他人の痛みがわからない婚約者に婚約破棄されたので、治癒魔法で「心」を治して差し上げました
「君との婚約を破棄する」
王宮の大広間に、その声は不思議なほどよく響いた。
楽団の演奏は続いていた。
人々の話し声と笑い声も、絹のドレスが擦れる音も、硝子の杯が触れ合う音も、何ひとつ止まってはいなかった。
けれど、わたくしの耳には、もう何も届かなかった。
目の前に立つのは、わたくしの婚約者だった人。
エリオット・ルクレール侯爵令息。
その隣には、淡い桃色のドレスをまとった令嬢が寄り添っている。彼女は不安そうに視線を伏せていたが、その指先はしっかりとエリオット様の袖を掴んでいた。
周囲の貴族たちがざわめく。
同情。好奇。嘲笑。
いくつもの視線が、針のようにわたくしの肌へ刺さった。
婚約破棄。
その言葉だけが、頭の中で何度も反響していた。
涙は出なかった。
ただ、心の底が沈んでいくのを感じた。
それでも、わたくしは背筋を伸ばした。
ここで膝を折れば、きっと彼は、わたくしが傷ついたことすら理解しない。
「……理由を、伺ってもよろしいでしょうか」
震える気持ちを抑えて出した声は、思ったよりも穏やかだった。
エリオット様は、少しも表情を変えなかった。
「君に落ち度があったわけではない」
「では、なぜ」
「ただ、私の未来に君は必要なくなった」
その言葉は、怒りを込めて放たれたものではなかった。
蔑みでも、嫌悪でもない。
ただ、書類の不要な項目に線を引くような声だった。
「君は治癒師としては優秀だ。婚約者としても、今までよく務めてくれた。だが、私が隣に置くべき女性は別にいると判断した」
わたくしの胸の奥が、冷たい水を流し込まれたように痛んだ。
けれど、痛みはすぐに深い場所へ沈んでいく。
ああ。
やはり、この方は最後までそうなのだ。
エリオット様は昔から、謝罪の言葉を知っていた。
礼儀も、手順も、貴族としての振る舞いも知っていた。
けれど、人を傷つけた時に、自分の胸が痛むことだけは知らなかった。
誰かが泣いても、彼は理由を理解しようとはする。
けれど、その涙が自分の中に残ることはない。
わたくしが何度傷ついても、彼は言った。
『君なら理解できるだろう』
そう。
わたくしは理解してきた。
彼が誰かを傷つけても、後悔できない人なのだと。
「承知いたしました」
わたくしは、静かに礼をした。
大広間のざわめきが、少しだけ大きくなる。
エリオット様は、当然のように頷いた。
「理解が早くて助かる」
その一言で、胸の奥に残っていた何かが、音もなく切れた。
「では最後に、治癒をさせてくださいませ」
大広間がざわめく。
当然だ。
傷つけられた令嬢が、傷つけた相手を癒やすなど、誰が想像するだろう。
「私は怪我などしていない」
「ええ。お身体に傷はございません」
「ならば何を治す」
「あなたが、ずっと痛めなかった場所です」
「意味がわからない」
「わからないから、治すのです」
わたくしは一歩、彼へ近づいた。
桃色のドレスの令嬢が小さく息を呑む。
衛兵が動きかけたが、エリオット様が片手で制した。
わたくしは、彼の胸元にそっと手を添える。
治癒魔法の光は、ほとんど見えなかった。
派手な輝きも、荘厳な音もない。
ただ、指先から細い糸が伸びて、彼の胸の奥へ沈んでいくような感覚があった。
「これは呪いではありません」
わたくしは、彼だけに届く声で告げた。
「あなたを壊すためでもありません」
エリオット様の顔から、少しずつ血の気が引いていく。
「あなたが壊したものを、あなた自身で見られるようにするためです」
次の瞬間、彼の膝が揺れた。
「……な、んだ」
彼の声が震える。
「これは、何だ」
わたくしは手を離さなかった。
彼の中で、閉じていたものが開いていく。
夜会の片隅で、わたくしが一人で笑っていたこと。
彼の失言を、わたくしが陰で頭を下げて回ったこと。
体調を崩しても、彼のために治癒師として立ち続けたこと。
彼が別の令嬢を褒めるたび、わたくしが何も言わずに微笑んでいたこと。
そして、今。
大勢の前で婚約を破棄されたわたくしが、どれほど息をするのに必死だったか。
それらが、ただの記憶ではなくなっていく。
彼の中に、痛みとして戻っていく。
「やめろ……」
エリオット様が、初めてわたくしの手を掴んだ。
強くはなかった。
むしろ、縋るようだった。
「やめてくれ。私は、こんな……こんなものを知らない」
「ええ」
わたくしは微笑んだ。
「ですから、治しました」
彼の瞳が大きく揺れた。
それは、わたくしが初めて見る顔だった。
侯爵令息の顔ではない。
優秀な婚約者候補の顔でもない。
理屈だけで他人を傷つけてきた男が、初めて自分のしたことを理解した顔だった。
「私は……」
彼は膝をついた。
大広間に、悲鳴に似たざわめきが走る。
「私は、君に……何を……」
彼の中に、さらに別の記憶が流れ込んでいく。
わたくしが、彼の言葉を柔らかく言い換えていたこと。
彼が無意識に傷つけた相手へ、代わりに頭を下げていたこと。
彼が「問題ない」と片づけた場を、わたくしが何度も整えていたこと。
彼の隣が穏やかだったのは、彼が正しかったからではない。
わたくしが、彼の冷たさを、人の言葉に直していたからだ。
「……違う」
エリオット様の唇が震えた。
「君は、私の未来に必要なくなったのではない」
彼は、初めて自分の言葉を恐れるように、胸を押さえた。
「私が……私が、必要だった人の価値を、最後まで理解できなかっただけだ」
大広間の空気が変わった。
誰かが息を呑む音がした。
桃色のドレスの令嬢が、袖を掴んでいた指をそっと離した。
エリオット様は、そのことにも気づかない。
彼はただ、わたくしを見ていた。
初めて。
本当に初めて、わたくしという人間を見ているようだった。
「リリア……」
その声は、ひどく頼りなかった。
「私は、君を……」
言葉が続かない。
続けたところで、もう何も戻らないことを、彼自身が理解してしまったのだろう。
わたくしは、ゆっくりと手を離した。
「治りましたね」
「待ってくれ」
彼は顔を上げた。
その目には、涙が浮かんでいた。
「私は……私は、君を傷つけるつもりなど……」
「はい」
「知らなかった。君が、そんなふうに……」
「はい」
「すまない。私は、取り返しのつかないことを……」
「はい」
わたくしは、静かに頷いた。
そして、告げた。
「これであなたは、もう二度と、知らなかったふりはできません」
エリオット様の表情が凍りついた。
謝れば許されると思ったのかもしれない。
後悔できるようになれば、何かが戻ると思ったのかもしれない。
けれど、それは違う。
「謝罪は受け取ります」
わたくしは、婚約者としてではなく、治癒師として彼を見た。
「けれど、あなたが後悔できるようになったことと、わたくしがあなたの隣へ戻ることは、別の話です」
「待ってくれ、リリア」
彼が、わたくしの名を呼んだ。
その響きに、胸が小さく痛んだ。
でも、もう足は止まらなかった。
「さようなら、エリオット様」
わたくしは礼をした。
「どうか、これからは後悔できる人でいてください」
そう言って、彼の前から離れた。
大広間はまだざわめいている。
誰もわたくしに近づこうとはしなかった。
当然だろう。
傷つけられた令嬢が、傷つけた男を治した。
それなのに、誰もそれを慈悲とは呼べなかった。
「あれは治癒か」
誰かが、小さく呟いた。
わたくしが扉へ向かおうとした時だった。
「違う」
低い声が、ざわめきの奥から落ちた。
振り返る。
黒衣の男が、柱の影に立っていた。
夜会の灯りの中にいるはずなのに、その人だけが深い夜をまとっているようだった。
「治癒の形をしているが、あれは違う」
男は、膝をついたままのエリオット様を一瞥し、それからわたくしを見た。
「あれは、もっと丁寧で、もっと残酷な断罪だ」
大広間のざわめきが、ほんの一瞬だけ遠のいた気がした。
その目は、笑っていなかった。
責めているようでもない。
哀れんでいるようでもない。
ただ、わたくしの胸の奥を、まっすぐ見抜くような眼差しだった。
見抜かれた。
慈悲ではなかったことも。
復讐だったことも。
それでも、わたくし自身がまだ傷ついていることも。
「治癒師令嬢」
黒衣の男は、静かに言った。
「君は、あの男の痛まなかった場所を治した」
彼の視線が、わたくしの手袋へ落ちる。
先ほどまで、エリオット様の胸に触れていた手。
「では、君自身の痛みは誰が治す」
その言葉に、胸の奥が小さく震えた。
わたくしは、何も返せなかった。
治したはずだった。
終わらせたはずだった。
もう、振り返らないと決めたはずだった。
なのに、その一言で、押し込めていた痛みが静かに息を吹き返す。
ヴァルデミアス殿下。
冷酷と呼ばれる、王家の異端。
その日、わたくしは初めて、わたくしの復讐を慈悲と呼ばなかった人に出会った。
そして同時に、わたくし自身の傷を見逃さなかった人に出会った。
あの夜、わたくしは婚約を失った。
けれど、わたくしの価値まで失ったわけではなかったのだと、ようやく思えた




