僕と悪魔と七つの願い
桜も散り、空気にじめじめとした湿気が混じり始めたころ。一人の少年が小学校からの帰り道を歩いていた。普通ならば小学生が一人で帰宅するなんてあり得ないことだが、少年は特に気にする子はない。
そんなことを気にするより、お気に入りのプラスチックビーズで作られたブレスレットを様々な角度から確認するのに忙しいようだった。
「あっ、ねこちゃん」
そんな少年の前に一匹の黒い猫が現れた。かわいいものに目がない少年の興味はブレスレットから黒猫に移ったようで、子供特有の物怖じしない手つきで猫触ろうとするが、ひょいと黒猫はその手を避けてしまう。
そのまま黒猫は少年の足元をするりと抜け、雑木林へと消えていってしまった。
まだ日は高く、特に帰る理由もない少年はそのまま誘われるように雑木林の奥へと足を進めたのだった。
黒猫を追って雑木林に入ったはいいものの、当然ながら猫と人間ならば猫に地の利がある。
少年は枯葉や泥に足をとられ、五分もしないうちに少年は黒猫を見失ってしまった。ただ、猫が向かった大体の方向はわかっているし、ちょっとした冒険心に火が付いた少年はどんどんと奥へ進み、やがて少し開けた場所に出た。
木々が避けているかのように見えるそこの中央には半分ほどが崩落した廃墟があった。
黒ずんでひび割れたコンクリートで出来た三階建ての廃墟に流石の少年も少し足をすくませるが、二階のひび割れた窓で素早い影が横切るのが目に入る。
先ほどの猫に似たように感じた少年は恐怖を振り払い廃墟へと足を踏み入れるのだった。
廃墟の中は外観ほど不気味なものではなかった。窓も多く、崩落した箇所やひび割れた箇所から日の光が差し込んでいて明るいし、仄かな薄暗さが涼しくどこか心地よい。
床にはかすれて読めなくなった雑誌や瓦礫が散乱しているものの、不快さを感じるほどではなく、人によってはどこか小綺麗さすら感じるだろう。
少年も恐怖は一切なくなったようで、きょろきょろとしながらどんどんとフロアを探索していった。
しかし、一階、二階と見て回ったが、黒猫は居らず、見間違いだったのだろうかと思い始めたとき、上の階からカランと物音が聞こえる。
反射的に先ほどの黒猫だと思った少年は階段を駆け上がる。
三階にほとんど天井はなく壁もほとんど崩れており、非常に見通しがいい。
あまり音を立てないように静かに、そして素早く音源の辺りを見回す。
いた。先ほどの黒猫だ。
黒猫は半壊した箇所のそばで空き缶を前足でコロコロと転がしながら遊んでおり、どうやら少年には気が付いていないようだ。
先ほどの失敗を踏まえ、今度は逃げられないようにそっと近づく少年。
慎重に、慎重に、その黒い毛並みに手が触れようとした瞬間。
突如として浮遊感に襲われる。
長らく人の手が入っていない廃墟、その崩落した箇所の近く、少年の重さに耐えられず床が崩れたのだ。
だが当の少年はなにが起こったのかというのは理解していない。ただ遅くなっていく世界で、自身と黒猫が危ない状況にあるということだけは理解し、空中で黒猫を抱きかかえ、背中に来るはずの衝撃に恐怖しながら、心の中で母に助けを求め、強く目をつぶった。
しかし、五秒、十秒と時間が経過しても少年が痛みに襲われることはなかった。
恐る恐る目を開けると少年の前に顔があった。男性にも女性にも見えるその顔だったが、何よりも目を引くのは、その額から生えた角だった。黒猫よりも遥かに暗い角と翼をもった存在はまるで神話で語られる悪魔のようだ。少年は悪魔に抱きかかえられていたのだ。
悪魔は翼をゆっくりと動かしながら地面に足をつけ、割れ物でも置くかのようにそっと少年を解放した。
黒猫は少年の腕をさっさと抜け出し、逃げるようにどこかへ消えてしまうが、少年は気にも留めない。
今の少年の中にあるのは、生まれて初めて見た本当に美しいものへの感動と悪魔に対する感謝だった。
「あっありがとうございまちゅ!!」
「フフッ、落ち着いてください。大丈夫ですよ」
緊張から思わず舌を噛んでしまった少年に芝居がかったしゃべり方で微笑みながら返答する悪魔。
「こちらこそ私の小さな友人を助けてくれたようで、ありがとうございます」
「ちいさなゆうじん??」
少年は不思議そうに悪魔を見つめる。当然のことだ。自身が助けられはせど、助けたものなんてなかったし、そもそも小さな友人とやらに思い当たる節なんてなかった。
「この黒い猫のことですよ」
そう言った悪魔はなにも持ってない手を少年の前で掲げたかと思うと、次の瞬間には先ほどの黒猫が首根っこを掴まれる形で捕まっていた。黒猫は心底嫌そうにジタバタと暴れているが、そんなことはお構いなしに、悪魔は自身の力を誇示するかのように少年に黒猫を見せつけ続ける。
「す……」
「す?なんですか?」
「すっごい!!!!とってもキレイでそんな不思議なことまでできるなんて!!」
目をキラキラとさせながら少年。一方の悪魔は少し驚いたのか微笑みが崩れている。
「ほかにどんなことができるの!?」
ただこの質問をした瞬間に欲しかった質問が来たからなのか、すぐ微笑みを顔に貼り付け、猫を放し、少年の質問に答えた。
「なんでもです」
「なんでも?すっごーい!!物語の魔法使いさんみたい!!」
「ええ。ええ。そうでしょう。すごいでしょう」
ますます目を輝かせて尊敬の眼差しを向ける少年に気分を良くしたのか、誇るかのように胸を張る悪魔。
「そのすごい力で、少年。あなたの願いを叶えてあげましょう」
「え?ホントに?いいの?」
疑うということを知らない少年は自身が最も叶えたかったことを悩むこともなく口にした。
「じゃあ……じゃあ!僕を女の子にして!!」
「お安い御用です」
悪魔がパチンと指を鳴らすと、少年は強烈な眠気に襲われる。
「安心しておやすみください。寝ている間に全ては終わっていますから……フフッ」
なにが面白いのか笑う悪魔。意識を失う前に少年が目にしたのは、毛を逆立て物陰からこちらの様子を伺っている黒猫だった。
地面から伝わる振動で目が覚める。空はもう赤く染まり始めており、少年は先ほどまでの出来事を思い出す。あれは夢だったのだろうか。
だが、目の前にある雑木林はところどころ枝が折れており、落ち葉が乱れている。
「夢だったのかな……」
ぽつりと少年は呟く。
「いえいえ。夢ではございませんとも。少年……いえ元少年」
「その声は……魔法使いさん!!」
少年の周りをふよふよと浮かぶ悪魔が居た。近くを車が通りすぎるが、運転手はそのことを気にする様子もない。むしろ一人で騒いでいるように見える少年へ、怪訝な視線を向けていた。
「どうです?元少年、新しい体は?」
そういわれて初めて少年は自身の体の変化に気が付く。自身で短く整えていた髪は肩まで伸び、元々細かった体はより華奢に、かつて存在していた下半身のモノもその存在を感じない。
「僕……女の子になれたんだ」
絞り出すように呟いたその声からは寂しさがありつつも、心底感動していることが伝わる。
「それにしてもは元少年変わっていますね。なんでも叶うと言われて、少女になりたがるとは……」
相変わらず芝居がかった口調で微笑みながら喋っている悪魔だが、その微笑には先ほどまではなかった、小馬鹿にするような、変わったおもちゃでも見つけたような、いやらしさが含まれている。
そんなことはつゆ知らず、浮かれている元少年、少女は返答する。
「もうセールの時間だから、あとで教えてあげるね!」
「いただきます」
少女が今日の戦利品である唐揚げ弁当に手を付ける。悪魔はそんな少女をジッと頬杖をつきながら見つめている。
「い……いる?」
「ああ!いえいえ違うのです。そのようなものが欲しかったわけでは訳ではございません」
少しの気恥ずかしさと無言で見られるという気まずさから、少女は悪魔に唐揚げを差し出す。
が大袈裟な身振りをしながら断る悪魔。
久々の豪華な夜食を分けることが少し嫌だったのか、一瞬、ほっとした少女はそのまま差し出そうとした唐揚げを頬張る。
「そのようなことより話を戻しましょう。一体なぜ、そんな珍妙な願いをしたのですか?」
口をもごもごと動かしながら何かを考えるかのように虚空に目を向ける少女。考えがまとまったのか、口の中のモノを嚥下し話し出した。
「ちゃんとするため……かな」
俯きながら喋りだした少女。その表情には悲しみと寂しさが入り混じっている。
「ちゃんと……ですか。いまいち要領を得ませんね」
「あはは……そうだよね!少し変な言い方したかも」
人に対する機嫌の取り方とでもいうのだろうか、自嘲を交えた少女のその表情はとても小学生のものとは思えない。
「魔法使いさんはかわいいものは好き?」
「大好きですよ」
食い気味に答える悪魔に少し気圧される少女。
「僕もね。大好きなんだ。ねこさんとか、わんちゃんとか」
「それがどうかされたのですか?」
「でも男の子がそれを好きなのは変だよね」
深い怨嗟が籠った言葉だった。
「お母さんに言われたんだ。ちゃんと男の子らしくしなさいって。でも僕はかわいいものが好きで……それをちゃんと嫌いになれない僕が嫌いだった」
「ですが、それならば他にも願い方がありますよね?」
悪魔が至極当然の疑問を刺すように投げかける。
「例えば可愛いものを嫌いになるようするとか、叱られるのが嫌でしたら母上に叱られないようにして、でもいいでしょう」
悪魔は芝居がかった大袈裟なしゃべり方をやめ、あの微笑は崩れ、真剣に少女を見つめている。
「魔法使いさんはすごいね。確かにそんな願い方もよかったかもしれない」
「でしたら何故……」
「僕が思いつかなかったのもあるけど、一番は羨ましかったからかな」
「羨ましかった?」
コクリと相槌を打つ少女。
「だって女の子だったら、可愛いものが好きでもちゃんとしてるでしょ?嫌いにならなきゃいけないけど……僕は悪い子だから。好きでいたかったし、ちゃんと……普通になりたかった」
「なるほど。つまり、お母さまの言うことを聞きながら、それでいてかわいいものが好きでいたかった……と」
「うん。悪い子で……」
「素晴らしい!!」
再び悪魔は大袈裟なしゃべり方をするが、その言葉には今までとは違い、本当に心の底からの感動が籠っている。一方の少女は予想外な反応だったのか唖然としている。
「自身の願いを叶えながらもお母さまの願いも叶える。なんという愛!なんという聡明さ!あなたのような才児に恵まれ、お母さまも幸せでしょう」
微笑ながらも大声でまくしたてるように語る悪魔。小学生の少女には少々難解な言葉があったが、褒められていることは理解できたようで、先ほどまでの表情がだんだんと明るくなる。
「ホントに?お母さん褒めてくれる?」
「ええ。ええ。きっとお褒めになるでしょう。私も感動いたしました」
少女に子供らしい表情がもどる。
「それでご相談なのですが、しばらく私をあなたの傍において頂けないでしょうか?」
「僕は良いけど……お母さんがダメって言うかもしれないよ?」
「いえいえ、問題ございません。私は魔法であなた以外には見えないのですよ」
「でも……」
「もちろん。ただでとは言いません。一日一回ですが、あなたの願いを叶えてあげましょう」
「ホント!?」
「ええ。ホントですとも。お母さまにバレるようなこともありませんし、あなたは願いを叶えてもらえる。いいことしかありません」
「じゃあ……いいよ」
「ではよろしくお願いいたしますね」
礼儀正しく立ち上がりお辞儀をする悪魔。その表情は、目は大きく開かれ、口角は吊り上がり、今にも笑いだしそうな悍ましい、まさしく悪魔といったものなのだが、伏せられたその顔を少女が知ることはないのだろう。
チャイムが鳴り響き、教室の時計が三時を指し示したころ。少女は黙々と机の中にしまった教科書をいつの間にか黒色から赤色へ変わったランドセルへと移していた。ほかのクラスメイト達は昨日まで少年だったクラスメイトが少女に変わっていることに誰も気が付いていない。誰も関わろうとすらしない。まるで少女だけがこの世界から切り離されたかのような異様な状況だが、少女は気にする様子もない。
これが少年の時から変わらない普段通りの日常だからだ。
上履きを履き替え、帰り道をたどりながらポッケに入れていた財布を確認する。百円玉が三枚と十円玉と一円玉が何枚か入っている。昨日の夜食を嬉しさのあまり奮発してしまったことを後悔する。
(でも明日はお母さんが帰ってくるし大丈夫か)
七日ぶりの母との再会に思いを馳せ、足取りが軽くなる。
(魔法使いさんはまだ寝てるのかな?)
朝起きた時に悪魔は相変わらず浮いた状態で腕を枕に寝ていた。わざわざ起こす理由もなかったので、そのまま寝かせておいたのだ。
いつも通りの何もない平和な一人の帰り道。誰との関りもないが少女が孤独を感じることはなかった。腕にあるわずかな重みが母との繋がりを感じられるからだ。
ブレスレットを見て、偶ににやついたりしながら、しばらく歩き、そろそろいつもご飯を買っているスーパーに到着しそうな時だった。
「さーがーしーまーしーたーよー!!」
空から自宅で寝ているはずの悪魔が空から降ってきた。少女を助けた時のように翼を助けた時のように大袈裟に翼を動かすこともない。空を泳ぐかのように自由自在に移動している。
「魔法使いさん!」
「ええ。あなたの魔法使いですとも。どうして起こしてくださらないのですか!」
「気持ちよさそうに寝てたから……起こすのも悪いかなって」
「確かに惰眠を貪るのは大好き……ですが!あなたの願いを迅速に叶えることが私にとって一番大切なのです。ですが、お気遣いありがとうございます」
「ごめん……いや、ありがとう?よくわかんないけど、次からは起こすね」
「ええ。お願いいたします」
終始微笑を崩すことがない悪魔。普通の人ならば不気味で疑わしく感じるのだろうが、少女はそんな怪しい悪魔を一切疑うこともなく要望を承諾した。
そのまま二人はスーパーの中へと入っていく。
「すごい。本当に魔法使いさんのこと見えてないんだ」
「ええ。本当ですとも。私、嘘はつきませんよ」
小声で話しながら総菜コーナーを目指す少女と空中で寝転がるような姿勢でついてくる悪魔。そんな二人に注目する存在は誰もいない。せいぜい今日も一人でおつかいえらいな~といった微笑ましいものを見るようなものだ。
「今日はこれ……かな」
昨日奮発しすぎた影響か少女が手に取ったのはおにぎり二つだった。
「おや?それだけで大丈夫なのですか?」
「うん。昨日使いすぎちゃったみたい。仕方がないよ。それに今日さえ乗り切ればお母さんが帰ってくるから」
そのままセルフレジまで歩いていく少女。通り際にとある商品が目に入るが、すぐに目を背け、逃げるように帰っていった。
「ふむ……」
「ただいまー」
誰もいないアパートの一室に少女の声が響く。
「おかえりなさいませ」
後ろから悪魔が言う。
「なんかいいね!一人じゃないって感じ」
「これから毎日言って差し上げますよ」
「魔法使いさん……ありがとう!」
そのままランドセルを自身の部屋の前に置き、手を洗いに行く少女を尻目に悪魔は一足先にリビングへと向かう。
三分もしないうちに少女がおにぎりをもって、リビングに来ると机の上には一つのケーキが置いてあった。
「え……」
「先ほど気にしていらしたようなので、勝手ながら用意させて頂きました」
どこからともなく悪魔が現れ、明らかに動揺している少女に話しかける。
「あーなんだ!魔法使いさんか。びっくりしたぁ!ありがとう」
少女はなにか肩透かしを食らったような落胆をしながらも、純粋な感謝を悪魔に伝える。
「いえ……何かお気に召しませんでしたか?」
「いや違うよ。僕が勝手に期待しただけだから。ごめん」
少女は少し気まずそうにするが、悪魔はそれに配慮することなく質問する。
「お母さまですか?」
「え……まあ……うん」
核心を突かれた少女は申し訳なさそうに目を伏せる。
「出過ぎた真似を……申し訳ございません」
深々と頭を下げる悪魔。
「別に魔法使いさんは悪くないよ!僕が悪いんだ。誕生日だからって、お母さんは忙しいのに」
謝られるとは思わなかった少女は慌てて弁明する。
が、そんな少女はお構いなしにある単語に反応し、勢いよく頭をあげた悪魔は騒ぎ出す。
「お誕生日……お誕生日だなんて!どうして教えてくださらなかったのですか!」
先ほどまで頭を下げていたとは思えないほどの切り替えの早さだった。
「え?あ?いや?うん?ごめんね?」
あまりの落差に思わず謝ってしまう少女。
「このような貧相なケーキではいけませんね。もっと豪華でなければ!」
悪魔が指を鳴らすとケーキには砂糖細工、火の灯ったろうそく、チョコので出来たプレートが追加される。
「ふう……」
一仕事したといった具合で額の汗を拭うような仕草をする悪魔。そんな悪魔を見て少女は思わず笑いだす。
「なにかおかしかったのでしょうか?」
「あはは!どういう感情なのそれ!申し訳なさそうにしてた僕がバカみたいじゃん!」
ひとしきり笑ったあと少女は席へとついた。そうして、おにぎりのパッケージを破り悪魔へ話し出す。
「ありがとう。魔法使いさん」
「いえいえ。むしろ勝手にこのような真似をして申し訳ございません」
「……ホントはさ。お母さんが用意してくれたんだと思ってたんだ」
「お母さまが、ですか?」
「うん。普段は仕事で忙しくて家にいないけど、一回だけ僕の誕生日に帰ってきてくれたことがあるんだ。その日も今日みたいに仕事で忙しいって言ってたんだけどさ、家に帰ったらお母さんがいて……嬉しかったな……その時にお前こーいうの好きだろってくれたんだ」
愛おしそうにブレスレットを見つめながら語る少女。
プラスチックの紐とビーズで作られている安っぽいブレスレット。だがビーズに着いた細かな傷とよれてきている紐が、少女がいかにそれを大切に愛用しているかを示していた。
「本当にお母さまがお好きなのですね」
「たった一人の家族だからね」
次の日、体育の授業を少女は受けていた。今日は起こされた悪魔も一緒だ。
先生と思われる大柄の男性が長ったらしい説明をしているが、要はかけっこのような形で五十メートル走をするらしい。
だが説明されているとうの少女はというと完全にうわの空だった。このようなことより七日ぶりに会う母親のことのほうが大事なのだろう。一方の悪魔はというと少し興味を持っていた。腕を頭部の後ろに組み昼寝をするかのような姿勢だが、片目は開けており、その視線は走者たちに向いている。
そうして、一人の走者が小学生にしてはかなりの速さで一位を取った時に抱えていたある疑惑は確信に変わる。
悪魔は少女に自分から語り掛ける。
「あの子凄いですね。みんなから褒められて、一目置かれて」
「うん。すごいね」
悪魔との会話すらも今の少女にとっては些事なのだろう。適当な相槌のみが返ってくる。
「きっとあの子のお母さまも、あの子のことを沢山褒められるのでしょうね」
その言葉を聞いた途端、うわの空だった状態から普段の状態に戻る。
「僕も頑張ったら褒めてもらえるかな!」
急に大声を上げた少女にクラスメイト達は一瞬視線を向けるが、少女であることを確認すると、なんだと慣れたように各々別のクラスメイトと話し出したり、グラウンドの砂で遊んだりすることに戻る。
担任ですらチラリと視線を向けただけで、注意することすらせずタイムを記録する作業へと戻る。
そうして少女も悪魔もその異様な反応を気にすることもなく続ける。
「ええ。沢山褒めてくれるでしょうね。」
「ホント!?」
もはやクラスメイトたちは目線すら向けることはない。
「ですが、頑張るだけじゃ難しいかも知れません」
「そうなの?」
「ええ。みなさん頑張っていますからね。あなたが頑張ったとしても、普通として褒めてもらえないかも知れません」
「そっかー」
露骨にがっかりとしながら話に興味を失った少女だが、まだ耳に届くうちに悪魔が話を続ける。
「しかし、クラスで一番速かったとしたら別でしょう」
「でも僕、足遅いし、運動苦手なんだよね。出来る限りはやってみるけど、無理だと思うよ」
「私があなたの足を速くしてさしあげましょう」
悪魔がそう告げる。少女にとって酷く惹かれる誘惑だ。
「あなたは私にただ願う。それだけであなたはお母さまに褒められ、お母さまは誇れる子供を手に入れる。ああ。なんと素晴らしい話なのでしょうか」
「いやダメだと思う」
だが少女はこの誘惑には屈しなかった。
「おや?どうしてです?」
「いやだって……なんかズルい気がする」
「ズルい?はて?何がズルいのでしょうか」
「だって走ってる子の中には、足を速くするために頑張ってくれる子もきっといるのに、それを僕が願うだけで超えるのは……」
「足を速くするために頑張ってる?あなたも私の小さな友人を助けるために頑張ってくれたではありませんか。あなたはそのお礼を受け取っているだけ。頑張っているという点なら命を懸けたあなたのほうが余程、頑張っているんじゃないですか」
「でも……」
「そもそも私はあなた以外誰にも見えていません。一体そのズルを誰が証明するというんです」
少女はしばらく考える悪魔の話にも一理あるような気がしたからだ。それに褒められたことがない少女にとって、母親に褒められるという言葉はあまりにも魅力的だった。
そうこうしている間に少女の番が来た。
悩んだ末に少女は選んだ。
「僕をクラスで一番足が速くしてください」
「お安い御用です」
パチンと悪魔が指を鳴らす。少女になった時とは違い意識を失うようなことはない。ただ出来るようになった気がする。根拠の無い自信が少女の中に溢れ出す。
パンっという号砲とともに少女は駆け出し、一瞬でゴールする。
先ほどまで一番速かったクラスメイトより圧倒的な速さ。
6.96秒でのゴールだった。
少女は昨日までより遥かに速くなった足で帰り道を駆け抜ける。息は上がっているが、そんなことはどうでもよかった。
早く母親に会いたい、会って今日のことを話して褒めてもらいたい。誕生日おめでとうと一日遅れでもいいから言われたい。その一心だった。
階段を駆け上がり、アパートの部屋のドアを開け放ち、手を洗うことさえ忘れ、リビングに行くと、明かりもつけず机に突っ伏した状態の母親が居た。
「ただいま!!お母さん!あのね!今日ね!」
少女が抱き着きながら、自身の母に今日あったことを告げようとする。
女の子になってから初めてだけど、僕のことわかるかななんて一抹の不安がよぎるが、すぐに気にする必要なんてなかったことに気が付く。
「うるっさい!こっちは仕事で疲れてんの!部屋に戻れ!」
告げる前に返ってきたのはいつも通りの母の怒声だった。
「違う。違う。僕がちゃんとしたら……お母さんは……」
少女は部屋のベットの上で悩むなにかがおかしいと。
あのようなはずではなかった。普通になった自分なら褒めてくれるはずだった。そうして一つの言い訳を思いつく。
「僕のことがわからなかったんだ!だからあんな風に……」
「いえいえ!そのようなことはありえませんよ!なぜなら最初から少女として生まれたように作り直しましたから」
悪魔が少女の疑念に食い気味に答える。待っていましたとでも言わんばかりに。
「じゃ、じゃあ昨日ケーキを食べたのがダメだったとか」
「ケーキを食べたことが??ははゴミもないのにどうやって食べたことを知るのですか?」
「じゃあズルをしたのがバレたとか!」
少女がヒステリックに喚くが、そんな少女を嘲笑しながら悪魔は答える。
「あり得ませんね。私が見えているのなら、あの程度の怒声だけで済むわけがありません」
「じゃ、じゃあ……」
「そもそも話してすらいないことを、お母さまが存じているわけないじゃありませんか」
少女の思考内での逃げ道がどんどんと塞がれていく。徐々に見ないようにしていた現実が近づいてくる。
「そもそも魔法使いさんが褒められるって言ったんじゃん!!僕は……」
「耳が痛いお話ですが、どのようなことを言われようと無視すれば良かったのです。私は少しも願ってもいないことを叶えられるほど、万能ではないので」
一息つき悪魔が続ける。
「そもそも普通の母親は話くらい聞くものです。あのような状態だとはこちらとしても想定外です」
笑みを浮かべとどめと言わんばかりに告げる。
「あなた、愛されてないのでは?」
少女が見ないようにしていた現実を。
朝、鳥のさえずりで目が覚める。起きた少女は洗面台で顔を洗いながら昨日のことを反省する。
「おはようございます」
顔の水気を拭き取ったとき、先ほどまで居なかった悪魔が少女の後ろに立っていた。
「あっ魔法……使い……さん」
少しバツが悪そうに鏡の中の悪魔と目が合わないように目を反らす。数秒の気まずい沈黙の後少女は口を開く。
「昨日はごめんなさい」
悪魔のほうに向きなおり、頭を下げる少女。
「いえいえ。私の方こそ売り言葉に買い言葉とはいえ言いすぎました。心から謝罪します。申し訳ありません」
いつかの謝罪より前口上も長く、深く頭を下げた一見、真摯な謝罪。
ただその言葉に謝意は一切籠っていない。いつも通りのふざけた芝居がかった口調だ。
「昨日あれから考えたんだ。お母さんはきっと仕事でとっても疲れてたんだって」
不穏な語りに悪魔は首を傾げる。
「なのに僕が自分のために休んでるお母さんを邪魔しちゃったんだ!魔法使いさんが悪かったんじゃない」
「ああ……フフッ……いえ……大丈夫ブフォ……ですよ……フフッフ」
あれだけのことがあったのに少女は依然として母を信じ、自身を叱咤する。
期待以上の少女に思わず悪魔の微笑は意図せず崩れるが、真上を向いている悪魔の顔は少女からは決して見えないだろう。
「だから今日はお母さんのために願うことにしたんだ」
「ククッ一体なにを願うのです?……フフッ」
「お母さんが仕事で忙しくならないようにしてください」
「フッお安い御……フフッ……用です」
期待以上に純粋で、愚鈍で、執着的ながらも自分が大好きで、どこまでも他人任せな、愛おしい少女に思わず笑いたくなるが、左手でパチンと指を鳴らし、願いを叶えるのだった。
今日こそはという思いで少女は帰り道を歩く。昨日のような焦った態度はダメなのだ。きっと。
出来ることはやった。怒られないようちゃんと女の子になったし、褒められるために足も速くなった。仕事についても魔法使いさんに願った。完璧だと少女は心の中で自画自賛した。一方の悪魔は微笑なんてとっくに崩れ、もう楽しみで仕方がないといった様子だ。
アパートのエレベーターに乗り、部屋の前に着く。そうして少女は深呼吸をし、ドアを静かに開いた。
玄関には母親のハイヒールがある。一回帰ってきた後はいつもしばらく帰ってこないのだが、悪魔へと願った影響だろう。仕事が終わり家へと帰ってきたのだ。
ランドセルを部屋に置き、手を洗いリビングのドアに手をかける。中からは母親の鼻歌が聞こえてくる。昨日の言葉が少女の中で反芻するが、意を決してドアを開く。
リビングの机に座りスマホを弄っている母が居た。
「ただいま。お母さん」
震えた声で機嫌を伺うように、自身の母を不快にさせぬよう声を絞り出す。
スマホを動かす指がピタリと止まり少女の方を母親が向く。
「おーおかえり」
昨日のようないつものような怒声でないことに少女は安堵し、泣きそうになる。
「お母さん。僕……僕……」
「なんで泣きそうなんだよ。どうかしたのかー?」
何でもないことのように落ち着いた声で返答する母に少女は近づき話し出す。
「しゃべりたいことが沢山あるんだ」
「おーそうかそうか大変だったなー」
「うん!大変だった……だからその一言……」
「んー?なんだー?」
これまで一番母にしてほしかったことを伝える。
「褒めてほしいなって」
言えたようやく伝えることが出来た。ブレスレットも嬉しかったし、ご飯のお金をくれるのも感謝している。だが少女が少年だった時から、いやもっと昔から欲しかったたった一つのモノ。それをようやく言葉にすることが出来た。
少し感極まり少女の目から涙が零れだす。
「は?なんで?」
理解が出来なかった。ただ酷く聞きなじみのある声は続く。
「なんで金食い虫の寄生虫のことなんか褒めなきゃいけないわけ?」
その言葉を理解したくない。そう体が告げるかのように震える。いつものように恐怖もあるのだろう。
「大体一言っていうから『いつも僕のようなゴミで、生まれてきたことが間違いの愚図を養ってくれて、ありがとうございます』とか感謝の言葉かと思ったらなに?褒めろって図々しくない?」
嫌でもその言葉が脳に届き、呼吸が速くなる。
「なんでそんな図々しいお願いが出来んの?やっぱりあの男の血が入ってるから?」
ああ自分は間違えたのだと嫌でも理解する。
「なあ!!おい!!なんか言ってみろや!!」
最後に覚えているのは恨みの籠った顔で迫ってくる母の姿だった。
時刻は零時を回ったころ。冷たい感触に少女は目が覚める。
どうやらリビングで寝てしまっていたらしい。
こんなところで寝ればあんな悪夢も見るだろうと自身を納得させ、壁伝いに洗面所へと向かう。
起きたらまず顔を洗う。母親からの教えの一つだ。
洗面所へ着き、顔を洗う。顔の一部が何故かひりひりと痛み出す。
そんなはずはない。あれは夢だったのだから。僕は母から愛されているのだから。あんな酷いことをされるはずがない。
「怖いのですか?」
悪魔の声だった。
「ま、まふぉうつかいしゃん」
呂律がうまく回らない。きっと驚いてしまったからだろう。そう自身を納得させる。
「ええ。魔法使いさんですよ?調子がよろしくないようですね。私のこともうまく呼べないようだ」
相変わらず芝居がったしゃべり方だが、少し違う。上擦ったその声は何かを期待しているかのようだ。
「いけませんね。明かりもなしに洗顔など……洗面所が水浸しになってしまいますよ」
「い、いまふぁらじふんのうぇっとれねふふぁら」
「ふむすぐ寝るから?明かりを点けるのが勿体ないと?」
必死に頷く少女。絶対に明かりを点けさせちゃいけない。そんな予感がするのだ。
「なに多少の電気代でうだうだと言うようなお母さまではないでしょう?それより洗面所が水浸しになってしまうのが問題です。調子もお悪いのでしょう?しっかりとその目で自身を確認しなくては……ね?」
少女がまだ一度のも観たことのないはずの口角が吊り上がった悪魔の表情が浮かんでくる。
「それではつけますよ~」
カウントダウンもなく突然につけられた白いライト。鏡には見たくもない少女自身の姿が反射する。
顔全体がパンパンに腫れあがり所々に引っ掻き傷がある。ブレスレットの下には締め付けたような跡があり、腕、足、体のいたるところには青い痣と小さな火傷あとがあった。
「ああ……ああ……」
もはや、うめき声いや……声とも取れない音が少女の口から流れ出る。
「おやおや……傷が痛みますか?いえ違いますよね?傷なんかじゃあなたは傷つかない。きっといつも通り都合のいい純粋さを盾に出来たでしょう。あなたの体に残ったその傷は……」
「きへほ!!」
少女が消えろと念じた瞬間悪魔は消えた願いが叶ったとでも言うのだろうか。
だが悪魔が最後まで言わなくても、もう分かってしまった。理解してしまえた。
母が自身のことなど愛していないことを。
あれから何時間が経過しただろうか。少女は部屋から出ることなく布団を被り、座り込んでいる。
体の節々がまだ痛むが腫れなどは引いたように見える。
薄暗い部屋で少女はジッと見ていた。
ブレスレットとまだ消えないそのブレスレットの跡を。
あれだけのことをされたのに少女は母のことが嫌いにはなれなかった。
思い出は美化されるものだ。職場で貰った安っぽいゴミを息子に適当に渡した。それが偶然誕生日だった。
それだけの話なのに。
少女の中では未だに母の愛の証として残り続けている。跡と見比べ、恐怖と恨み、そして愛がごちゃ混ぜになりながら、少女は精神的に限界を迎えつつあった。
そんな中、部屋に見知ったあの悪魔が現れる。
「消えろって言ったでしょ」
強い憎しみと恨みが籠った視線を悪魔に向ける少女。
「はて?なぜそのような視線を向けるのです?」
心底わからないのか小首をかしげ、もはやその腐った性根を隠そうともしない悪魔。
「お前のせいで僕は……」
「おwまwえwのwせwいwでwww」
「なにがおかしい!!」
悪魔に掴みかかる少女。抵抗することなく宙を飛んでいた悪魔は地面へと叩きつけられる。
「おかしいにも程があるでしょう。私はあなたの望みを叶えただけ。というか私には基本的な能力を除き、それくらいしか出来ないのです。人の望みを叶える魔法とでも言いましょうか?あなたが望んだことを望んだように叶えただけ。まあ多少の先回りやお喋りはしましたがね」
「だまれ!」
少女が悪魔の顔を殴る。どうやら浮いたり出来る悪魔にも物理攻撃は効くらしいしっかりとした手ごたえを感じることが出来る。
「おやおや。荒んでしまいましたね。魔法使いさんと慕ってくれるあなたも嫌いではなかったのですが」
「うるさい!」
もう一発。
「純粋で、愚鈍で、お母さまに執着しながらも利己的で、どこまでも他人任せな、愛おしい少女……いえ元少年でしたね」
「だまれ!だまれ!」
二発。
「最初からお母さまに対する愛なんて捨ててしまえば良かったんですよ。あれがあなたを愛することなんて、天地がひっくり返ってもないでしょうに」
「うるさい!消えろ!」
二発。
「消えませんね。本当は聞きたいんでしょうか?それとも殴って憂さ晴らしを?ああ、親子ですものね。本当に……」
「死ね!!死ねぇ!!」
「そっくりだ」
もう殴るのすら億劫にだった。この恨みも恐怖も怒りも殺意も悲しみも記憶も愛も全て投げ出したい。
もう考えたくもない。
「お安い御用です」
悪魔が指を鳴らす。
「ああ愛しい元少年……純粋だったあなたが、ここまで汚れてしまうとは」
ぼこぼこになった悪魔の顔に浮かぶのは微笑でも嘲笑でもない。
慈しみだった。儚げな存在を触るよう元少年の頬に触れる悪魔。
「憐れなで愚かな元少年……次の選択は間違わないよう心から祈っています」
何を言っているのか理解できないまま少女の意識はブツリと途切れる。
早朝ベッド差し込む光で目が覚める。とりあえず顔を洗おうと起き上がるとカランと音が鳴る。音の方向を見るとプラスチックのビーズある。どうやらブラスレットが千切れたようだった。
母から貰った大事なもののはずだが、特に悲しい気持ちにはならない。それどころかとてつもない母に対しての嫌悪感が湧いてくる。何故こんなものを大事にしていたのだろうか。そもそも私の事が嫌いなはずの母が何故こんなものをくれたのだろうか。少女はそう思いながら壊れたブレスレットをゴミ箱へと投げ捨てる。
顔を洗いリビングに着くと机の上にはから揚げ弁当と一枚の紙切れがあった。
「これと傷はサービスです??」
意味がわからないが、とりあえずから揚げ弁当を食べ、学校へ向かう。
教室へ着くとなにかざわついている。自身を遠巻きになにかを話しているようだった。
「あの子学校変わったんじゃなかったの?」
「ズル女が来た」
「そもそもなんで休んでたわけ?」
「あの変なブレスレットどこにやったんだろ」
ものの見事に自身の悪口ばかりだった。今までは気にならなかったはずなのに異様にそれらの声が頭に響く。教室を出ようとしたとき一人の教師が現れる。
「おい!なんで無断で休んだり、なんかしたんだ!」
無断で欠席なんて身に覚えがない。なんなんだコイツと思いながら自身を掴もうとしている手を避け、少女は走る。
学校を出て家にでも帰ろうとしたとき異様な疎外感を感じ始める。思わず、身震いする。ただなにか帰る場所は学校でも家でもない気がした。
一匹の黒猫が少女の前に現れる。
「ねこちゃん……」
少女から逃げるように雑木林に入っていった猫を反射的に少女は追いかける。
気が付くと廃墟のようなところに少女はいた。猫は毛を逆立てこちらを警戒しており、何故か少女の目から涙が出てくる。
先ほどより疎外感が強くなり、この世界に居場所がないかのような不安感に苛まれる。
口から一つの言葉が零れる。
「私を必要としてくれるところに行きたいな」
「お安い御用です」
パチンと指を鳴らす音が響いたかと思うと、次の瞬間、少女は自身を包む黒い翼と共に空へと落ちていた。
「最初からそれで良かったのですよ」
少女の後ろから聞き覚えのある声が響くのだった。
まだまだ拙いと思いますので、批評と感想お待ちしております。
可愛いものを虐めるために執筆始めました。