第3話-②
午前二時頃、空襲警報が鳴った。
甲高い電子音が部屋中に響く。アラタは即座に目を覚ました。心拍が一気に上がる。体は反応していたが頭がまだ追いついていなかった。
部屋のドアが開いた。父が立っている。
「アラタ、用意して行くぞ」
「いつの間に帰ってきてたんだ」
「一時間前だ。一旦戻った。すぐ出る」
父はそれだけ言って廊下に出た。アラタは布団から飛び出してTシャツに短パンの上にパーカーを羽織った。階段を駆け下り、父が玄関で靴を履いていた。
外に出ると近くの住民たちはもう動き始めていた。住宅街には異様な雰囲気があった。何人かが走っている。乳児を抱えた母親が早足で歩いていた。少し離れた場所でよろめいている老人がいた。
アラタは老人に駆け寄った。
「おじいさん、シェルターまで一緒に行きます」
「おぉ.......すまんのう......」
老人の腕を取った。父が先を歩いている。アラタは老人の歩幅に合わせて歩いた。住宅街は街灯が消えていた。停電ではない。空襲時の灯火管制だ。今日は月のない夜だった。それでも雲の切れ間であの光がまた揺れているのが見える。前より明るかった。
近所の公民館の地下シェルターはすでに十数人が集まっていた。子どもを抱えた女性が壁際に座っていた。男性が一人、端末で何かを確認していた。誰も話さない。話す言葉が見つからないのか話す余裕がないのかはわからなかった。
老人を椅子に座らせると老人が頭を下げた。
「ありがとうのう。本当に助かった」
「気にしないでください。お互い無事に帰れます、安心してください」
言ってから根拠がないことに気づいた。誰もが無事に帰れるかどうかなどわかっていなかった。
アラタは壁にもたれて端末を出した。ユイに連絡した。
「大丈夫か」
返事は来ない。
遠くで爆発音がした。一回。少し間を置いて二回目。続けて三回。シェルターの壁が微かに震える。天井から細かい埃が落ちる。子どもが泣き声を上げ母親が必死にその頭を抱えた。
もう一度送った。
「大丈夫か」
返事は来ない。
父が隣に来て壁にもたれた。端末を見ている。表情は変わらなかった。アラタも表情を変えなかったが、端末を握る手に少し力が入っていた。
爆発音は四回、五回と続いた。その後しばらく静かになる。また一回。また静寂。アラタは頭の中で距離を計算していた。ここからユイの家までは北東に直線で約三キロ。爆発音は遠かった。たぶん大丈夫だ。たぶん。ただ、たぶんと言葉に出せるほど落ち着いてはいなかった。
夜明けまで返信は来なかった。
警報解除のサイレンが鳴ったのは午前五時を過ぎた頃だった。
外に出ると街の東側から黒い煙が高く伸びていた。夏の青空に向かってまっすぐに太い柱のように立ち上っている。
遠くのビルが一棟、外壁を黒く焦がしていた。道路の一部に瓦礫が散らばっていて作業員がもう片付け始めている。救急車のサイレンがいくつもの方向から重なって聞こえていた。
「臨海部のようだ」と父が低く言った。
「テクノフォースの施設が狙われた。ただ、幸いなことにここからは離れてる」
「ユイの家の方向ではないのか」
「狙われた施設とはずれている。おそらく無事だ」
「おそらく...」
「現時点で言えることはそれだけだ」
父は煙の方を一瞥してアラタを見て言った。
「俺は本部へ行く。お前は家に戻れ」
「...いや、ユイの家を見に行く」
父が少し立ち止まった。
「そうか、気をつけろ。崩れかけの建物には近づくな」
そう言って父はそのまま駅の方向へ歩いていった。後ろ姿が黒い煙の手前で小さくなっていく。アラタは反対方向に走り出した。
走りながらユイの端末画面を確認した。昨夜送った二通のメッセージにはまだ既読がついていなかった。
ユイから連絡が来たのは、昼前だった。
走り続けて汗だくになり息を整えている時だった。端末の通知音が聞こえ、アラタは画面を見た。
「家族が、死んだ」
一行だけだった。
アラタは画面を見た。文字を読んだ。意味を理解した。もう一度読んだ。それからすぐに走った。
ユイの家のあった坂を駆け上がった。坂の途中で息が切れたが速度は落とさなかった。坂を上りきった時、見慣れた風景があるはずのそこにはなかった。
瓦礫の山があった。
建物の骨格だけが歪んで残っている。壁のほとんどは崩れ落ちている。表札が地面に落ちていた。「月城」と書かれた板が半分埃で覆われていた。
鉢植えがあった場所には何もない。オレンジ色の花は跡形もなかった。アラタはまだその花の名前を知らないのに。
ユイは瓦礫の前に座り込んでいた。
髪が乱れている。肩が小さく震えている。ただそこに座って崩れた家を見ている。瓦礫の向こうに何かを見ようとしているような立ち方だった。
「ユイ」
返事はなかった。
「ユイ」
もう一度呼んだ。ユイがゆっくり振り返る。
目が赤い。けれど泣いていない。泣き終わったのだろうことがアラタにはすぐわかった。頬に乾いた涙の跡が残っていた。
「お父さんとお母さんと颯太が」
ユイが言った。声が平坦だ。感情を削り取ったような声。
「死んだ。警報が鳴ってすぐに家族で避難しようとした。でも、私が外に出た瞬間、まだみんなが家にいた時に家がなくなった。あの爆発で」
アラタは何も言えない。
「私だけ外に出てた」とユイが続けた。
「お母さんが忘れ物取りに戻ってお父さんが追いかけて颯太も付いていってそれで」
声が途切れた。
「あと一秒、私が外に出るのが遅かったら私も死んでた。あと一秒、誰かが早かったらその人が助かってた。たった一秒の違いだよ。神様ってそういう一秒でも人を選ぶの?」
アラタは何も言えない。
何を言うべきか考えた。どんな言葉も今のユイには届かないか傷つけるかのどちらかだと思った。それでも何か言わなければと思った。けれど言葉が出てこなかった。沈黙が一番マシな選択だ。それを選んだ自分が情けないと思った。
ユイがまた瓦礫の方を向いた。
手を組む。
空を見上げた。
「神様」
小さな声だった。
「いるんでしょ」
声が震える。
「お願い」
涙が落ちた。地面に染みを作る。
「お願いだから、助けてよ」
息が乱れている。
「家族を……返して」
風が吹いた。瓦礫の中の埃が舞い、表札の横を細かい砂が流れる。
奇跡は起きなかった。
しかしその時、アラタは見た。
遠くの空で、微かな光が揺れる。神観測の夜から何度か見てきた光と同じだ。違うのは明るさだ。今までの光は星のように小さかった。今のは小さな太陽のような明るさを持っている。雲を通り抜けて地上から肉眼で見える。
光は一拍で強くなってまた鎮まる。波打つような瞬きだ。
ユイがそれを見ている。
ユイの表情はアラタの位置からは見えなかった。
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