第17話 G2
G1の十二月が終わろうとしていた。
長野の修練施設では、年末も特別なことはなかった。礼拝して、訓練して、祈って、眠る。その繰り返しだった。施設には独特の時間の流れがあった。都市のリズムとは全然違った。曜日の感覚が薄かった。日付よりも、その日の礼拝が何回目かの方が体に刻まれていた。
ユイが施設に来てから、約四ヶ月になっていた。
色々と変わっていた。翼がそうだった。来た直後に生えた時は小さかった。腕を広げた程度の大きさもなく、光も弱かった。今は、礼拝で翼を広げると、周囲の訓練生が振り向くほどの光になっていた。翼の大きさも、来た頃の一・五倍以上になっていた。
それから、体の感覚が変わっていた。翼を出している間、体が軽かった。重力が変わったわけではないが、体が動くのが自然になっていた。地面を走るより、翼で動く方が自然に感じることもあった。
桐島には何も言われなかったが、見ている目が変わっているのはわかった。
施設には三十人ほどの訓練生がいた。
年齢も背景も様々だった。ほとんどが大人だった。みんな何かを失っていた。家族だったり、仕事だったり、住んでいた街だったり。それぞれの理由で神を信じることにした人たちだった。最初の頃、ユイはその中で一人だけ若かった。話しかけづらかった。しかし四ヶ月が経って、少し変わっていた。
話をするようになった人間が二人いた。
一人は沢田という三十代の女性だった。穏やかな話し方をする人で、礼拝の時にいつも隣に座った。ユイが施設に来た最初の日に
「何を祈ればいいのか」
と聞いた時に答えてくれた人だった。子供を戦争で失っていた。詳しいことは聞かなかった。聞く必要がなかった。ここにいる理由は、みんな似たようなものだった。
もう一人は石川という二十代の男性だった。無口で、訓練中以外はほとんど話さなかった。しかし訓練の時だけは、的確なことを言った。翼の細かい制御の方法を教えてくれたのも石川だった。
「翼って、力を入れすぎると逆に動かなくなるんだよ」と石川が言った。
「抜く感覚が大事。筋肉と一緒で、力を入れた後に抜かないと次の動作が遅れる」
「どうやって抜くんですか」
「意識をなくす。翼のことを考えるのをやめる。そしたら体が勝手にやる。きみは真面目すぎる」
任せる、という感覚がユイにはわかりにくかった。でも石川の言う通りにしてみると、翼の動きが確かに滑らかになった。それからは毎日練習した。意識的に意識をなくす練習をした。それは最初、矛盾していると思ったが、繰り返すうちに体がわかってきた。
桐島との個別面談は月に一度あった。訓練の進捗を確認する時間だった。
十二月の面談で、桐島が言った。
「翼の成長が速い。来た頃から比べると、光の出力が三倍近くになっている。体に変化を感じるか」
「感じます。翼を出している間、体が軽い気がします。それから、翼を出す前から、出そうと思った瞬間に体が準備を始める感じがあります」
「それは正常だ。神のエネルギーが体に馴染んできている証拠だ。もうすぐ次の段階に来る」
「次の段階、というのは」
「翼が増える。今は二枚だが、深く信じて強く祈れるようになると、翼の枚数が変わることがある。覚醒と呼んでいる」
ユイは少し考えた。
「神は……死者を取り戻すことができますか。完全顕現すれば」
桐島は少し間を置いた。
「以前も言った。完全顕現した神がどこまでの力を持つかは、今の段階では誰にもわからない。断言はできない」
「でも、可能性はあるってことですよね?」
「否定はしない。ただ、お前が今できることは一つだ。信じ続けて、力をつけることだ。それ以外にない」
ユイは頷いた。信じ続けること。それしかできないとわかっていた。できることがそれだけであっても、今は十分だった。
大晦日の夜、施設は静かだった。
年越しの礼拝があった。全員が礼拝棟に集まって、日付が変わる瞬間を神に向けて祈った。
ユイも祈った。
G1は全部失った年だった。家族を失って、東京を失って、アラタとも連絡が取れなくなった。空襲の夜から始まった喪失が、四ヶ月経った今もそのままそこにあった。何も解決していなかった。ただ、時間が経っていた。
来年は、とユイは思った。
来年は何かが変わると信じていた。信じなければ、ここにいる意味がなかった。神がいる。神は聞いている。そこに向かって進み続けることが、今の自分にできることだった。
日付が変わった。G2になった。神の観測から二年目の年が始まった。
礼拝棟の全員が、それぞれの祈りを続けていた。声を出す者はいなかった。ただ静かに、それぞれの願いを抱えて、同じ方向を向いていた。
ユイは目を閉じたまま、少しだけ翼を出した。背中が温かかった。
颯太、とユイは思った。お父さん。お母さん。
今年こそ、会えると思う。
G2の一月が始まった。
訓練のペースが上がった。祈りの時間だけでなく、実戦的な訓練が増えた。翼を使って移動しながら光の盾を展開する練習。空中からの攻撃方法。空中での急激な方向転換。複数の戦士が連携して動く訓練。これまでは体を作る訓練だったが、一月からは実際の戦闘を想定した内容になった。
前線に出る準備が、少しずつ進んでいた。
ユイはそれをどこかで感じていたが、深く考えなかった。ここまで来たのだから、前に進むしかなかった。力をつけることと、前線に出ることは、目的のためには同じ線上にある話だった。
訓練の内容の変化は、体にも出た。以前は翼を出して飛ぶだけで十分だった。今は、飛びながら同時に攻撃や防御をする訓練が中心になっていた。両方を同時にやることが、最初は難しかった。翼の制御に意識を向けると武装の状態がぶれる。武装の展開に集中すると飛行が不安定になる。どちらも自然にできるようになるまで、繰り返した。
石川が言った。「体に覚えさせるしかない。頭で考えてる間は、まだできてない」
「頭で考えないためには、どうすればいいですか」
「考え続けることだよ。考えすぎて、考えることを体が飽きた時に、体が自動でやり始める」
その言葉が妙に納得できた。飽きるまで考える。繰り返す。その先に、自動になる瞬間が来る。訓練はその繰り返しだった。
訓練の合間に、沢田と話した。
「怖くないですか。実際に戦うということが」とユイは聞いた。
沢田はしばらく考えた。
「怖い。でも家族を失ってから、もっと怖いことを知ってしまった。大切な人を失う方が、ずっと怖い。それをもう知っているから、前に進める気がする」
ユイはその言葉を聞いた。
同じだと思った。大切な人を失う怖さ。それはもう経験していた。だったら、それ以上怖いことはなかった。あの夜以上に怖いことは起きない。そう思えば、前に進めた。
ユイは窓の外の山を見た。雪が深く積もっていた。東京では見なかった景色だった。こんなに静かな冬があるということを、東京にいた頃は知らなかった。
春が来るまでに、もっと強くなろうとユイは思った。
沢田の言葉が、その日の夜も頭に残っていた。
大切な人を失う方が怖い、という言葉。
それをもう知っているから前に進める、という言葉。
ユイはその言葉を自分の中に置いた。使える言葉だと思った。前に進めなくなりそうな夜に、使える言葉だった。
アラタのことも、ふと思った。今頃どこにいるのかを考えた。東京にいるはずだった。ユイが出ていった後も、東京にいるはずだった。メッセージを送ろうとして、できなかった日のことを覚えていた。今送ったら返事が来るだろうか。来るとは思った。しかし何を書けばいいかわからなかった。神を信じると言ったユイに、アラタは何と答えるだろうか。想像するだけで、手が止まった。
いつかわかってくれる、とユイは思った。家族を取り戻せた時、神の力が本物だと証明できた時、アラタにもわかってもらえる。そう信じていた。
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