満月の不在
僕はいつものように、裸になり、森へ向かった。
満月の夜。その日は僕が狼獣人になる日だ。
裸足で森を歩き、落ち葉の感触を楽しむ。……人間のうちに。
だけどその日は、狼にならなかった。
全裸になった自分の体を見ると、体毛は最小限で獣ではない。
人間のままだ。
僕は天に向かって拳を突き上げる。
獣の身体から解き放たれたんだ。
……軽い。こんなにも澄んだ気分は、はじめてだ。
でもなぜだろう、喉が渇く。
僕は全裸で村に帰る。村人に見つからないように、慎重に。
翌朝。
村人たちが騒いでいる。
「うちの牛が……。何十頭も殺されてしまった」
見ると、数頭の牛が首を中心に噛み傷を残し、殺されている。
「なんてことだ……」
僕は喉の渇きが治まっていることに気づく。
帰ってからの記憶はないが、寝てしまってたんだろう。
多分、そのはずだ。
昨晩は家に帰って、狼にならなかった祝杯をあげて、酒を煽り寝て……。
たくさん呑んだから、記憶もないのも肯ける。
喉が渇いてないのも、酒のせいだ。
「……まさか、だよな」
僕はその機を境に狼にならない喜びと、喉の渇きと潤いを味わうことになる。
「まただ。家畜は財産なのに、これじゃあ領主様に叱られちまう」
「でも慈悲深いあの方のことだ。貧乏な村を見捨てはしないだろう」
農作業の合間に聞こえる村人の声。
僕は柄杓で水を汲み、畑に撒いた。
「農民は気楽でいいな。ティム、次は牧草を小屋に運んでくれないか」
「わかりました」
僕は言われたとおり、牧草をトムさんの小屋に運び、金銭を受け取る。
家畜小屋の裏口は鬱蒼とした森に面しており、夜になれば夜目の効かない人間ならば僕に気づくことはない。狼人間の時に会得した忍び足がここでも役に立つ。
喉に手を当て、牛の糞尿のにおいによだれが垂れる。
今日は村人の汗のにおいに衝動が抑えられなかった。
……だめだ。
今日は墓守が留守の日。この衝動を死体だけで抑えられるのか。
いや、抑えてみせるさ。僕は獣から理性的な人間になったんだ。
夜になり、僕は石が整然と並ぶ墓に足を運んだ。
木製のシャベルを、おととい死んだ村娘の墓に突き立てる。
「……当たりだ」
やわらかい感触が伝わり、シャベルを横に放って両手で掻き出した。
布で覆われた肉は死にたてほやほや。布をめくって顔を見ると、見覚えのある娘だ。
青白く、僕の腕の中で横たわっている。
「ああ、ハンナ。きみは僕のために死んでくれた。神に感謝を」
満月の明かりの中、僕はその首に牙を添え、流れ出た血をすすった。
死んで間もないが、血にあまり勢いはない。
ふたつの噛み跡にめがけて唇を当てて吸い出してみる。
……いいぞ、甘い血が喉を潤す。
「ハンナ、ハンナ。僕のかわいい人。僕は今日だけきみを愛そう」
人口の少ない村で貴重な死にたてだ。せめて今日だけは僕のものになってほしい。
それにしても、家畜を襲ったのは狼だろうか。
もし、僕と同じような人間だったら?
家畜は生きていて、血も新鮮なんだろうな。
……いやいや!
僕は理性的な人間だ。
家畜を襲うような下劣な人間じゃあない。
僕はひとしきりハンナの血をすすったあと、丁寧に布にくるんで元通り墓に戻した。
冴えた頭で考える。
新鮮な生き物の血はどれほど甘美だろうか。
昨日は良くない考えだった。
翌朝の僕は寝て考えも落ち着いたみたいだ。
顔と体を布巾で拭いて、鍋からスープをすくう。
黒パンはまだあったかと戸棚を漁ると、一匹のネズミが飛び出してきた。
僕は反射的に手づかみし、首の骨を折る。
皮膚を裂き、ネズミの血をすすってみた。
「おお、あたたかい。こんなにも、こんなにも……」
ふと気づき、僕はネズミを床に投げつけた。
……なにをした? 僕はどうしたんだ。
そうだ、昨日の考えが、起き抜けで無意識に実行に移してしまったんだ。
僕らしくない。
でも、ネズミの血はあたたかく甘かった。リンゴよりも。
口についた体毛を布巾で拭って、黒パンとスープを食べる。
――これは、こんなにも味気のないものだったか。
神様、どうして僕にこのような試練をお与えになるのですか。
生きた者の血の味は、なによりも僕に馴染んでしまった。
それから半年間、猟師の知恵を借りて小動物用の罠を張る生活に変わった。
「今日はイタチか」
掴むと手の中で動き、僕の食欲を掻き立てる。
肉はいらない。血だ。
農民が罠を張るなら俺に頼めばいいじゃないかと言われたが、僕の目的は害獣駆除ではない。
家畜や死体より、よっぽど健全な方法だろ?
袋の中にイタチを入れると、少し大人しくなったようだ。
「ティム、今日はなにが捕れた?」
「ええ、イタチです。ニワトリを狙ったのかもしれません」
「ま、ちょっとでも被害が減ればいいんだがね」
今すぐにでも食べたかったのだが、ここでは人目もある。
「今日はサイモンさんがいなくなったってよ」
「ここ最近、人も減ってしまったな。家畜の次は失踪者……。領主様はなにをしているんだか」
そういえばルイスもデニスも見かけない。
村では失踪者が相次いでいる。
野党の仕業かもしれない。
「ああ、領主様! 最近、村では人がいなくなっているんです」
馬車から降りた中年の紳士に村人が群がっている。
「ええ、聞き及んでいます。クレイグ村の危機として、家臣に調査を命令してますが、どうも芳しくない。わたくしがここに来たのも、そのためですとも」
「やはり慈悲深い! 今日はサイモンが、その前はマシューが。次々にいなくなっているんです」
領主のロアン伯爵様が僕に目を向ける。
「君はティムくん、だったね」
「一介の農民の名を覚えてくださっているんですね」
やはり、すごいお方だ。
「これも領主の仕事だからね。……失踪者についてなにか知っていないかい?」
「ええっと、みな村人に親切で、働き者で。僕にも声を掛けてくれるような善良な人たちばかりです」
土で汚れた手をズボンで拭いて、身ぎれいにする。
そばで聴いている村人の目は冷たい。
「ふむ。失踪する前についてはどうかな」
「昨日、サイモンさんが杖をついて森に入っていくのを見かけました。おとといはマシューも。まるでなにかに取り憑かれたかのようでした」
僕はありのままを伝えた。
ロアン伯爵様は顎に手を当て考え込んでいる。
「魔女かなにかが森に潜んでいるやもしれませんね。ありがとう、君の情報は役に立つよ」
微笑む高貴な髭の紳士は踵を返し、また村人たちの中に消えていった。
魔女。
行商人が言っていた。彼女らが最近、巷でたくさん火あぶりになっていると。
それだけ魔女が悪い人たちなんだ。
森に住んでいるとしたら、一大事だ。
僕も注意して森に入るとしよう。
その後も人口は減っていくばかりだ。
僕を除いても、村には老人ばかり。
「領主様は本当に調査をしているのか?」
「森の近くに住む娘もひとり残らず火あぶりにしたのに……」
「魔女なんて嘘なんじゃないか?」
「これは呪いなんだ! 高名な神官様もこんな辺鄙な村には訪れてはくれない。祈祷は期待できない」
村の老人たちは死を待つばかり。
僕は渇いた喉をどう潤そうかと考えていた。
「ティムのせいなんじゃないか? 魔女は女に限らないと聞いたぞ」
「行商人も男の魔女がいると言っていた。ティムだ! ティムのせいなんだ!」
この村に留まるのも、今日が最後だ。
最後の晩餐は派手にやろうじゃないか。
静寂をフクロウの鳴き声が埋める。
クレイグ村ははぐれものには優しくない村だ。
僕が農作業の手伝いをしても、大半の村人には感謝もされない。
「やめてくれぇ!」
ロビンのじいさんが最たる例だ。
こき使い、休憩中にも仕事を割り振り、賃金を渋る。
「魔女だ! ティムはやはり魔女だっ――」
イアンの馬鹿は僕に会うたび、罵声を浴びせかけた。
「あんなに良くしてやったじゃないか! それを仇で――」
ドーンばあさんはあることないこと村人に吹き込み、居場所をなくした。
ジーンには汚物扱い、ポールには石を投げつけられた。
みんなみんな、村にはいらない人間だ。
「おやおや、派手にやりましたね」
「ロアン伯爵様……」
赤い目の紳士が僕の背後に現れる。
「僕は、なぜこんなことをしているんです?」
わからなかった。
僕は死体と小動物で喉の渇きを潤していたはずなのに。
「わからないんのですか? 君がこの村に来たときから、わたくしは下賤な狼人間だと知っていましたよ」
なぜ、知っているんだ。そしてなぜ、僕を殺さなかったんだ。
「わたくしはね。とても鼻が効くのです。狼のにおいをプンプンさせている人間なぞ、簡単に見分けがつく」
「なぜ、僕をほっといたんですか?」
「いやね、いい『実験体』がやってきたなと思ったんです」
拳で口元を押さえ、伯爵は笑いを堪えている。
「わたくしはね、狼人間が高貴な吸血鬼に変われるかを君で実験したんですよ」
今宵は満月。
「は……? え……」
いつのまにか尖っていた耳と、狼のような鋭い牙が月明かりに照らされていた。
「ティム君。君は吸血鬼になったんですよ。喜ばしいことです。下等な血が高貴な血に上書きされた!」
「……それで? ご満足いただけたのですか」
僕の皮肉が通じないのか、伯爵は両手を広げ夜空を仰いだ。
「ええ、満足ですとも! わたくしの思惑どおり、村を滅ぼし、計画は完璧だ!」
僕は嵌められたのだ。
「伯爵は村を自らの手で滅ぼすことなく、僕に罪をなすりつけられると」
顔から冷水をかけられた思いだ。
「なに、罪など些細なものです。これからはわたくしの部下になり、永遠の時を過ごすのですから」
「なにを言って……」
『アルベルト・フォン・ロアンが命令する。ティムはわたくしの部下となれ』
声が脳内に届いた瞬間、僕は伯爵に膝をついた。
『はい。ティムはアルベルト様の従順な部下となります』
僕の言葉で、僕の意に反することを喋るこの口は、本当に僕のものなのか。
僕は一生、いや永遠に彼とともに過ごすことになるのか。
あんなに嫌だった狼人間に戻りたい、今すぐに。
僕の身体も言葉も今やロアン伯爵の物になってしまった。
――僕はどこで間違っていたのか。
あの渇きは、僕のものだったのに。




