意識を取り戻した。

 空も空気も、嬉しいはずなのにどんよりと色を失くして暗かった。夏に色がなくなったのは雨のせいかと思っていた。だが晴れても色は戻らなかった。

 湊は帰って行った。それから一度も、ここには来ない。祐一は世界を失ったが、それで救われていた。自分は罰を受けていると、そう思うことで心が少し安らいだから。

 夏の暑さ。逃げ水が見える。気が狂いそうなほどの切ない、懐かしい景色。

 それは写真だった。あのころのままを写し出す一枚の写真に、切手とともに、湊の名があった。写真の景色とは裏腹に、雨音が響く。その日は土砂降りの雨だった。

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