第19話 覚醒
G2の二月のある朝、ユイに覚醒が来た。
覚醒という言葉は施設で使われていた。祈りが一定の深さに達した時、翼の枚数が増える。その現象をそう呼んでいた。ユイはそれが来ることを知っていた。桐島に言われていた。ただ、いつ来るかはわからなかった。準備のしようがない種類の変化だった。
その朝は、いつも通り礼拝棟に入った。いつもの位置に座った。目を閉じた。祈り始めた。
家族を返してください。颯太を。お父さんを。お母さんを。
いつもの言葉だった。五ヶ月間、毎朝繰り返してきた言葉だった。
祈っている途中で、背中に変化があった。
翼が増えた。
二枚だったものが、四枚になった。広がりが変わった。光が変わった。温かさが変わった。痛みはなかった。むしろ自然だった。増えた翼が最初からそこにあったかのような感覚だった。
隣にいた沢田が小さく息を飲んだ。
桐島が前から来た。礼拝中だったが、そのまま歩いてきた。
「外に出ろ」
と静かに言った。
広場に出ると、他の訓練生たちも後について来た。誰が声をかけたわけでもないが、礼拝棟から出てきてユイを見ていた。
桐島が言った。
「翼を全部広げてみろ」
ユイは広げた。四枚の翼が開いた。光が散った。朝の山に白い光が広がった。
誰も何も言わなかった。
桐島は少しの間、ユイを見ていた。それから言った。
「飛んでみろ」
ユイは翼を動かした。体が浮いた。四枚の翼の力は二枚の時とは明らかに違った。力の入れ方が変わっていた。以前は努力して上がっていた高さに、自然に達した。
そのまま上昇した。山の稜線より高くなった。雪を被った山々が見えた。東の方角に、広い平野が見えた。その先に東京があるはずだった。
ユイは空中で止まった。風が吹いた。冷たかったが、体は温かかった。
体が変わっていく。桐島が言っていた通りだった。変わることが怖いと言ったことがあった。桐島は
「変わることの先に、求めているものがある」
と言った。今、その言葉が少しだけわかる気がした。変わることの先に、颯太がいる。家族がいる。
ユイは東の方角を向いたまま、しばらくそこにいた。
空から見る世界は、地上とは違った。山々の輪郭がはっきり見えた。川が光っていた。遠くに人工物の輪郭が見えた。この世界はまだ続いている、とユイは思った。戦争が続いていても、山はここにある。川はここにある。春が来れば雪は溶ける。
ゆっくりと降下した。地面に足がついた瞬間、自分の体が変わったことを改めて感じた。数ヶ月前は、地面に立つことが当たり前だった。今は、空中にいることも同じくらい自然なものだった。
その夜、ユイは自室の鏡を見た。
腕に、薄い模様があった。
最初は影だと思った。部屋の光の加減だと思った。よく見ると、皮膚の下に細い線のようなものが走っていた。茎のような形をしていた。内側の腕に沿って、肘の手前まで伸びていた。首の付け根にも、同じような模様があった。
触ってみた。痛くはなかった。熱くもなかった。ただそこにあった。
ユイはしばらく鏡を見ていた。翼を少し出してみた。腕の模様が、翼の光の色と少し似ていた。
翌朝、桐島に見せた。
「これは何ですか」
桐島は腕の模様を見た。少し間を置いてから言った。
「神のエネルギーが体に深く馴染んでいる証拠だ。強く信じて、深く祈るほど、こうして体に表れることがある。珍しくはない」
「消えますか」
「消えない。しかし害はない」
ユイは腕を見た。茎のような細い線が、腕の内側を走っていた。
「怖いか」と桐島が聞いた。
「……少し。でも、それより」
ユイは少し考えた。
「これが深く信じている証拠なら、怖いというより、確認みたいな感覚があります」
桐島は少し表情を和らげた。
「それでいい。お前の進み方は正しい」
桐島は立ち上がって、部屋を出ようとした。扉の手前で少し止まって、振り返らずに言った。
「体の変化を人に見せる必要はない。ここ以外では、できれば隠しておけ」
「なぜですか」
「それぞれの理由がある」
それだけ言って、桐島は出ていった。
ユイは桐島が言った言葉の意味を少し考えた。理由はわからなかった。しかし桐島がそう言うなら従うことにした。長袖で腕を隠した。首の模様はスカーフで隠した。特に不便ではなかった。
翼が四枚になってから、訓練の内容が変わった。
翼の操作だけでなく、光の障壁を実戦的に使う練習が中心になった。光の障壁を展開して、攻撃を防ぐ。複数の方向から来る攻撃を同時に処理する。移動しながら障壁を維持する。どれも難しかった。できないことが一つずつ減っていく感覚があった。
うまくいかない日もあった。連続して失敗すると、焦りが出た。焦ると翼がぶれた。翼がぶれると障壁がぶれた。悪循環だった。そういう時、石川が短く言った。
「一回止まれ。深く祈れ。それからやり直せ」。
その通りにすると、体がリセットされた。石川はあまり多くを語らなかったが、言う言葉は毎回正確だった。
石川が訓練の相手をしてくれることが多かった。ある日の休憩中、石川が言った。
「来た頃と別人みたいになったな」
「そうですか」
「来た時は一人でいることが多かった。今は違う。ここに根を張ってきた感じがする」
ユイは少し考えた。「家族を取り戻すまで、ここにいるつもりです。根を張っているというより、それだけです」
石川はしばらく黙っていた。それから言った。「俺も同じだ。妻がいた。もういない。神が完全顕現すれば、もしかしたら……って思ってる。それだけでここにいる」
ユイは石川を見た。石川は続けなかった。
それ以上聞かなかった。聞かなくてもわかった。ここにいる人間は、みんな何かを失って、何かを信じてここにいる。信じ方は違っても、向かっている方向は同じだった。
石川はしばらく黙っていた。それから言った。
「お前は今、何のために強くなってる」
「家族を取り戻すためです」
「それだけか」
ユイは少し考えた。
「それだけです。今は」
「それだけで十分だ」
石川は短く言った。
「目的が一つだと、迷わない。迷わないと強くなれる」
ユイはその言葉を聞いた。確かにそうだと思った。迷っていた時間があった。最初の避難施設にいた頃、神を信じるかどうかを迷っていた。今は迷っていない。目的が一つになった時から、体の動きが変わった。訓練の吸収が速くなった。石川の言う通りだった。
G2の三月になった。
山の雪が少しずつ溶け始めていた。川の音が聞こえるようになった。春が近いことがわかった。
ユイは毎日祈り続けた。祈るたびに、翼の光が少し強くなる気がした。腕の模様が少し濃くなる気がした。確かめる方法はなかったが、感覚としてわかった。体が変わっていく速度が、最近上がっている気がした。
施設での毎日が、東京での毎日と全く違うものになっていた。以前は何気なくやっていた祈りが、今は一回一回の重みが違った。祈るたびに、何かが積み上がる感覚があった。
桐島が言っていた言葉がまた頭に浮かんだ。変わることの先に、求めているものがある。
颯太の顔が思い浮かんだ。
颯太が施設を見たら何と言うだろうかと考えた。翼を見たら、目を丸くするだろう。すごい、と言って、自分も触ろうとするだろう。ユイが触らせてあげると、颯太は翼の根元をそっと触って、「温かい」と言うだろう。そんな気がした。
お母さんは泣くかもしれない。お父さんは何も言わず笑って、写真を撮ろうとするかもしれない。
ユイは目を閉じた。その光景が、頭の中ではっきり見えた。まだ現実ではない。でも、向かっている先にある光景だった。
もうすぐだ、とユイは思った。
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