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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

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満月の不在

作者: 江藤ぴりか
掲載日:2026/04/14

 僕はいつものように、裸になり、森へ向かった。

 満月の夜。その日は僕が狼獣人になる日だ。

 裸足で森を歩き、落ち葉の感触を楽しむ。……人間のうちに。


 だけどその日は、狼にならなかった。


 全裸になった自分の体を見ると、体毛は最小限で獣ではない。

 人間のままだ。

 僕は天に向かって拳を突き上げる。

 獣の身体から解き放たれたんだ。

 ……軽い。こんなにも澄んだ気分は、はじめてだ。

 でもなぜだろう、喉が渇く。

 僕は全裸で村に帰る。村人に見つからないように、慎重に。



 翌朝。

 村人たちが騒いでいる。

「うちの牛が……。何十頭も殺されてしまった」

 見ると、数頭の牛が首を中心に噛み傷を残し、殺されている。

「なんてことだ……」


 僕は喉の渇きが治まっていることに気づく。

 帰ってからの記憶はないが、寝てしまってたんだろう。

 多分、そのはずだ。

 昨晩は家に帰って、狼にならなかった祝杯をあげて、酒を煽り寝て……。

 たくさん呑んだから、記憶もないのもうなずける。

 喉が渇いてないのも、酒のせいだ。


「……まさか、だよな」


 僕はその機を境に狼にならない喜びと、喉の渇きと潤いを味わうことになる。



「まただ。家畜は財産なのに、これじゃあ領主様に叱られちまう」

「でも慈悲深いあの方のことだ。貧乏な村を見捨てはしないだろう」


 農作業の合間に聞こえる村人の声。

 僕は柄杓ひしゃくで水を汲み、畑に撒いた。


「農民は気楽でいいな。ティム、次は牧草を小屋に運んでくれないか」

「わかりました」


 僕は言われたとおり、牧草をトムさんの小屋に運び、金銭を受け取る。

 家畜小屋の裏口は鬱蒼うっそうとした森に面しており、夜になれば夜目の効かない人間ならば僕に気づくことはない。狼人間の時に会得した忍び足がここでも役に立つ。

 喉に手を当て、牛の糞尿のにおいによだれが垂れる。

 今日は村人の汗のにおいに衝動が抑えられなかった。


 ……だめだ。


 今日は墓守が留守の日。この衝動を死体だけで抑えられるのか。

 いや、抑えてみせるさ。僕は獣から理性的な人間になったんだ。



 夜になり、僕は石が整然と並ぶ墓に足を運んだ。

 木製のシャベルを、おととい死んだ村娘の墓に突き立てる。


「……当たりだ」


 やわらかい感触が伝わり、シャベルを横にほおって両手で掻き出した。

 布で覆われた肉は死にたてほやほや。布をめくって顔を見ると、見覚えのある娘だ。

 青白く、僕の腕の中で横たわっている。


「ああ、ハンナ。きみは僕のために死んでくれた。神に感謝を」


 満月の明かりの中、僕はその首に牙を添え、流れ出た血をすすった。

 死んで間もないが、血にあまり勢いはない。

 ふたつの噛み跡にめがけて唇を当てて吸い出してみる。

 ……いいぞ、甘い血が喉を潤す。


「ハンナ、ハンナ。僕のかわいい人。僕は今日だけきみを愛そう」


 人口の少ない村で貴重な死にたてだ。せめて今日だけは僕のものになってほしい。

 それにしても、家畜を襲ったのは狼だろうか。

 もし、僕と同じような人間だったら?

 家畜は生きていて、血も新鮮なんだろうな。


 ……いやいや!


 僕は理性的な人間だ。

 家畜を襲うような下劣な人間じゃあない。


 僕はひとしきりハンナの血をすすったあと、丁寧に布にくるんで元通り墓に戻した。


 冴えた頭で考える。

 新鮮な生き物の血はどれほど甘美だろうか。



 昨日は良くない考えだった。

 翌朝の僕は寝て考えも落ち着いたみたいだ。

 顔と体を布巾ふきんで拭いて、鍋からスープをすくう。

 黒パンはまだあったかと戸棚を漁ると、一匹のネズミが飛び出してきた。

 僕は反射的に手づかみし、首の骨を折る。

 皮膚を裂き、ネズミの血をすすってみた。


「おお、あたたかい。こんなにも、こんなにも……」


 ふと気づき、僕はネズミを床に投げつけた。


 ……なにをした? 僕はどうしたんだ。

 そうだ、昨日の考えが、起き抜けで無意識に実行に移してしまったんだ。

 僕らしくない。

 でも、ネズミの血はあたたかく甘かった。リンゴよりも。


 口についた体毛を布巾でぬぐって、黒パンとスープを食べる。


 ――これは、こんなにも味気のないものだったか。


 神様、どうして僕にこのような試練をお与えになるのですか。



 生きた者の血の味は、なによりも僕に馴染んでしまった。

 それから半年間、猟師の知恵を借りて小動物用の罠を張る生活に変わった。


「今日はイタチか」


 掴むと手の中で動き、僕の食欲を掻き立てる。

 肉はいらない。血だ。

 農民が罠を張るなら俺に頼めばいいじゃないかと言われたが、僕の目的は害獣駆除ではない。

 家畜や死体より、よっぽど健全な方法だろ?


 袋の中にイタチを入れると、少し大人しくなったようだ。


「ティム、今日はなにが捕れた?」

「ええ、イタチです。ニワトリを狙ったのかもしれません」

「ま、ちょっとでも被害が減ればいいんだがね」


 今すぐにでも食べたかったのだが、ここでは人目もある。


「今日はサイモンさんがいなくなったってよ」

「ここ最近、人も減ってしまったな。家畜の次は失踪者……。領主様はなにをしているんだか」


 そういえばルイスもデニスも見かけない。

 村では失踪者が相次いでいる。

 野党の仕業かもしれない。


「ああ、領主様! 最近、村では人がいなくなっているんです」


 馬車から降りた中年の紳士に村人が群がっている。


「ええ、聞き及んでいます。クレイグ村の危機として、家臣に調査を命令してますが、どうもかんばしくない。わたくしがここに来たのも、そのためですとも」

「やはり慈悲深い! 今日はサイモンが、その前はマシューが。次々にいなくなっているんです」


 領主のロアン伯爵様が僕に目を向ける。


「君はティムくん、だったね」

「一介の農民の名を覚えてくださっているんですね」


 やはり、すごいお方だ。


「これも領主の仕事だからね。……失踪者についてなにか知っていないかい?」

「ええっと、みな村人に親切で、働き者で。僕にも声を掛けてくれるような善良な人たちばかりです」


 土で汚れた手をズボンで拭いて、身ぎれいにする。

 そばで聴いている村人の目は冷たい。


「ふむ。失踪する前についてはどうかな」

「昨日、サイモンさんが杖をついて森に入っていくのを見かけました。おとといはマシューも。まるでなにかに取り憑かれたかのようでした」


 僕はありのままを伝えた。

 ロアン伯爵様はあごに手を当て考え込んでいる。


「魔女かなにかが森にひそんでいるやもしれませんね。ありがとう、君の情報は役に立つよ」


 微笑む高貴なひげの紳士はきびすを返し、また村人たちの中に消えていった。


 魔女。

 行商人が言っていた。彼女らが最近、ちまたでたくさん火あぶりになっていると。

 それだけ魔女が悪い人たちなんだ。

 森に住んでいるとしたら、一大事だ。

 僕も注意して森に入るとしよう。



 その後も人口は減っていくばかりだ。

 僕を除いても、村には老人ばかり。


「領主様は本当に調査をしているのか?」

「森の近くに住む娘もひとり残らず火あぶりにしたのに……」

「魔女なんて嘘なんじゃないか?」

「これは呪いなんだ! 高名な神官様もこんな辺鄙な村には訪れてはくれない。祈祷は期待できない」


 村の老人たちは死を待つばかり。

 僕は渇いた喉をどう潤そうかと考えていた。


「ティムのせいなんじゃないか? 魔女は女に限らないと聞いたぞ」

「行商人も男の魔女がいると言っていた。ティムだ! ティムのせいなんだ!」


 この村に留まるのも、今日が最後だ。



 最後の晩餐は派手にやろうじゃないか。

 静寂をフクロウの鳴き声が埋める。


 クレイグ村ははぐれものには優しくない村だ。


 僕が農作業の手伝いをしても、大半の村人には感謝もされない。


「やめてくれぇ!」


 ロビンのじいさんが最たる例だ。

 こき使い、休憩中にも仕事を割り振り、賃金を渋る。


「魔女だ! ティムはやはり魔女だっ――」


 イアンの馬鹿は僕に会うたび、罵声を浴びせかけた。


「あんなに良くしてやったじゃないか! それを仇で――」


 ドーンばあさんはあることないこと村人に吹き込み、居場所をなくした。


 ジーンには汚物扱い、ポールには石を投げつけられた。

 みんなみんな、村にはいらない人間だ。



「おやおや、派手にやりましたね」

「ロアン伯爵様……」


 赤い目の紳士が僕の背後に現れる。


「僕は、なぜこんなことをしているんです?」


 わからなかった。

 僕は死体と小動物で喉の渇きを潤していたはずなのに。


「わからないんのですか? 君がこの村に来たときから、わたくしは下賤な狼人間だと知っていましたよ」


 なぜ、知っているんだ。そしてなぜ、僕を殺さなかったんだ。


「わたくしはね。とても鼻が効くのです。狼のにおいをプンプンさせている人間なぞ、簡単に見分けがつく」

「なぜ、僕をほっといたんですか?」

「いやね、いい『実験体』がやってきたなと思ったんです」


 拳で口元を押さえ、伯爵は笑いを堪えている。


「わたくしはね、狼人間が高貴な吸血鬼に変われるかを君で実験したんですよ」


 今宵は満月。


「は……? え……」


 いつのまにか尖っていた耳と、狼のような鋭い牙が月明かりに照らされていた。


「ティム君。君は吸血鬼になったんですよ。喜ばしいことです。下等な血が高貴な血に上書きされた!」

「……それで? ご満足いただけたのですか」


 僕の皮肉が通じないのか、伯爵は両手を広げ夜空を仰いだ。


「ええ、満足ですとも! わたくしの思惑どおり、村を滅ぼし、計画は完璧だ!」


 僕はめられたのだ。


「伯爵は村を自らの手で滅ぼすことなく、僕に罪をなすりつけられると」


 顔から冷水をかけられた思いだ。


「なに、罪など些細なものです。これからはわたくしの部下になり、永遠の時を過ごすのですから」

「なにを言って……」

『アルベルト・フォン・ロアンが命令する。ティムはわたくしの部下となれ』


 声が脳内に届いた瞬間、僕は伯爵に膝をついた。


『はい。ティムはアルベルト様の従順な部下となります』


 僕の言葉で、僕の意に反することを喋るこの口は、本当に僕のものなのか。


 僕は一生、いや永遠に彼とともに過ごすことになるのか。

 あんなに嫌だった狼人間に戻りたい、今すぐに。

 僕の身体も言葉も今やロアン伯爵の物になってしまった。


 ――僕はどこで間違っていたのか。

 あの渇きは、僕のものだったのに。

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