水に流す
蒸気に包まれたこのシャワールームに、今日もシャンプーと一緒に濁色の泡が流れていく。灰色の日もあれば紫色の日もある。少量の時もあれば大量の時もある。今日起こった嫌なことを全てなかったことにする。水に流す。
たとえば今朝、おでこに小さなニキビが出来ていたこと。たとえば今日、変な人に会ったこと。たとえば今日、体重が増えていたこと。私にはそれら全てが必要のない、無駄なもの。それらをまとめて洗い流す。私にとってそれはたやすいものだった。
目をつぶって、今日あったネガティブなことを思い出す。頭のてっぺんからシャワーを浴びて、そっと目を開けると、まるで皮をむいた卵のように清められた自分に生まれ変わる。ニキビは消え、変な人と会ったことも忘れ、体重も減っている。
濁色の泡が排水溝の中に流れていくのを見届けてシャワールームから出ると、そこにはいつもの完璧な私が鏡に映っている。顔も美人。スタイルも完璧。非の打ちどころなんてない。強いて言えば、完璧すぎるところかな。そのせいで裏ではクラスメイトから陰口を言われているのも知っている。でもそんなもの、シャワーを浴びればどうってことない。また可愛くて綺麗で完璧な私に戻るのだから。
いつからこんな体質になったのかと聞かれても、いつの間にかとしか答えようがない。小さい頃はみんな私のように、シャワーを浴びればその日の嫌なことを忘れられるものだと信じていた。ある友達が「昨日めんどうくさくってさぁ」なんて切り出しても、シャワーで洗い流せばいいじゃんとしか思わなかった。
私の身体が特殊なんだって気付いたのは、多分中学校に入った頃だろう。ある時、お風呂上がりに体重計に乗ってみると一気に五キロも痩せていたし、ニキビも消えて綺麗なお肌を手に入れたし、先生に怒られたことだって次の日に友達が教えてくれるまで忘れていた。その友達が何かを悩んでいたようだから「シャワーを浴びたらいいじゃん」って思いっきり答えてあげたら、「そんなんで解決したら苦労しない」って言われた。多分、その瞬間だ。私が自分の身体が特殊だと気付いたの。
毎朝の洗顔では決してなくならないニキビも、シャワーが流してくれる。もしかしたら私の身体が特殊なんじゃなくて、いつも入っているシャワールームが特殊なのかも。どちらにしても私が完璧であり続けるためにはありがたいことだ。
ドアを開けて、今日も歩いて高校へと向かう。強烈な太陽光が私を出迎えてくれる。子供の頃に描いた絵のように、私の周りにあるものはみんな笑顔で私だけを迎えてくれる。そんな手厚い歓迎に日傘をさして、高校までの通学路を歩き始める。
雀のさえずりが聞こえるけど、私の噂話かしら。なんてメルヘンな気分になりながら登校していると、次々に自転車組が私を追い越して行った。あんなのに乗っていたら汗をかいてしまうじゃない。今は夏休み前のテスト週間。こうやって日傘をさしてゆっくり登校すればいいのに。ドンマイとしか言いようがない。
とろけそうなアスファルトの上を、私の綺麗なローファーが優雅に滑るように進んでいく。眩しい太陽に照らされている校門をくぐろうとしたその時、後ろから何者かに肩をポンと叩かれた。ビクッとしてしまったが、どうせ私のファンだろうと一瞬で判断し、振り向いてみた。
なんだ、この人。
第一印象はまさにそれだった。ひょろっとした小枝みたいな体の線からは生命力が感じられない。白髪交じりの長い髪のせいで男か女か分からない。背は確かに高いが猫背のせいで首長竜みたい。なんだ、この人。私に憧れるのはいいけど、それなりの容姿でいてほしい。でも、私は完璧な人間。この人を無視せずに話だけでも聞いてあげたら、周りからはいい子だって思われるかもしれない。さらに私の評価が上がる。仕方がない、いい顔するか。
「なんですか?」
「あ、あの、パンフレットを配っておりましてね。精密機械とかって興味あったりしますぅ?」
中途半端に声変わりしているせいで、この人が男性だと分かった。いや、その前に女子高に精密機械の企業のパンフレットを持ってくるなんてありえない。あぁ、早くシャワーを浴びたい。
「えっ、なんですか、それ! すごぉい! これなんてすごく小さいんですね!」
広げられたパンフレットを見て、適当に感想を並べる。私のこの笑顔と美声を駆使すれば、こんな適当な感想にも花が咲くというものだ。現に、目の前の男も喜んでいるようだし。
「いやぁ、今朝早くから配ってるけど、こんなに興味を持ってくれるとは思わなかったよ」
別に興味があるわけではない。
「まさに日本の技術力のたまものですね! これからも頑張ってくださいね!」
首をかしげて必殺の笑顔。はぁ、朝から疲れる。
笑顔で手を振る細長い男。私に会えて、良かったね。
校舎の中でも、いつもこんな感じである。うちの女子高の隣には野球で有名な高校があって、それを窓からのぞいたりしているのだが、私の次に可愛いある友達が「あの野球部員、どんくさいよね」なんて言っても「一生懸命頑張ってるよねぇ」などと返答する。そのたびに「優しいねぇ」とか言われたりして日々を過ごしている。最近太ったと訴えてくる女友達には、「一緒にダイエット頑張ろう!」と励ましたり。ま、私にとってのダイエットはシャワーだけだから頑張るまでもないけど。どうやってそのプロポーションを維持しているのって聞かれることもたまにあるけど、「シャワーしてます」としか答えられない。でも変人だと思われるのは嫌だから、適当にジョギングしてるだのサプリメントをためしているだの色々嘘をついている。それでも友達は喜んでくれるから、悪い気は一切しないけど。
そんな私にも、一応悩みというものは存在する。毎日必ずシャワーで流してはいるもののどうしてもとれない悩みごと。それは“この能力が無くなったらどうしよう”というものだ。ということで、一応毎週一回は精神科に行って診てもらっている。医師もどうしようも無いものなのだが、そこに行くという行動自体が私の悩みを和らげてくれる。でもそこのお医者さんが、シャワーで流す対象だったりする。
「えっとですね、最近また何か変わったことなんかありますでしょうか?」
無駄に大きい目をさらに大きく見せながら私の顔を覗き込むお医者さん。クーラーが必要以上に効いているためか汗臭くはないが、炎天下の下で一緒にいたいとは思えない。二メートルを超す身長と、どこの横綱かと思わせるような体つき。もちろん首は見えない。白衣をここまでピチピチに着てみせるのは、目の前にいるお医者さんただ一人だろう。
「特にそう変わったことは無いんですよぉ。シャワーの件以外は」
「不思議な体質なんですねぇ」
「えぇ」
だからここに来てんだっつぅの。
「じゃ、今日も精神安定剤出しとくから。一応ね。はいっ、じゃあいいですよ」
結局いつも通り何も無いまま家に帰る。お医者さんはこれからいつものようにダンス療法とか言って入院患者さんのもとに駆け付けるのだろう。世の中には変わった人がいるものだ。人の事言えないけど。
家に帰る途中の道で、大きな部活カバンを肩から下げている集団と遭遇した。汗と制汗剤のまざったにおい。黒い学生帽の坊主たち。隣の高校の野球部だ。まだ夕方をちょっとすぎたくらいなのに、なぜだろう。帰りがずいぶん早い。私たちと同じように、テスト週間だろうか。
「お疲れ様です!」
駆け寄って、可愛らしくその集団に声をかけてみる。すると私という美女の可愛らしい声に反応し、何人もの野球部員が振り返った。その中には、あのどんくさい下手くそ部員もいた。
どこからともなく湧く歓声。それもそうだろう。私のような美女が目の前に立っているのだ。その中で最も背の高い、お調子者そうな男が声高らかに叫んだ。
「おいおい、誰の彼女だよぉ!」
その一声に、またも歓声がわく。この人たちの盛り上がりようといったら半端ではない。さすが野球部である。とはいえ、私は誰の彼女でもない。むしろ彼氏なんていらない。私はみんなの良い子なんだから。
勝手に身内だけで盛り上がる野球部員たち。さてさて、ここらで社交辞令を入れておさらばしようか。
「いつも頑張ってる姿を見させてもらってますよ。夏の大会、頑張ってくださいね! 応援してます!」
我ながら爽やかだ。これでこの野球部員たちも元気が出たことだろう。またファンが増えてしまったようだ。
不意にあのどんくさい部員と最後に目が合った。意外としっかりした体つき。少年のような笑顔。うん、爽やかだよ少年。といっても自分と大して歳が変わらないのに上から目線になってしまった。上目遣いは必殺技として使えるけど、上から目線だと嫌われてしまう。ということで上目遣いでちょっとだけ微笑んで、そのままその場を後にした。
帰宅と同時にすぐさまお風呂に直行。今日あったことを思い出しながら、悪いものを排除していく。蛇口をひねってお湯を出し、少しぬるめに調節する。その心地よいぬるま湯でひと通り身体を清潔にすると、心を清潔にする作業に入る。
今朝また出来ていたニキビの感触を思い出してシャワーを浴びる。やがて乳白色の泡が排水溝へと流れ、あったはずのニキビは跡かたも無く消えた。
次はあの細長い影の薄そうな男性。頭に思い浮かべるほど気持ちが悪い。やがて深緑色の泡が排水溝へと流れて行った。
今度はお医者さん。また来週も会うけど、それまでは記憶の中から消しておきたい。大嫌いな脂肪を思い浮かべていると、肌色をした大量の泡が排水溝に吸い込まれていった。
最後に、あのどんくさい野球部員。これと言って嫌な部分があるわけではないけど、私の頭の中には必要ないから。爽やかな笑顔を思い浮かべていると、水色の泡が排水溝に流れて行った。……と思った。が、実際には何も流れていなかった。確かに思い浮かべたのに、なんでだろう。やはり強い嫌悪感がないといけないのだろうか。まあいいか。明日また試そう。
だが、次の日もまた次の日も、あのどんくさい野球部員の顔は消えてなくならなかった。もっと強く嫌悪の想いを抱こうと毎日のように窓から練習風景を眺めた。だがどうしてもシャワーで流せない。イライラして仕方がない。あれから一週間がたったが、まだ消えない。それどころか、何もしていないときに限って、不意にあの野球部員の顔が思い浮かんだりする。はっきり言って迷惑だ。胃もムカムカする。あの野球部員の顔をなんとか記憶の中から消そうとするあまり、他の嫌な部分を洗い流す時間も無くなった。あんなに綺麗でスベスベだった顔にはニキビであふれ、腰回りには贅肉が付き始めた。恐れていたことが現実に起きてしまったのだ。
慌てて病院に駆けつける。が、休診日で誰もいなかった。ニキビがこんなに痒いものだなんて知らなかったし、贅肉がこんなに重たいなんて知らなかった。こんな私を見られてはいけないと瞬時に判断し、誰も通らないような道をこそこそと進んだ。目的地はもちろん自分の家。シャワーがあてにならないとしても、このまま外にいるのは怖い。いつもは通らない路地裏を通って、住宅地という迷路を蛇のように縫って歩く。
最後の角を右に曲がったらやっとうちに着くというところで安心しようかと思ったその瞬間、どこかで見たことがある人物とすれ違った。ぼさぼさで白髪まじりの長髪。細長い身体。猫背。どこかで見たことがあるような気がしたが、思いだそうとするほどどんどん頭の中で遠のいていく。ということは、いつかどこかで会ったけどシャワーで流してしまった中の一人だろうか。だとすれば思いだす必要はない。そう考えた私は特に気にもかけず会釈だけして通り過ぎようとした。
「あ、お久しぶりですね!」
ん? この声は聞き覚えがある。草原を通り抜ける爽やかな風のように澄んだ声。ふと横を左側を見ると、そこにはがっちりとした筋肉質な身体と少年のような笑顔があった。あのどんくさい野球部員だ。
「あ。どうも」
完璧じゃない今の私の姿を見られたというだけで冷や汗が流れる。いや、こんな人に完璧な姿を見せたところでどうってことはない。そんなこと自覚している。でも、なぜか完璧じゃない今の私の姿を見られたくないというもう一人の自分が確かにいる。でも、この場からはなぜか離れたいとは思わない。
「最後の夏の大会の日程、決まりました。明後日の第一試合、紅葉高校とです。僕はベンチに入れなかったのですが、一生懸命スタンドから応援しようと思います。あ、球場は――」
一生懸命、私に向かって一直線に語っている。そこまで気合い入れなくても伝わるのに。むしろ私の方が耳を傾けるのに。
「そうなんですかぁ。その日は時間があるので、応援に行かせてもらいますね!」
「え、本当ですか? ありがとうございます!」
どんくさい野球部員のさわやかなあいさつに、私も心の中が澄んでいくような気がする。その後簡単に挨拶を交わして連絡先まで交換してしまった。私の携帯の中に、あのどんくさい野球部員のアドレスが入っている。そう思うとあんまり澄んだ気持ちにはなれない。でも、シャワーの時のようにためらわないままそれを消去することはなかった。
「明後日、かぁ」
シャワーの最中、さっきのどんくさい野球部員の顔がまた出てきて心を揺すった。今日こそは何が何でもこのニキビと脂肪と日々の嫌なことを流しつくしてやる。そう決意していた。でも、どんくさい野球部員がそれを邪魔する。いつでも出てきて、私の邪魔をする。でもなぜかうんざりしない自分がまた腹立たしい。
だが私は思いついた。そもそもあのどんくさい野球部員の顔を消そうとしなければいいわけだ。なぜこんな単純なことを今まで思いつかなかったのだろう。自分でも不思議である。
思いついてからは事が進むのが早かった。ニキビは一瞬で乳白色の泡の塊になって排水溝に流れていったし、贅肉も黒い泡になって流れていった。やっぱりシャワーは壊れてなかった。自分が壊れていたのだ。といっても自分で壊れてたなんて認めたくはない。ていうかなんで私はこんなこと考えているのだろう。私は綺麗で可愛くて完璧。それ以外のなんでもない。うじうじしているなんて私らしくない。もう何もかも洗い流したのだ。何も臆することはない。胸を張って明後日、球場に向かえばいいのだ。
ん? 球場?
なんで球場なんか。あんなどんくさい爽やか野球部員のために。
強制されてるわけじゃないんだから、別に行かなくてもいいのに。
なんで私は行く気満々なんだろう。
ていうかそもそもなんであんなどんくさい爽やか野球部員の顔がこの間もずっと浮かんでくるのだろう。
もう頭がこんがらがってきた。今日は早く寝よう。
最後にこのモヤモヤを洗い流そうと思って頭から思い切り冷水シャワーを浴びたが、どうしても流れてはくれなかった。
そしてとうとうあのどんくさい爽やか野球部員の公式戦の日を迎えた。
私は完璧な外見を取り戻し、いつもの調子を取り戻しつつあった。だが、心の中のあのモヤモヤだけはまったく流れる気配を見せず、いつまでも居座っている。外見は完璧でも、内側に少しでも欠陥があると調子が狂う。
お気に入りの日傘をさして球場まで出向くと、外野に生い茂る緑の芝にあの野球部員たちが寝転がってストレッチしていた。私はそれを横目に、応援席の一番端っこに腰かけた。こうして座っているだけでも暑いのに、こんな日に野球なんかして何が楽しいのだろう。私には分からない。家から持ってきた麦茶を一口飲んで、白のハンカチで額の汗をぬぐう。
と、そこに見覚えのある男を見つけた。細長くて猫背で、白髪まじりの頭がぼさぼさ。名前はなんだったか忘れた。というか多分知らない。
「お隣、空いてますか?」
男は私におびえるように聞いてきた。私はいつものように可愛い笑顔をしながら丁寧に接してみた。
「あ、どうぞどうぞ」
へこへこと頭を下げて座る男。私は気にせず、そのまま野球部員たちのストレッチを眺めていた。
ブラスバンドがあわただしく準備を進める。応援団長は大きな声で叫びながら、制服の応援団を鼓舞している。ストレッチをしていた野球部員たちはキャッチボールをはじめ、対する相手はベンチの中で休んでいる。相変わらず太陽は元気で、太陽こそもう少し休んでくれたらいいのに。なんて。
あのどんくさい下手くそ野球部員は、応援団の一番前で声を張り上げている。何がそんなに楽しいのか分からないが、とにかく少年のような笑顔はやはり健在でキラキラしている。きっと誰よりも純粋で真っすぐなのだろう。ホント、子供みたい。悪い意味ではないけれど。
そうこうしているうちに、試合が始まってしまった。青と白のユニフォームの野球部員たちが必死になってボールを追いかけている。相手のユニフォームはエンジ色。エンジ色の方が炎が燃えているようなイメージを持つが、元気や覇気はない。青と白のユニフォームのほうがバカみたいに声を出して盛り上がっている。ヒットを一本でも打てばお祭り騒ぎ。肩を組んで歌ったりしている。まったく、このテンションにはついていけない。私はまたカバンからお茶を取り出して、誰にも見られていないのを確認して、勢いよくのどに流し込んだ。
額の汗をぬぐおうとハンカチを取り出した時、タオルで顔全体をぬぐいながら、巨体が走ってきた。あの巨漢のお医者さんだ。なぜこんなところに現れたのだろう。
「お医者さん、こんにちは!」
いつものように、一応あいさつをしておく。
「あれ、なんでここに?」
それはこっちのセリフだ。
「一生懸命頑張ってる野球部の応援に来てるんです。毎日毎日、よく頑張ってるなぁって思って。つい見に来たくなっちゃったんです」
「そうなのかい。いい子だねぇ」
よし、これで好感度は保たれたっと。
「お医者さんこそどうしてここに?」
私の大嫌いな脂肪が大きく揺れる。なぜか体全体を使って“この野球部の中に私の患者がいるから”というのを表現している。この人はどこまでダンスが好きなんだ。あぁ、帰ったらさっそくシャワー浴びよ。
そうこうしている間に試合はどんどん進んでいた。回を追うごとにさらに盛り上がり、球場全体を声援が飲み込んでいく。圧倒的な強さをみせつけているこちら側の応援団の中には、我を忘れて応援するあまり熱中症になって倒れる人々もちらほらと出てきている。高校野球ってこんなにすごいことになるなんて想像もしていなかった。河川敷の少年野球のような風景を想像していた私は、予想外の光景の連続に徐々にのめり込んでいった。
隣の細長い男は、私とは違うところをずっと眺めていた。相手チームのチアガールでも見ているのだろうか。一点を瞬きもせずに見続けている様子が気持ち悪い。と思ったが見当違いだったようだ。目線の先を追っていくと……あのどんくさい野球部員?
なんであのどんくさい野球部員を見ているのだろう。そのほうがもっと気持ちが悪い。そう思った矢先、男は静かに口を開いた。
「弟は最後までベンチ入りならず、か……」
なに言ってるの、この人。もしかしてあのどんくさい野球部員のお兄さん? どう見たって家族には見えないほど似ていない。
気持ち悪いから席を替えようかとも思ったが、試合がもうすぐ終わりそうなのに今さら移動するとか変な人にだって思われそうで嫌だ。
試合は終盤に差し掛かっている。といっても、点差がつきすぎてコールドゲームになりそうなだけだが。スコアボードを見て一目瞭然。そこまでにしてあげて、なんて言いたくなるほど容赦ない攻撃。さすがあれだけの練習量。どんくさい下手くそ野球部員がこの中に入れないのもうなづける。
でも、一度でいいから見てみたいな。あのどんくさい下手くそ野球部員が試合にでるとこ。
いつの間にか私はスコアボードから目をはずし、あのどんくさい野球部員の顔を眺めていた。本当に無邪気な少年の笑顔。あの笑顔を、あと何回見られるのだろう。そういえば偶然すれ違ったあの日、最後の夏の大会って言ってたっけ。ってことは、もうあと何回かしか見られないわけか。そう思うと途端に気分が沈んでいった。早くシャワーを浴びて忘れよう。なんで私がこんなに苦しまなきゃいけないの。バカみたい。
試合のほうは、あっけないほどあっさりと終わった。時間にして約一時間半。その間、私は何回あのどんくさい野球部員の顔を見ていただろう。日傘を差したまま腰を上げ、応援席を後にする。球場の外は応援していた人や次に試合をするチームやその応援団で埋め尽くされていた。外見が完璧な私は、別に人混みが嫌だとかそういうわけではなかったが、今日は後ろを振り向くこともなく一目散に家に帰った。
早くシャワーを浴びたい。シャワーを浴びてあのどんくさい野球部員の存在まで全て忘れてしまいたい。玄関の近くにあるシャワールームにすぐ向かい、綺麗で可愛い洋服のままシャワーを浴びた。
お医者さんや気持ちの悪い男はすぐに消えていったが、やはりあのどんくさい野球部員が消えてくれない。力の限り頭をかきむしり、水のままのシャワーをかぶる。なんなの、なんでなの。なんで消えていかないの。頭の中が訳分からなくなる。あのどんくさい野球部員のことが頭の中に出てくるたびに思考が停止してしまう。こんなの私らしくない。
しばらくあがいてみたがどうにもならず、じっとシャワールームの中に座り込んでいると、身体がだんだん冷えてきた。いっそのこと私自身が泡になって消えてしまえばいいのに。もはやどんなに外見が完璧でも身体の内側からの自信が出てこない。
どんくさい野球部員を消そうとしなければ大丈夫と思ったが、消そうとしなければしないほど存在が大きくなって他の事を考えられなくなる。だれかに相談しようにもあてになりそうな人はいない。いつも愛想よくふるまっていた分、真の友達というのがいなかった。そんなの完璧じゃない、今から親友を作ればいいのよ! という強い気持ちは、今ではもう湧いてこない。どんどん沈んでいく。ため息がわりにクシュンとくしゃみが出てきて、私はびしょびしょのままシャワールームを後にした。
「それは恋でしょ、絶対」
真っ白な診察の真ん中で、目の前の巨漢のお医者さんが笑いながらそう言った。私にはそれがバカにしているようにしか見えなくて、プライドが傷ついた。
思えば今まで本気で人を好きになったことはなかった。さすがに外見が完璧すぎるので好きではなくても付き合ってあげることはあったけども、誰かを好きになるというのがどんなものなのか、私は知らなかった。
ということはこれが恋というものなのだろう。もっと綺麗な、きらびやかな、可愛らしいものだと思っていたが、実際は苦しくてあんまり気分が良くない。みんないつもこんなのを嬉しそうに話しているのか。変なの。
でも、恋って断言されたおかげでだいぶ気が楽になったことは確かである。ふわふわするような気分ではないが、あのどんくさい野球部員に会ってみたいと思い始めてきたから不思議である。連絡先の番号をもらってから一度も電話していないが、今日あたり連絡してみようか。
家に帰って、さっそく電話番号を携帯電話に登録した。でも問題はここからである。まず、別に恥ずかしくも何にもないのに電話をしてはいけないような気がしてくる。もしかしたらテスト前だし勉強してるかも。もしかしたら今は野球の自主練中なのかも。もしかしたら彼女と話しているかも。悪い方向にばかり想像してしまい、結局電話をかけることはなかった。いや、出来なかった。外見は誰もが認めるほど完璧だけど、こういう部分で内側がいかにもろいのかが自分で分かって悔しい。悔しいけれどどうしようもできない。腹が立つ。イライラする。これは本当に恋なのだろうか。ため息が出る。
インターネットで次の試合の日程を調べたら、なんと平日の午前中だった。しかもちょうどテストとかぶっている。これでは試合を観に行けないじゃない。仕方がないから、本当はいけないけど机の中に携帯電話を隠してこっそり速報を見ていよう。もしかしたら、応援席の様子とかなんとか言ってあのどんくさい野球部員が写真にうつるかもしれない。楽しみにしていよう。
そして当日。テスト勉強にはもちろん集中できなかったから問題もほとんど解けなかった。完璧な私は今まで学力でも上位だっただけに、これは正直悔しい。そもそもあのどんくさい野球部員に出会ってからというもの毎日悔しい思いをしているような気がする。みんなあのどんくさい野球部員のせいだ。絶対。と心の中では思いつつ、携帯電話で速報をチェックする。現在、三回裏。どちらとも得点なし。相手は強豪。勝てたらいいな。勝てたらもう一度、あのどんくさい野球部員の最高の笑顔を生で見ることが出来そうだから。
休憩時間は参考書を読むふりをして速報をチェックする。現在、七回表。未だにどちらも得点なし。さすが強豪同士。こんな試合に勝てたら喜びも倍増である。
しかしあってはならないことが起こってしまった。午前中最後のテストのときに速報をチェックすると、相手チームに三点も得点が入っていた。現在、八回裏。もうほとんど後がない。焦る気持ちがテストにも響き、まったく集中できない。そのままテストが終わり、すぐさま速報をチェック。するともう試合は終わっていた。テストと同様、試合の方も三対〇で負けてしまっていた。
ということは、もうあのどんくさい野球部員の笑顔も見られないというわけだ。そんなことを思うと急に今までの焦りが嘘みたいに、怪しいくらい落ち着いた。確かに登下校の際にもしかしたら会うことはあるだろう。でも、球場でしか見られない、野球に対してのあの笑顔はもう見られないのだ。少女マンガみたいに“その笑顔を私に向けさせてやる!”なんてことはなく、ただただ重苦しい胸をさするくらいしかできない。昼休憩も魂が抜けたように何も喉が通らなくて、もちろん午後のテストも集中できなかった。
放課後、いつものように教室の窓から隣の高校の野球部の練習風景を眺めていた。ついさっき敗戦したというのに、相変わらず元気な野球部員たちだ。だがその中にあのどんくさい野球部員の姿はない。もう引退してしまったんだ。窓枠に片肘をついて頬杖する。もっと早くこの気持ちに気づいていたらなぁ。そしたらもっともっと近づけたのかもしれない。終わったことにつべこべ言うのはあまり好きではない。でも、はじめてこんなに後悔してしまったのだからもう止まらない。タイムマシンがあれば、なんてありきたりだけど、今は誰よりそれを望んでいる私。
そのままトボトボと家に帰り、自分の部屋でぼぉっとして過ごした。結局あの連絡先はあのまんま。何も行動を起こせていない。なんとなく手に取ってみたはいいけど、なんだか今さらもう遅いような気がして仕方がない。くしゃっと手の中で握りつぶして、そのまま枕元に放置した。
その晩、私は連絡先が書かれたメモを、シャワールームで細かくちぎって流した。ついでにあのどんくさい元野球部員のことも全て無かったことにしようと、シャンプーと一緒に洗い流した。あんなに取れなかった想いの塊はいとも簡単に桃色の泡々に変わり、排水溝に向かってゆっくりと流れ始めた。つい何時間か前の私ならばここでバカみたいに泡をすくって頭に塗りなおしていたかもしれない。でも今の私はそんなことをするつもりはない。なんかもう、ふっきれてしまったのだ。私にとってはなかなか不思議な日々だったけど、恋ってものがなんなのか、数パーセントでもなんとなく感じられただけ成長したと思う。あのどんくさい元野球部員のことを最後に少し感謝しつつ、今までの日々を全て。
水に流した。