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他人の痛みがわからない婚約者に婚約破棄されたので、治癒魔法で「心」を治して差し上げました

作者: α
掲載日:2026/05/18

「君との婚約を破棄する」


 王宮の大広間に、その声は不思議なほどよく響いた。


 楽団の演奏は続いていた。

 人々の話し声と笑い声も、絹のドレスが擦れる音も、硝子の杯が触れ合う音も、何ひとつ止まってはいなかった。


 けれど、わたくしの耳には、もう何も届かなかった。


 目の前に立つのは、わたくしの婚約者だった人。

 エリオット・ルクレール侯爵令息。


 その隣には、淡い桃色のドレスをまとった令嬢が寄り添っている。彼女は不安そうに視線を伏せていたが、その指先はしっかりとエリオット様の袖を掴んでいた。


 周囲の貴族たちがざわめく。


 同情。好奇。嘲笑。

 いくつもの視線が、針のようにわたくしの肌へ刺さった。


 婚約破棄。


 その言葉だけが、頭の中で何度も反響していた。


 涙は出なかった。

 ただ、心の底が沈んでいくのを感じた。


 それでも、わたくしは背筋を伸ばした。


 ここで膝を折れば、きっと彼は、わたくしが傷ついたことすら理解しない。


「……理由を、伺ってもよろしいでしょうか」


 震える気持ちを抑えて出した声は、思ったよりも穏やかだった。


 エリオット様は、少しも表情を変えなかった。


「君に落ち度があったわけではない」


「では、なぜ」


「ただ、私の未来に君は必要なくなった」


 その言葉は、怒りを込めて放たれたものではなかった。

 蔑みでも、嫌悪でもない。


 ただ、書類の不要な項目に線を引くような声だった。


「君は治癒師としては優秀だ。婚約者としても、今までよく務めてくれた。だが、私が隣に置くべき女性は別にいると判断した」


 わたくしの胸の奥が、冷たい水を流し込まれたように痛んだ。


 けれど、痛みはすぐに深い場所へ沈んでいく。


 ああ。

 やはり、この方は最後までそうなのだ。


 エリオット様は昔から、謝罪の言葉を知っていた。

 礼儀も、手順も、貴族としての振る舞いも知っていた。


 けれど、人を傷つけた時に、自分の胸が痛むことだけは知らなかった。


 誰かが泣いても、彼は理由を理解しようとはする。

 けれど、その涙が自分の中に残ることはない。


 わたくしが何度傷ついても、彼は言った。


『君なら理解できるだろう』


 そう。

 わたくしは理解してきた。


 彼が誰かを傷つけても、後悔できない人なのだと。


「承知いたしました」


 わたくしは、静かに礼をした。


 大広間のざわめきが、少しだけ大きくなる。


 エリオット様は、当然のように頷いた。


「理解が早くて助かる」


 その一言で、胸の奥に残っていた何かが、音もなく切れた。


「では最後に、治癒をさせてくださいませ」


 大広間がざわめく。


 当然だ。

 傷つけられた令嬢が、傷つけた相手を癒やすなど、誰が想像するだろう。


「私は怪我などしていない」


「ええ。お身体に傷はございません」


「ならば何を治す」


「あなたが、ずっと痛めなかった場所です」


「意味がわからない」


「わからないから、治すのです」


 わたくしは一歩、彼へ近づいた。


 桃色のドレスの令嬢が小さく息を呑む。

 衛兵が動きかけたが、エリオット様が片手で制した。


 わたくしは、彼の胸元にそっと手を添える。


 治癒魔法の光は、ほとんど見えなかった。

 派手な輝きも、荘厳な音もない。


 ただ、指先から細い糸が伸びて、彼の胸の奥へ沈んでいくような感覚があった。


「これは呪いではありません」


 わたくしは、彼だけに届く声で告げた。


「あなたを壊すためでもありません」


 エリオット様の顔から、少しずつ血の気が引いていく。


「あなたが壊したものを、あなた自身で見られるようにするためです」


 次の瞬間、彼の膝が揺れた。


「……な、んだ」


 彼の声が震える。


「これは、何だ」


 わたくしは手を離さなかった。


 彼の中で、閉じていたものが開いていく。


 夜会の片隅で、わたくしが一人で笑っていたこと。

 彼の失言を、わたくしが陰で頭を下げて回ったこと。

 体調を崩しても、彼のために治癒師として立ち続けたこと。

 彼が別の令嬢を褒めるたび、わたくしが何も言わずに微笑んでいたこと。


 そして、今。


 大勢の前で婚約を破棄されたわたくしが、どれほど息をするのに必死だったか。


 それらが、ただの記憶ではなくなっていく。


 彼の中に、痛みとして戻っていく。


「やめろ……」


 エリオット様が、初めてわたくしの手を掴んだ。


 強くはなかった。

 むしろ、縋るようだった。


「やめてくれ。私は、こんな……こんなものを知らない」


「ええ」


 わたくしは微笑んだ。


「ですから、治しました」


 彼の瞳が大きく揺れた。


 それは、わたくしが初めて見る顔だった。


 侯爵令息の顔ではない。

 優秀な婚約者候補の顔でもない。

 理屈だけで他人を傷つけてきた男が、初めて自分のしたことを理解した顔だった。


「私は……」


 彼は膝をついた。


 大広間に、悲鳴に似たざわめきが走る。


「私は、君に……何を……」


 彼の中に、さらに別の記憶が流れ込んでいく。


 わたくしが、彼の言葉を柔らかく言い換えていたこと。

 彼が無意識に傷つけた相手へ、代わりに頭を下げていたこと。

 彼が「問題ない」と片づけた場を、わたくしが何度も整えていたこと。


 彼の隣が穏やかだったのは、彼が正しかったからではない。


 わたくしが、彼の冷たさを、人の言葉に直していたからだ。


「……違う」


 エリオット様の唇が震えた。


「君は、私の未来に必要なくなったのではない」


 彼は、初めて自分の言葉を恐れるように、胸を押さえた。


「私が……私が、必要だった人の価値を、最後まで理解できなかっただけだ」


 大広間の空気が変わった。


 誰かが息を呑む音がした。

 桃色のドレスの令嬢が、袖を掴んでいた指をそっと離した。


 エリオット様は、そのことにも気づかない。


 彼はただ、わたくしを見ていた。


 初めて。


 本当に初めて、わたくしという人間を見ているようだった。


「リリア……」


 その声は、ひどく頼りなかった。


「私は、君を……」


 言葉が続かない。


 続けたところで、もう何も戻らないことを、彼自身が理解してしまったのだろう。


 わたくしは、ゆっくりと手を離した。


「治りましたね」


「待ってくれ」


 彼は顔を上げた。


 その目には、涙が浮かんでいた。


「私は……私は、君を傷つけるつもりなど……」


「はい」


「知らなかった。君が、そんなふうに……」


「はい」


「すまない。私は、取り返しのつかないことを……」


「はい」


 わたくしは、静かに頷いた。


 そして、告げた。


「これであなたは、もう二度と、知らなかったふりはできません」


 エリオット様の表情が凍りついた。


 謝れば許されると思ったのかもしれない。

 後悔できるようになれば、何かが戻ると思ったのかもしれない。


 けれど、それは違う。


「謝罪は受け取ります」


 わたくしは、婚約者としてではなく、治癒師として彼を見た。


「けれど、あなたが後悔できるようになったことと、わたくしがあなたの隣へ戻ることは、別の話です」


「待ってくれ、リリア」


 彼が、わたくしの名を呼んだ。


 その響きに、胸が小さく痛んだ。


 でも、もう足は止まらなかった。


「さようなら、エリオット様」


 わたくしは礼をした。


「どうか、これからは後悔できる人でいてください」


 そう言って、彼の前から離れた。


 大広間はまだざわめいている。

 誰もわたくしに近づこうとはしなかった。


 当然だろう。


 傷つけられた令嬢が、傷つけた男を治した。

 それなのに、誰もそれを慈悲とは呼べなかった。


「あれは治癒か」


 誰かが、小さく呟いた。


 わたくしが扉へ向かおうとした時だった。


「違う」


 低い声が、ざわめきの奥から落ちた。


 振り返る。


 黒衣の男が、柱の影に立っていた。


 夜会の灯りの中にいるはずなのに、その人だけが深い夜をまとっているようだった。


「治癒の形をしているが、あれは違う」


 男は、膝をついたままのエリオット様を一瞥し、それからわたくしを見た。


「あれは、もっと丁寧で、もっと残酷な断罪だ」


 大広間のざわめきが、ほんの一瞬だけ遠のいた気がした。


 その目は、笑っていなかった。


 責めているようでもない。

 哀れんでいるようでもない。


 ただ、わたくしの胸の奥を、まっすぐ見抜くような眼差しだった。


 見抜かれた。


 慈悲ではなかったことも。

 復讐だったことも。

 それでも、わたくし自身がまだ傷ついていることも。


「治癒師令嬢」


 黒衣の男は、静かに言った。


「君は、あの男の痛まなかった場所を治した」


 彼の視線が、わたくしの手袋へ落ちる。


 先ほどまで、エリオット様の胸に触れていた手。


「では、君自身の痛みは誰が治す」


 その言葉に、胸の奥が小さく震えた。


 わたくしは、何も返せなかった。


 治したはずだった。

 終わらせたはずだった。

 もう、振り返らないと決めたはずだった。


 なのに、その一言で、押し込めていた痛みが静かに息を吹き返す。


 ヴァルデミアス殿下。


 冷酷と呼ばれる、王家の異端。


 その日、わたくしは初めて、わたくしの復讐を慈悲と呼ばなかった人に出会った。


 そして同時に、わたくし自身の傷を見逃さなかった人に出会った。


 あの夜、わたくしは婚約を失った。


 けれど、わたくしの価値まで失ったわけではなかったのだと、ようやく思えた

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