はじまりは穏やかで優しい青空の下で
あれは春。
空があまりにも青くて綺麗で、見とれて、気付いたら一人だった。さっきまで側にいた母さんも兄弟もいなくなっていた。
『母さーん、母さーん、俺はここだよ、どこ行っちゃったんだよー』
必死に叫んだけど、母さんは戻って来ないし、行き交う人も誰も止まってはくれない。
『母さーん、母さーん、置いてかないでよー』
何度目か叫んだ時、ひょいっと体が持ち上がって、さっき見上げた青い空が目の前にあった。
「どうしたの? お腹すいたの?」
そう言って、俺の顔を覗き込んで優しい声で聞いてきたのは、ワンピースを着た女の人。青い空だと思ったのは、空じゃなくて空色のワンピースだった。
クンッ、と鼻を利かすといい匂いがして、掴まれた体をジタバタする。
女の人はそっと俺を地面に置くとしゃがみこんで、腕にかけていた鞄と紙袋を置いた。俺はクンックンッと匂いをかぎ、紙袋に近づいて前足の爪を立てた。
「あっ、これ?」
女の人はくすっと笑って、紙袋からいい匂いのするチキンを出して、ほぐして地面に置いてくれた。
俺は置かれたチキンにかぶりつく。
『おいしい、おいしい』
「やっぱりお腹すいてたのね。ねえ、お母さんは側にいないの?」
『母さんと兄ちゃん達、どこか行っちゃった』
「やっぱり、一人なのかな?」
チキンを全部食べてから、俺は女の人に聞いた。もちろん、その答えを知ってるはずはないだろうけど。
『ねえ、母さん知らない?』
「うーん、近くに母猫もいないみたいだし、こんなにちっちゃいのに一人で置いてくなんて……ねえ、私の家に来る? 私も一人なのよ。私がお母さんの代わりになってあげる」
そう言ってにこっと笑うと、もう一度俺を抱き上げ、優しく撫でてくれた。そのぬくもりに安心感を覚える。
『……母さん?』
※
ガサガサ。
音を立てて、紙袋の中から顔を出す。母さんは、俺と出会った路地で俺をチキンの入っていた紙袋に入れて、ちょっと用事があるからと言って学校に向かった。
「美央子、なんか紙袋から音するけど……」
「ああ、実はね」
そう言って、母さんが紙袋を引き寄せたから、俺はバランスを崩して紙袋の底に転がった。母さんの手が紙袋の中に入ってきて、俺を抱き上げる。
「じゃーん、可愛いでしょ」
「きゃー、可愛い仔猫! どうしたの?」
「さっき拾っちゃった」
「拾ったって……どうするのよ? 美央子、一人暮らしでしょ? 飼えるの?」
母さんの隣に座ってた女友達が俺を母さんから受け取って抱く。
「うん。実家で猫飼ってたし、うちのアパート、ペット可だから」
「へぇーそうなんだ、よかったね猫ちゃん、美央子が飼ってくれて」
俺を抱っこした友達が、俺を目の高さまで持ち上げて、笑いかけてきた。俺もそれに答えるように鳴いた。
「にゃあー」
「名前はもう決めたの?」
「ううん、まだ。男の子みたいだけど……どんな名前にしようかな。茶色でふわふわして、お菓子みたいだよねー」
「じゃあ、ショコラとかどう? フランス語でチョコレートっていう意味」
「んー、“ガトー”はどうかな? お菓子っていう意味だよね?」
「にゃあー」
母さん、それって美味しいやつ? 美味しいやつだったらいいな。
俺は、母さんに向かって鳴いた。
「いいんじゃない? 猫ちゃん、なんか気に言ってるみたいだし」
友達から俺を受け取った母さんが、優しい声で言う。
「ガトー、今日から君の名前はガトーだよ」
そうして、俺は母さんの家に連れて行かれ、一緒に暮らすようになった。
それから数日後、母さんがとんでもない不器用で、だけど料理好きの母さんが台所に立つと、あっという間に戦場と化すことを知る。
母さんを心配して台所でうろちょろしてた俺は、生まれつきの鼻の良さと食いしん坊な性格で母さんの料理の手助けをする名料理人となる。